前回から「今でも忘れることができない勤労感謝の日シリーズ」を行っている。
2012年11月23日はバックレたバイト先(コンビニ)に給料を回収に向かうことになり、私にとっては人生でトップ5に入るであろう長い一日だった。
今日は翌2013年の話をする。
2013年11月23日。
その日、私は何気ない当たり前の日常に感動していた。
大げさな話ではない。
切符を買って電車に乗ること。
売店でお金を払って食べ物を買うこと。
電話で同僚と話をすること。
一人で街を歩き回ること。
私がそんなことで感動していた理由とは…
その日が初めての海外旅行から帰ってきた日だったからである。
なお、今回は当時の私の心情を少しでも詳しくお伝えしたいと思い、該当日に至るまでの過程をかなり長目に書いていることをお許し願いたい。
(※:今回の記事で登場する金額はすべて2012~2013年当時のものであり、現在とは異なる箇所もあります)
・憧れていた国
話は前回の記事の最後に触れたバイトをバックレた直後まで遡ることになる。
ブラックバイトから解放された私は、ハローワークで仕事を探すついでに大型ショッピングモールの本屋に立ち寄って留学雑誌や書籍に目を通していた。
そこでたまたま東南アジアへの留学を紹介している本が目に留まった。
その中で取り上げられていた国のひとつがマレーシアだった。
マレーシアの公用語はマレー語だが、英語が多く使われており、治安も悪くないらしい。
他にも「日本に対して友好的」だとか、「英語、マレー語の他に中国語も使われているため、生活の中で3つの言葉を習得できる」だとかいろいろ載っていたが、私が一番魅力的だと思ったのは、日本と比べて1/3という物価の安さだった。
英語学習を始めたばかり時はアメリカに憧れていたが、もしアメリカに留学するとなると3ヶ月で100万円はかかると言われた。
しかし、マレーシアでは100万円で1年間留学ができ、住まいも学校の寮でなく、アパートを借りることもできる。
ちなみに、すでにコンビニのバイトは辞めていたものの、マニュアルにがんじがらめで、客を絶対的に服従する神様のように崇め、1mmのはみ出しも許さない冷たいフォーマットへの恐怖が頭に残っていた。
逆に商店街のように古くても、自由で、のんびりした生き方への憧れがあった。
これは私の偏見だが、マレーシアはそのイメージにピッタリだった。
「そんな世界でのんびり暮らせたらいいなあ…」
そんな空想に浸っていた私は2012年11月に留学先をマレーシア(場所は首都のクアラルンプール)に決定した。
書店で先ほどの留学ガイドと指さし会話帳のマレーシア版(最新版はこちら)を購入し、その日から英語と並行しながら、マレー語と中国の単語も(少しだけ)覚えることにした。
・資金集めに精を出すが…
バイトを辞めた後は少々時間がかかったものの、ハローワークで見つけた工場の仕事で働くことになった。
このブログでも度々登場するお馴染みの職場である。
(その他多数、詳しくは記事内のリンクを参照願いたい)
その職場では面接の時点で留学するつもりであることを告げ、少しでも費用を稼ぐため、通常のアルバイト・パートよりも多くのシフト(出勤日数に限ると正社員よりも多い)に入ることになった。
私はこれまで、これほど真剣に働いた経験はなかった。
決して無理がない計画を立てたつもりだったが、ちょうど私が働き出した頃から、政権交代による急激な円安や、新興国特有の物価上昇が起こったため、私は少しでも多くのお金を稼ぎたかったのだ。
仕事を始めた時は(後にバックレることになる)前職と打って変わって順調そのもので、気兼ねなく話が出来る同僚(今ではこのブログでコケ下しているタケダ(仮名)のこと)にも恵まれたが、私が就業した時点で操業開始半年という職場だったため、職場環境や運営にゴタゴタした点も多く、人の入れ替わりも激しかった。
私は年配者から散々コキ使われたり、服薬が必要な持病を患いながらも、何とか耐え凌いだが、この記事で取り上げたお局パートのホリカワ(仮名)の暴走事件で完全に気持ちが切れた。
さらに、数日後、私が働き始めた時からお世話になり、残業、パートの相談役、本社からの叱責などありとあらゆる汚れ役を務めていた正社員のキモト(仮名)も来月限りで退職するという話をタケダから聞かされた。
彼が辞めたら、同僚の正社員であるB(仮名)は、パートであり職場では唯一年下である私にいろいろと責任を押し付けてくることは間違いない。
しかも、彼は正社員でありながら(定時で帰宅できない可能性がある場合を除いて)作業場に入ってこない。
とどめに、数少ない理解者のタケダも「辞める」と言い出す始末である。(後に撤回)
