今年も夏が来た。
一年前の記事で「夏は嫌いではない」と書いたが、実は子どもの時は夏が来ると死出の旅路へのカウントダウンでも始まるような憂鬱な気持ちに襲われていた。
多くの子どもにとって「夏」といえば「夏休みの季節」だが、私にとってはその前に大きな関門が立ちはだかっていた。
その関門とは水泳の授業である。
昨年(2020年)からコロナウィルスが蔓延している影響で、多くの学校で水泳の授業が中止となっている。
私にはとっては直接関係のないニュースだが、その報道を聞く度にこんなことを言いたくなる。
本気でそんなことを思う程、私は水泳が大嫌いだった。
今日は私がそこまで水泳を嫌う理由を書こうと思う。
・これで堂々とサボることができる
私が最後に水泳の授業を受けたのは小学4年生まで遡ることになる。
その年は「水着を忘れた」「体調が悪い」などとその場限りの理由をでっち上げたり、わざと学校に遅刻することで1ヶ月近くかわし続けたが、さすがにこれ以上休むための方法を思いつかないと観念して嫌々ながら参加することになった。
「この日から始めよう!」と狙いを定めていたわけでなく、全くの偶然だったが、その日は近所の水泳教室の先生による特別授業が行われることになった。
水泳が得意ではない私は補講コースに入れられ、彼から「先ずは水に慣れることから始めよう!!」と言われて、同級生が泳ぎを教わる様子を横目に、ひたすらプールで潜る練習をさせられた。
その結果…
私は外耳炎にかかり、耳鼻科の先生から正式に今季中は水泳への参加不可を言い渡されることになった。
診断結果を聞いた私は心の中で大きくガッツポーズをした。
よっしゃぁぁ!!
これで堂々と水泳をサボれるぞぉぉ!!
学校から授業を委託された民間業者が、児童に疾病を患わせ、技能を向上させるどころか、以降の授業に一切参加できなくなるなど言語道断であり、れっきとした訴訟ものである。
だが、彼は指導者としては最低でも、私にとっては思わぬ救世主となった。
ちなみに、学校側は委託業者のせいで私が負傷したことに後ろ目たさを感じたのか、翌年以降も、診断書の提出などせずとも見学を許可してくれた。
水泳に参加せずに済むのなら、その程度の負傷など、私にとっては虫に刺された程度の痛みである。
・原因は頑張りの空回りだった
私はこんなエピソードを語れるくらい筋金入りの水泳嫌いだが、ある時、こんなことを考えた。
「どうして私はここまで水泳を憎んでいるのだろう…」
別に、溺れて死にかけたり、海難事故に見舞われたというような大きいトラウマがあるわけではない。
結論から言うと、私はクロールで泳ぐことができないからであり、しかも、よくよく思い返すと、授業できちんと教わったことすらなかった。
私が通っていた小学校には、主に小学2年生までの児童が使う10mの長さで底が浅い「小プール」と、それよりも深く、長さが25mの「大プール」の2つがあった。
これは私が小学校2年生の時の話である。
当然最初は全員が小プールで泳いでいたが、水泳の季節が終わりに近づくと、小プールの10mを泳ぎ切った児童は大プールに入ることを許可されることになった。
当時から泳ぎが得意ではなかった私は、なかなか小プールから卒業できなかったものの、何とかバタ足で8mは泳げるようになった。
その様子を見ていた担当の教師が「早川君も随分頑張ったね。そこまで泳げるようになったら、もう大プールへ行っても大丈夫だよ」と言ってくれた。
しかし、私はその誘いを固辞した。
ノルマ達成まで残り2mの所まで来たのだから、何とか最後まで泳ぎ切りたかった。
それをやり遂げたら「水泳の苦手意識もなくなるかも…」と思っていた。
だが、結局はその頑張りが私の水泳人生を終わらせることになった。
というのも、私が小プールで10m泳ぎ切るまで特訓していた時は、そのような児童も残り数人となった。
そのため、すでに大多数の人が合流した大プールでは3年生の授業に備えてクロールの泳ぎ方を教えられていた。
もちろん、これは正規のカリキュラムではなくあくまでも予習に過ぎない。
というわけで、小プールから卒業できなかったとはいえ、最高記録がバタ足で8mの私でも、「小プールで少しは自信をつけたことだし、来年になってからクロールの泳ぎを覚えればいいや」と余裕を持って構え、苦手意識もだんだんと薄れていた。
いや、むしろ「来年が楽しみ」とさえ思っていた。
しかし、いざ3年生になって水泳の授業が始まると唖然とした。
