今年も言います! 水泳の授業廃止に大賛成

・自治体の英断の一方で…

2021年以降、当ブログでは夏がやって来る度に水泳の授業について取り上げてきた。

当初はコロナ渦だったこともあり、ほとんどの学校で水泳の授業が行われていなかったが、翌2022年から墓場から這い出るゾンビのように復活し始めた。

子どもの頃から水泳が大嫌いだった私にとっては、学校を卒業して15年以上経過しても、未だに水泳嫌いの子どもに感情移入しており、コロナ渦で水泳を根絶できなかったことの悔しさや、水泳をやらされる子どもたちへの同情を感じてしまう。

そんな悲観的な時代においても、施設の老朽化やプールへの送迎バスのドライバー不足など様々な事情により水泳の授業を中止する自治体も出てきている。

今年に入ってからだと沼津市が新たに中学校の水泳の授業を廃止した。

沼津市が2025年度から中学校の水泳授業を廃止を発表(静岡・沼津市)(2025年1月31日掲載)|Daiichi-TV NEWS NNN

また、徳島新聞の調査によると、県内5市町の20中学校が校内プールでの水泳授業を行っていないことが判明したという。

学校でのプール授業、県内5市町の20中学校で行わず 施設の老朽化や熱中症懸念|スポーツ,社会,教育|徳島ニュース|徳島新聞デジタル

背景には、プール施設の老朽化や、夏場の猛暑による熱中症リスク、教員の負担の増大といった複合的な事情があるとのこと

少しずつではあるが、コロナ渦の一時的な休止ではなく、このように水泳の授業を思い切って廃止する自治体が現れたことは大変喜ばしい

また、沼津市の一件を通して、頑なに水泳の授業に固執して、こんな素晴らしい判断にイチャモンを付け、「足りぬ足りぬは工夫が足らぬ」並みの暴論を押し付ける破廉恥な人物も発見できた。

社説:水泳授業の廃止 存続への工夫が先ではないか : 読売新聞

巨人が負けてキゲンが悪く、一時的な感情で思わず書いてしまったのかな?

・そもそも地域によって違ってもいいものなのか?

水泳を廃止する自治体が現れることは素晴らしいのだが、一方でこんな疑問が湧いた。

私が小学生だった四半世紀前、学校では「水泳は文部省のカリキュラムで決められた必修科目だから、絶対にやらなければならない」と繰り返し教えられていた。

それなのに、今では自治体の判断で授業そのものをやめることができるのはなぜなのか?

一体いつからそんなに自由になったのか?

この疑問を解くカギは、「教育の地方分権化」という政策あるという

1999年、「地方分権一括法」が施行され、国と地方の関係が大きく見直された。

これにより、従来は国(文部省文部科学省)が細かく管理していた教育内容についても、自治体が一定の裁量を持つことが可能になった。

たとえば施設整備やカリキュラムの細部において、地域の実情を考慮して柔軟に運用できるようになったのである。

1.地方教育行政の在り方:文部科学省

この流れを受けて、2008年には学習指導要領が改訂され、そこには「各学校は地域や児童の実態に応じて、指導計画を編成することができる」といった文言が盛り込まれた。

つまり、全国一律の画一的な教育ではなく、各地の気候、設備状況、生徒の実態などに応じた対応が正当化されたのである。

平成20・21年改訂学習指導要領(本文、解説、答申、通知等):文部科学省

この方針のもとでは、水泳の授業も「必ず全校で実施しなければならない」というものではなくなった。

もちろん、学習指導要領に水泳は引き続き含まれているが、それはあくまで最低基準に過ぎず、地域の事情によって代替や省略、外部委託といった対応も認められるようになった。

たとえば「プールの使用が困難である場合は、水難事故防止の座学や安全教育で代替してもよい」といった柔軟な運用が全国的に広がっている。

こうして見ると、かつて「必修」とされていた水泳の授業も、今では自治体や学校現場の判断によって廃止されることが可能になったのは、決して例外的な対応ではなく、制度として根拠があることが分かる。

・本当の必修科目

水泳の授業は1955年に旧国鉄の連絡船「紫雲丸」が沈没し、修学旅行で乗り合わせていた小学生を含む168人が犠牲となったことがきっかけで導入され、当時は「水泳は命に関わる技能であるという認識もあったのだろう。

しかし、それはあくまでも70年前の話である。

その時から今日に至るまで、時代は大きく変わり、教育現場においても、必要とされ導入されたものもあれば、逆に「不要」だと消えて行ったものもある。

家庭訪問、身体測定における座高の測定、体育の授業中の飲水禁止…etc

水泳の授業もそうしてものの一部として消えていくことには何の問題もないと思う。

そもそも、「水難事故から命を守るため」などと宣うのであれば、すべての授業を水着ではなく、普段着で行うのが筋ではないのか?

そうして淘汰されるべきものに対して、膨大な施設の維持費や、指導にあたる教員の貴重な時間を費やすことほど愚かなことはない。

「今までやっていたから」という理由で、形式だけの授業を続けるよりも、質の高い代替教育の方が効果的なケースもあるのではないかと思う。

教育は本来、地域や個々の児童生徒の実態に寄り添って行われるべきものである。

水泳の授業に限らず、社会の変化に合わせて柔軟に制度や運用を見直していく姿勢こそ、今の時代にふさわしい「必修」と言えるだろう。

スポンサーリンク