「自分が高い給料を得られるのは能力が高いから」という悪魔の誘惑に負けた人間の末路

人を説得する時はあくまでも、相手が納得できる主張をしなければならない。

そんなことはほとんどの人が分かっているだろう。

だが、無意識の内に、相手を説得するための理屈ではなく、自分が納得できる理屈を展開してしまうことも少なからずある。

今日はその線引きを誤ったために、自分で自分を追い込んでしまった人たちの話を紹介したい。(今回の記事は序章が少々長いため、早く本題に目を通したい方はこちらまで飛ばしてもらってもかまわない)

・義務を果たしていない人間に負担させるべき?

「この社会では子育てにお金がかかりすぎる」と言われている。

私もたしかにそう思う。

特に学費はべらぼうに高い。

あえて幼稚園から大学まで私立に通わせる家庭ならまだしも、すべて公立の学校に通わせる場合でも、子ども一人当たり1000万近くかかるらしい。

子育て費用はいくら必要?幼稚園から大学卒業までの教育費 (lifyjp)

「『少子化でこの国は大変なことになる!!』と言うのであれば、安心して子どもを育てられるように税金で支援してほしい」

私もこの意見には同意する。

私がそう思う理由は「彼らの生活が苦しいと思うから」であって、「子どもがいる家庭が独身者よりも頑張っているから」だとか、「老い先短い高齢者よりも、将来の見返りがある子どもに優先的に投資すべき」などという考えからではない。

要するに「困っている人にお金を渡そう」と主張しているに過ぎない。

しかし、何を勘違いしているのか

「私たち子育て世帯は次世代を担う子どもを育てるという社会の義務を果たしているのだから、その義務を怠っている独身者が割高な税金は払って、その一部を負担することは当然だ!!」

と叫び、あたかも子育てをしている人は立派なのだから、もっと支援されるべきだと主張するバカがいる。

全く思い上がりも甚だしい。

「子育てには金がかかる」と言われているが、すでに子育て世帯は公的扶助の恩恵を受けている。

自覚がない人は、年間100万円近くかかる義務教育の学費をすべて自分で払うことを考えてみるといい。

それでもまだ自分たちは税金の恩恵を受ける側ではなく、負担する側だと考えているのだろうか?

また、2014年の消費増税の際は、税収アップ分を大学の学費に充てることが条件になっていたが、結局、国債の返済に使われることになったため、不足する教育費はたばこ税を当てることになった。

つまり、2014年以降に大学教育を受けた人は学費の一部を喫煙者に負担してもらったことになるが、彼ら(&その親たち)は

「喫煙者の方々のおかげで私たちは大学に通うことができました!!」

と喫煙者に感謝しているのだろうか?

もしそうなら、

「私たちはこの御恩を忘れないために、近年の禁煙ファシズムに反対します!!」

と宣言すべきである。

・子どもを作らなかった人が老後を国に頼ることは許されない?

「 子どもを生まないという選択をしたのなら、老後は国に頼ることなく、自己責任で暮らすべきだ!!」

「一円たりとも税金にたかるな!!」

と熱弁するバカもいるが、これもとんでもない勘違いである。

先ほど述べた通り、たとえ子どもを育てていない人であっても、税金を納め、その税金は子どもの教育費に使われている。

つまり、税金を納めている独身者は感謝されることはあっても、「自己責任で勝手に死ね」などと罵倒される筋合いはないのである。

しかも、彼らは自分の子どもが将来納税することには敏感なのに、なぜか公的扶助の恩恵を受けることには鈍感だったりする。

いい歳して結婚していない人に対して、

「あの人は子どもがいないから、将来は私たちの子どもが払う税金で食べさせることになる。ああ、腹が立つ!!」

と陰口を叩く人がいる。

全く持って意味不明な理屈である。

ほならね…

あんたのところの悪ガキが将来、よからぬことをしでかして、ブタ箱に入れられたら、そこでの生活費&その他の費用は誰が払うと思っているのか?

親であるあんたが責任をもって全額支払うつもりなのか?

と言ってやりたい気分である。

もしも彼らが「自分たちは生活が苦しいのだから助けてほしい」とだけ言っていたら、聞く側も「まあ、たしかにそうですね」と言って賛同してくれる可能性があったかもしれない。

しかし、「甘え」だとか「たかり」だとか非難されることを恐れて、義務や税金の公平な負担というような自分たちに都合のいい理屈を持ち出すことで、反感を買い、敵が生まれ、かえってこのような泥仕合に発展してしまう。

・中高年が高い給料を得られる理由とは?

少々長い入りになってしまったが、本日のテーマは「他人を説得する時は自分にとって心地いいロジックに溺れてはいけない」ということである。

その線引きを間違えてしまったために身を破滅してしまった代表例が、年功賃金によって高い給料を得ていた中高年男性である。

若い時は誰しも「勤続年数が長いだけの中高年が、大した仕事もせずに若者の数倍もの賃金を受け取ることはおかしい!!」と憤っていた経験があるだろう。

ろくに仕事をしない(できない)彼らが大金を受け取ることができる理由とはなんだろうか?