そんなことになれば、職場がたちまち無秩序になることは火を見るより明らかだった。
私はそうなる前に一刻も早くそこから抜け出そうと考えていた。
これまでであれば、すぐにでも退職していただろうが、今回は期限までに資金集めを行うという目標があるため、次の職場を見つけるまで辞められそうにない。
たとえ、私の希望に沿う職場があったとしても、3ヶ月後の11月には現地に下見へ行くために一週間仕事を休むことになる。
働き始めて早々に長期休暇を認めてくれる職場があるとも思えず、私はせめてその時まではこの職場で働かなければならないことを悟った。
・毎日の英語学習
ここで少し語学学習の話をしよう。
2012年の11月にマレーシアへの留学を決意した私は英語に加えて、マレー語と中国語の学習も少しだけ行うことにした。
マレー語は文法が比較的簡単だったので、本の巻末に載っていた内容とインターネットで入手した資料を手掛かりに勉強していた。
一方の中国語はマレーシアガイドだけでは不十分だったので、別に中国語の本を買って勉強していた。
マレー語と中国語をそこまで本気でないからこそ、それなりに上手く進んでいたが、英語は全く進展しなかった。
先ず文法である。
これは2012年の学習開始以来、10冊以上目を通したが、全く身に着かなかった。
本を読んだら書いてある理屈は分かる。
だが、英語の文章を読んだり、書いたりする時には、この知識が全く役に立たない。
過去にこちらの記事で詳しく書いた通り、問題を読み、少しの間、自分の頭で考えてみても全く分からず、回答と解説を読んで「ああこういうことか」と納得するということの繰り返しであった。
単語も日本語から英語を読んで、それをノートに書き出すということは簡単にできるのだが、その単語が文章の中に出てきても上手く読み取れない。
そして、一番厄介だったのが、英会話フレーズである。
当時の私は自分の言いたいことを日本語で考え、思いついた単語を文法のルール通りに並べて喋っていた。
そのため、会話の慣用句が全く使えなかった。
例えば、旅行のための英会話の本に、機内で飲み物を頼む時の表現があった。
・コーヒーをください
I would like to have a coffee.
それを見て
「自分のやりたいことを伝えたいのに何でwillの過去形のwouldを使うんだ?」
「何で『好き』の意味のlikeがこの文章で出てくるんだ?」
「I want coffeeでいいじゃねえか!!」
「何でこんなにややこしい言い回しをすんだよ!?」
とブチギレるといった具合に。
英語の勉強を始めて1年以上が経過し、仕事終わりに毎日3時間も学習に費やしておきながら、この体たらくである。
当時の私は「英語よりもマレー語や中国語の方が使えるのではないか」とさえ思っていた。
それでも、文法については学習は始めて1年半が経過した2013年の8月頃、ようやく進展があった。
図書館で森沢洋介氏の「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」を借り、大量の文をひたすら英訳するという練習をやってみた。(本の効果についてはこの記事に詳しく書いてある)
この練習法でようやく文法の使い方が(少しは)身に着いた。
しかし、この時点では私は「この本を完全に使いこなしていた」とは言えなかった。
この本は英訳をパッと口に出すことを目的とした英会話のための本であるが、私は単語の復習と同じくひたすらノートに書くことばかりやっていた。
だから、英会話のような瞬発性は上達しなかったし、大量にこなすこともできなかった。
疲れるし。
というよりも、工場で1日7時間半も重装備の作業服で仕事をして、その後に一日3時間もノートに外国語を書き続けるなんて、「当時の私はどんだけ体力があったんだ!?」と自分でも思う。
・「いざ、出発!!」という気分では…
話を職場に戻す。
2013年9月。
私は転職を考えつつダラダラと仕事を続けていたが、キモトの退職後、事態は意外にも好転した。
彼はこれまで主に梱包や検品、出荷作業など比較的責任の重い仕事を担当していた。
しかし、残留した正社員のBは相変わらず、作業場に入ってこない。
この作業は主に私と仲が良かったタケダ一人の仕事になり、たまたま彼の隣の作業場で仕事をすることの多かった私が彼の仕事を暫定的に手伝うことが増えた。
この仕事はこれまで社員しか行ってこなかった。
特に楽な仕事しかやりたがらないホリカワは、この作業場に近づくことさえなかった。
逆に、彼女は自分がやりたくない仕事行う私に対して一目置くことになり、その作業場にいることで彼女のパシリから解放された。
さらに、私はキモトが行っていた在庫の整理や倉庫の片づけも引き継いだ。