いきなり大プールに入ることは想定の範囲内だったが、クラス替えの時の引継ぎが上手くいかなかったのか、初日から私も含め、全員がすでにクロールで泳げる前提で授業が始まったのである。
つまり、私は多くの同級生に置いて行かれて、完全に浦島太郎となっていたのである。
・「泳ぎ方が分からない」と言い出せない
今でこそ、同じ部署の同僚が全員残業している中でも平気な顔で定時退社をしたり、昼食時に席が空いていない時は見知らぬ相手でも相席を頼むことができる程、面の皮が厚く、場の空気など全く気にしない私であるが、小学生の時は同級生から当時流行していたポケモンの鉛筆を借りパクされても、本人に抗議したり、担任教師に告げ口ができないような小心者だった。
そのため、
と言い出すことができなかった。
幸い、初日は体を慣らすための水遊び程度の授業だったため、クロールで泳げないということはバレずに済んだが、次回以降の授業のことを考えると顔は真っ青に、頭の中は真っ白になった。
とりあえず、次の授業は見学して様子を探ることにした。
案の定、「クロールのやり方を教えてください」と要求したり、バタ足で泳ぐ同級生は一人もいなかった。
バタ足で8mしか泳げない私が、そんな中に飛び込むなど、いろいろな意味で自殺行為である。
同級生から泳げないことを知られて(いや、すでにバレバレだったかもしれないけど)、その後の集団生活で支障をきたすことを怖れたこともあり、学校や市のプール開放などで秘密裏に練習しようとはした。
だが、多くの人がいろいろな箇所で犇めく休日のプールで泳ぎの練習をするのは不可能に近く、教えてくれる相手もいなかったため断念した。
そこから、例の外耳炎発生事件までとにかく逃げ回った。
先ほど、「小学2年生の時が私にとって水泳人生のピーク」だと言ったが、逆に3・4年生の時は水泳嫌いのピークだった。
5年生以降は、完全に開き直り、理由こそ「耳が悪いんで…」と用意していたものの、「私は水泳をやらない」という前提で生きており、周囲もそれが当然だと思っていた。
中学・高校でもすべて欠席して一度も参加していない。
水着も買っていない。
と心配する人もいるだろうが、幸か不幸か、私は受験に熱心に取り組まなかない生徒だったため、そのことを悲観することなどなかった。
・参加しないための言い訳など不要
今になって思うのだが、もしも、小学3年生の時に引継ぎが上手く行っていたら、私もここまで水泳嫌いになることもなかったのかもしれない。
だが、これは不幸な交通事故のようなものである。
「あの時、ああすれば良かった」という思いはあるが、私は基本的に泳げる必要も、水泳に参加する必要も一切ないと思っている。
休むための方法や都合のいい言い訳を探すためにこの記事を読んでいる人もいるかもしれないが、参加を拒否する理由など
「嫌なものは嫌だ!!」
「やらねえつったら、やらねえんだぁぁ!!」
で十分である。
変に卑屈にならず、営業の電話や訪問販売を断る時と同じ心構えで全然おk。
それでも無理やりプールに入れられるのであれば、「だったら、学校なんか行かないぞ!!」と宣言すればいい。
「やりたくない!!」ではなく「やらない」のである。
もちろん、「絶対にプールには入りたくない!!」と泣き叫んで、リストカットやハンマーで骨を砕くような自傷行為も一切必要ない。
何ならこの記事のURLを見せて、「この早川って人がそう言っているから」と言ってもらっても構わない。
私も現役の時は周囲に波を断てないようにと、散々仮病や「水着を忘れた」という言い訳を使ってきたが、今となって思えば全く要らぬ配慮で、逆に真面目にやっている人に対して失礼だったと思っている。
・大人だって苦手なことからは散々逃げてきた
こんなことを言うと、
「嫌なことからすぐに逃げるような人間になったらダメだ!!」
「子どもの将来のために、本人が嫌だと言っても参加させるべき!!」
と批判してくる人もいるだろう。
そんな主張に対してはこう反論したい。
「そもそも大人はそんなに立派ではないし、自分だってできないことから逃げてきたではないか?」
本人はこれまでもすべての困難を乗り切ってきたかのような口ぶりだが、それは自分の記憶を捻じ曲げ過ぎであり、大の大人でも実際はできないことだらけである。
大真面目な話だが、大多数の日本人は高校を卒業しているが、彼ら全員が高校で教わるすべての科目を完璧にマスターしていたのなら、日本人は天才だらけではないのか?