1960年代までは年功賃金を正当化する根拠として、「生活給」の発想が使われてきた。

一人暮らしの若者は大して生活費がかからないから給料は低くても構わない。

むしろ、分別がないのに体力だけはある若者に金を渡したら、堕落した生活に陥るだけである。

一方で所帯を持っている中高年は、家族を養うために高い賃金を稼がなくてはならない。

このように仕事をして金を稼ぎ、時にはリフレッシュをして、また明日からも同じ生活を送るという日常の営み(マルクス風に言えば「再生産」)であっても、若者と中高年ではその生活を維持するために必要なお金の量が全く異なる。

だから、「やっている仕事は同じであっても、生活費のかかる中高年は高い賃金を受け取るべきだ」という理屈である。

もちろん、生活給の思想も完璧ではない。

たとえば、男性世帯主に養われることが前提の女性は生活費を稼ぐ必要などないのだから、保育や介護のように「この仕事は女性が担うもの」とみなされている仕事では、どんなに大変で、専門的な能力を必要とし、社会的に意義がある仕事であっても、賃金は不当に安く抑えられてしまう。

それから、経営体力のない中小企業に「家族を養うために高い給料をくれ!!」と生活給の正当性を訴えても、「ウチにはそんな金ねえ!!」の一言で一蹴さられてしまう。

しかも、よくよく考えてみると当たり前のことだが、「労働者が普通に生活するために給料がいくら必要か」などということは本来給料を支払う会社とは何の関係もないことである。

これでは公正な競争を阻害してしまうため、当時の政府や経済界は「年功賃金を廃止して職務給に移行すべきだ」と主張した。

しかし、他に労働者の生活を保障する手段もなく、労働組合も生活給の廃止に猛烈に反対していたことから、好ましくはないがやむを得ないということで年功賃金は当面の間、維持されることになった。

・「知的熟練」という悪魔の誘惑

ところが、70年代に入ると「知的熟練」というロジックで中高年の高賃金を正当化する考えが現れた。

曰く、「中高年が高い給料をもらえるのは勤続年数を重ねた結果、能力が高くなったからである」という考えである。

たとえば、日本では勤続30年のベテランが、新入社員の隣の席で同じような仕事をしているにもかかわらず、倍以上の給料をもらっていることが珍しくない。

その一瞬だけを見ると非常に不公平な気がするが、彼のようなベテランは新人と同じ簡単な仕事をしていても、これまでのジョブローテーションでいくつもの職場を経験して、高い能力を身に着けているため、今の仕事以外にもできることがたくさんある。

そして、会社の都合で配置換えがあれば、いつでもそれに応じることができる。

つまり、「今は簡単な仕事しかしていなくても、潜在的な能力があるため、その能力に対して高い給料が払われているのだ!!」という理屈で中高年の高給取りを正当化したのである。

この「潜在的な職務遂行能力に基づいて高い給料をもらえる」という考え(これを「職能給」という)は当時の中高年にとって非常に心地いいロジックであった。

もしも、彼らが生活給を根拠にして自分たちの高賃金を主張するのであれば

高給取りの中高年:「俺たちは生活が苦しいんだから、仕事はできなくても高い給料をよこせよ!!」

とたかっているように受け取られ、どことなく後ろめたい気持ちがあったが、知的熟練の論理を根拠に用いれば

高給取りの中高年:「自分たちはペーペーの若造と違って、高い労働力を提供できるのだから、それに見合った対価を受け取るのは当然だ!!」

と胸を張って自分たちの高給取りを主張できるようになったのである。

しかし、それは悪魔の誘惑だった。

70年代は石油ショックによる不況で、多くの会社で高給取りの中高年がリストラの標的にされていた時代である。

知的熟練の理屈に従えば、「たとえ景気が悪化しても、ハイスペックな中高年は会社にとって必要な人材であるから、企業は彼らに高給を払ってでも会社に残すに違いない」となる。

…のだが、実際は(能力が高いはずの)中高年が真っ先に切り捨てられていた。

つまり、「知的熟練」なるものは完全に幻想だったのである。

自尊心を満たすために知的熟練の理論に飛びついた結果、「高い給料を得ている中高年は能力に基づいて評価されているのであり、低賃金や生活苦に陥る者は本人の能力の低さゆえの結果だ」という理屈が生まれ、自分たちがリストラされてしまったのは単に能力がなかったからという自己責任論に終結し、彼らを守ってくれる味方は誰もいなくなった。

もしも、彼らが知的熟練などという悪魔の囁きに耳を傾けず、どれだけ恥辱に塗れようとも、どれだけ若手から蔑まれようと、生活給を主張し続けていれば、別の未来があったのかもしれない。

「たしかに中高年の人が生活を維持するためにお金がかかるけど、企業にとってはあまりにも大きな負担となる。だったら、その費用は税金で賄いましょう」

そう言って、社会保障を充実させる方向に舵を切って、生活を守ることができたのかもしれない。

しかし、彼らは自分にとって心地良いロジックに溺れて、結果的に身を破滅させてしまった。

このように、他人を説得する時は下手に自分にとって心地いい理屈を用いることにこだわると、物事の本質をゆがめてしまう可能性がある。

「困っているから助けてほしい!!」

人に助けを求めるのはこの理由だけで十分ではないか?

・今日の推薦本

日本の雇用と中高年 濱口桂一朗(著) ちくま新書

日本の労働政策や雇用問題の変化を中高年の労働者にスポットを当てて解説してくれる本。

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