この仕事自体は楽で簡単だが、時間潰しには最適で、私は毎日1時間の残業に留まらず、社員の退社時間まで職場にいることになった。
しかも、この作業を通じて「この製品は何に使うもので、他の製品との違いは~で、通常はどこに置いてある」などという社員しか知らなかったことにも精通し、仕事の全体像を把握できるようになった。
このことで正社員とパートの両方から徐々に信頼されるようになった。
そんな中、私をパシリとしてコキ使っていたホリカワが「10月限りで退職する」と言い出した。
これで私がこの職場を辞める理由はなくなった。
キモトやホリカワに限らず、この時期は人の出入りが激しかった。
私はちょうどそのタイミングで仕事全体を把握できるようになったことで、新たに加わった従業員(かつてこのブログに登場したオカダ(仮名)や、シモヤマ(仮名)ら)からも頼られるようになった。
私がそのことに少し喜びを覚えたことは否定できない。
ちなみに、私より長く勤めている社員はB一人だけとなり、彼は私を信頼してくれたのか、自分が休みの日は必ず私が出勤するようにシフトを組むと言ってくれた。
そんな中、留学の下見のためマレーシアに行く時が迫っていた。
私にとっては待ちに待った日であるが、正直言って、この時の私は「海外へ出ていく」というモチベーションに曇りがかかっていた。
前年の11月から、他の楽しみの一切を犠牲にして、留学のことだけを考えて、資金集めや語学学習に時間と労力を費やしてきた。
私がこの職場で働くことになった理由も、海外へ行くための資金を貯めるためだけである。
だが、何の皮肉か「マレーシアへ行くぞ!」というまさにその時、この職場で妙な居心地の良さを感じていた。
「日本に居たくないから海外へ行くはずなのに、これだったら出て行く意味なくない?」
かつて、このブログでワーキングホリデーの経験者の話をしたことがあるが、彼と全く同じような状況に陥っていた。
・出発前夜の想い
ここで私のマレーシア旅行の予定表を紹介する。
休暇を取るのは18日から23日(勤労感謝の日)までの6日間で、上海経由でクアラルンプール(KL)へ向かう。
日本を発つのは18日月曜日だが、飛行機の出発時刻は午前9時と早く、私の実家からでは始発電車に乗っても搭乗手続きに間に合わない可能性が高いため、前日の夜に空港まで地下鉄で数駅程の場所に住んでいる当時大学生の弟の家に泊めてもらうことになった。
日本を出た後は上海で乗り継ぎをすることになり、19日の未明にマレーシア入りする予定である。
現地であらかじめ予定が入っているのは語学学校とアパートの下見のみで、それ以外の日は市内を観光するつもりだった。
・2013年11月
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
退勤後に家を出る | 上海経由で夜にKLへ | KLに到着、学校を見学 | アパートの内見 | 夜にKLを出発 | 上海経由で日本に到着 |
2013年11月17日、日曜日。
私は通常通りの業務をこなした後、入社して1週間足らずのオカダに簡単な引継ぎをして、いつもより30分早い17時過ぎに職場を後にした。
帰宅後、入浴と軽い夕食を終えて、弟の家に向かう列車に乗るため、母親に車で駅まで送ってもらう。
マレーシアへ向けて出発するのは翌18日だが、私にとってはすでにこの日から今回の旅は始まっている。
駅に到着して車から降りる際、母親から一言「じゃあ、気を付けて」と言われた。
私はいよいよ海外へ向かうことになる。
1年前からこの日のことを楽しみにしていたが、いざ目の前に迫ると、やはり不安も感じる。
列車に乗って弟の家に行く。
たったそれだけのことでも来年は出来なくなるのだろう。
そう悟った私は無意識のうちに、駅や列車などの写真を何枚も撮っていた。
弟の家へ向かうには電車で1時間以上かかる。
それだけでもすでに旅は始まっていることを実感した。
ちなみに、電車に乗るのは前回の記事で取り上げた前年の勤労感謝の日に学園祭へ行った時以来なので、ちょうど1年ぶりということになる。
私の地元は元々車が無ければ生活できない田舎であるが、ここ1年間は電車に乗って遠出するような場所に遊びに行ったことがなかった。
無事目的地に着いた私は弟と合流し、待ち合わせ場所の近くのハンバーガー店で夕食を取り、家へ向かった。
この家に泊まるのもこの日が最後だろう。
私は前年に3ヶ月程ここに居候した時のことを思い出した。
弟はそんな感傷的な私とは対照的に、いつものようにテレビを見て、大学のレポートを作成しており、私たちは0時前には寝床についた。
・今ここに居るのはただの偶然?