冗談抜きにそう思う。
具体的な話をしよう。
私は20代半ばに英検2級を取得した。
試験に合格したことを同僚に話すと、一人がこのようなことを尋ねた。
私は当初、この質問に対して出題される問題の文法や単語の数を答えたが、彼女はチンプンカンプンだったため、英検のサイトに載っていた「海外留学が可能」というフレーズを引用して、「専門的な話は難しいかもしれませんが、英語圏の国でごく普通の生活が送れるレベルだと思います」と答えた。
すると彼女だけでなく、他の同僚からも「すごーい。早川さんってそんなに英語が得意なんだあ」と言われ、いい気になったのだが…
ちょっと、待たんかい!!
そのような言い方をすると、まるで私が英語ペラペラのような印象だが、英検2級など所詮は「高校卒業レベル」であり、中卒の人が「凄い!!」と驚くのであればまだしも、高校を卒業している人であれば「できて当たり前」のレベルである。
むしろ、「なんでそんなこともできない人たちが、高校を卒業したり、大学に入学できたのよ!?」という話である。
この話から分かるように、学校を卒業している人も多くは、学校で受けている授業のことを完璧に身に付けているわけではなく、自分が得意なことに重点を置いて生きてきたのである。
これを「逃げ」と言わずに、何と呼べばいいのだろうか?
「自分はどんな困難なことからも逃げない!!」とほざくのなら、「英語に限らず、すべての科目で高校卒業レベル試験に合格するまで卒業せずに留年し続けろ!!」と言いたい気分である。
「得意ではなかったが、授業そのものから逃げたわけではない!!」
と弁解する人間もいるだろうが、だとしたら、水泳も英語と同じく授業時間の90%は教師が説明する知識伝達に割き、実技は残りの10%だけに改訂しなければフェアではない。
そうしたら、私のように苦手意識を持っている人間でも大きな苦痛を感じることなく参加できる。
・未来は良い方向へ変わってきている?
この記事を書いている最中でこんな記事を見つけた。
学校のプール、廃止相次ぐ…水泳の授業なくす自治体も:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
小学校が老朽化したプールを新造はせずに近所のスイミングスクールを利用したり、水泳の授業を廃止した中学校も出るなど、これまでの学校における水泳が少しずつ変化してきているようだ。
ちなみに、日本で水泳が必修になった理由は1955年の宇高連絡船紫雲丸事故の影響によるものであり、外国では水泳の授業など行わない国の方が多く、たとえ水泳などできなくても、「自分はこの世界で生きていけない…」と悲観する必要は全くない。
前回の記事でも使ったフレーズだが「本当の世界は広い」のである。
水泳では泳ぎ切ることができない位にね。
水泳の授業を廃止することは、このグローバル化の時代にふさわしいことでもある。
私は内申書の点数を下げられようが、同級生から非難されようが、「断固として拒否!!」という方法を選択したが、他の人にも「堂々と自分の意志を貫け!!」と同じ道を強制するつもりはないし、そんなリスクを背負わずに、水泳から逃れられるのならその方がはるかに健全である。
世の中は少しずつだが、良い方向へ変わっているのかもしれない。
(追記:この記事を投稿した1年後の2022年、水泳の授業に関する残念なニュースを耳にした。詳しくはこちら)