翌朝、午前5時過ぎ、私は目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めていた。
私はまだ寝ていた弟を起こさないように極力物音を立てずに準備をして出発しようとしたが、私が部屋を出るときに彼は目を覚ました。
弟:「もう行くの? 気をつけてね」
早川:「行ってきます」
そんな簡単な会話を交わして家を出た。
私は地下鉄で空港へ向かう。
この時間帯は通勤ラッシュだったため駅は混雑していたが、私は都心から離れるため、電車の中は比較的空いていた。
私が外国へ行くのは生まれて初めてである。
というよりも、飛行機に乗ることすら初めてだった。
空港の駅に到着した私は初めて利用する空港の大きさに圧倒されつつも、案内に従って国際線ターミナルへ向かった。
掲示板を見ると私が乗る飛行機の搭乗手続きはすでに開始されていたようだが、
「そもそも、『チェックイン』と『搭乗手続き』とはどう違うのか?」
「外国の航空会社を使うので、手続きは日本語で行えるのか?」
などの不安を感じながら、手続きの列に並んだ。
今回利用するのは中国の航空会社だったが、幸いにも受付のスタッフは日本人だったので、手続きは問題なく進んだ。
途中で上海に立ち寄るため、「荷物は一旦、上海で受け取らなくてはいけないのか?」という不安もあったが、それも解消された。
搭乗手続きと出国審査を終えた後は待合室へ向かう。
私は売店でアクエリアスを買った。
容器を眺めていた私は不思議な気持ちになった。
その時の心境は以前にもこちらの記事でも取り上げたが、今回も改めて説明させて頂きたい。
この場所で購入されるということは、このアクエリアスの容器はかなりの確率で購入者と共に飛行機に乗ることになり、二度と日本の地を踏むことなく、海外で処分されることになるだろう。
いつも買っている物と全く同じ商品なのだが、今、私が手にしている容器は、たまたま出国審査の先にある売店に納入されたというだけで、その他大勢の仲間とは違った運命を送ることになる。
ほんの少しの違いで未来は大きく変わることになるのだ。
私が今からマレーシアへ行こうとしているのも、偶然の積み重ねに過ぎない。
子どもの頃どころか、ほんの2,3年前ですら、自分が海外へ行くなどとは全く思っていなかった。
飛行機に乗るのは怖いし、海外に行くには不安だし、英語は喋れないし。
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もし、今の仕事が続けられずに、資金が貯まらなかったら…
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もし、前年にコンビニの
ブラックバイトで挫折せずに、マレーシアへの憧れを持つことがなかったら… -
もし、1年半前に希望の職に就いて、海外へ目を向けることがなかったら…
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もし、3年前に仲の良かった友達と連絡が途絶えることがなかったら…
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もし、「学校卒業後に正社員としてまともな会社に就職」という「普通」のコースを歩んでいたら…
これらが一つでも起こっていたら、今の私はここにはいない。
仮に別の世界があったとしたら、その世界の私と今の世界の私はどちらが幸せなのだろうか…
そんなセンチメンタルなことを考えていたら、搭乗の時間になった。
いよいよ出発の時である。
【今でも忘れることができない勤労感謝の日シリーズ2012年編】
【今でも忘れることができない勤労感謝の日シリーズ2014年編】