ゴールデンウィークに帰省して、地元の友人と旧交を温めた時の話

前回の記事の冒頭で3年前(2019年)のゴールデンウィークについて少しだけ触れた。

あの年は元号が「平成」から「令和」に変わることもあり、祝日が増え、カレンダーでは10連休になっていた。

そして、翌2020年にコロナが発生したため、今振り返ると、「ゴールデンウィークに旅行へ出かけた経験はあの年が最後だった」という人もいるかもしれない。

そのような理由から、3年経った今でも、2019年の大型連休のことを特別な思い出として憶えている人も多いだろう。

私もその一人である。

今日はその時の話をしたい。

なお、今回の記事で登場する画像はすべて、その時に撮影したものである。

・初めての帰省

3年前のゴールデンウィーク、私は実家へ帰省していた。

東京へ出てきて以来、実家に帰るのはその時が初めてだったため、親類だけでなく、上京前にお世話になったバイト先にも出向いて挨拶をした。(その時の様子はこちらにも少しだけ登場している)

そして、もちろん、数少ない(というか「唯一」の)地元の友人にも会うことになった。

地元を離れた今でも交流がある唯一の友人はマサル(仮名)という名前で、彼とは小学生の時からの付き合いになる。

お互いの実家が近所で、学校卒業後も私はフリーター、彼はニート生活だったため、時間に余裕があり、頻繁に会って、特に目的もなく地元を徘徊したり、もう一人の友人であるカンダ(仮名)も加えた3人で、食事やドライブに出かけていた。

そんな彼だったが、ある日「親戚の会社を手伝うようになった」と私に言った。

最初は、彼の働き口が見つかったことを素直に喜び、しばらく時間が経てば、たまにではあっても、以前と同じような付き合いができると楽観視していた。

しかし、就職が決まった直後こそ、電話やメールのやり取りをしていたものの、次第にそれも無くなり、気付いたら1年以上疎遠になっていた。

それ以降は私の方も仕事をクビになったり留学を考えたりと、生活に変化があったため、「彼に会いたい」という気持ちも消滅した。

最後に会って、3年ほど経った時に、一度だけ彼の実家に連絡したことがあるが、彼の家族が電話に出て「今の彼は親戚の家に住み込みで働いていて、携帯も持っていない」と告げられた。

私は「彼によろしく」と伝えたものの、その後、彼から連絡が来ることはなく、ここまで来たら、もう彼のことを「友達」と呼べるのかさえ疑問だったが、「上京前に一度だけ昔のように食事に出かけたい」と思って、無視されることを覚悟で、直筆の手紙を彼の家族に渡そうとした。

玄関のチャイムを鳴らすと、予想に反して彼本人が出てきたが、行動が不可解だったため、私は困惑した。

そこに、彼の家族が帰宅して、彼らに手紙のことを伝えて引き上げると、すぐに彼の母親から、彼は私と疎遠になった後で、知的障害と精神障害を患ったことを告げられた。

というわけで、外食に出かけることは不可能だったが、彼の家に招待されて夕食をご馳走になった。

それが上京直前の出来事であり、彼と会うのはその時以来だった。

・地元の神社巡り

約束の日、午前10時、私は待ち合わせ場所であるマサルの自宅に向かった。

彼と会うのは久しぶりだったが、見た目は以前と全く変わりがなかったため安心した。

この日、彼と共に行うのは神社巡りである。

この行程は彼が決めた。

私は特に神社に興味があるわけではないが、道中で、「昔と同じように、彼とたわいない話ができれば」と思って快諾した。

それに、神社は昔、彼と散歩していた時に休憩所として利用させてもらっていたこともあり、そこでいろいろな話をした思い出の場所でもある。

彼の母親から、彼に持たせた所持金や、緊急連絡先の情報を聞いて準備が完了。

いよいよ出発する。

これから向かう神社の場所はすべて彼が記憶しており、地図やスマホを見ることなく進む。

その間、私たちは田舎道で春の心地良い気候を感じながら、いろいろな話をした。

仕事のこと。

お互いの家族のこと。

応援しているスポーツのチームのこと。

そして、一番盛り上がったのは元同級生の話である。

以前はこんなこと当たり前だったが、10年近い空白期間があったため、一時的にではあるが、蘇った「かつての日常」に思わず感動しそうになった。

昔もこうして、よく元同級生の話をしていた。

当時はまだ同級生の多くが学生だったこともあり、「誰がどの学校に通っている」とか「誰は何を目指している」という話が多かった。

だが、20代後半になったこの時は「誰はどの会社に就職した」とか「あの人は結婚して、もう子どもがいる」といった話題になった。

もっとも、やっていることが20歳前後の時とほとんど変わっていない私たちがそんな話をしていることを知られたら、「あんたらは他人の進路をネタにして談笑している場合か?」と突っ込まれそうだが…

昔と変わらないひと時に、若干の不安を感じつつも、どこかホッとした。

そんな話をしていると最初の目的地に着いた。

彼は神社に興味津々のようだったが、私は漠然と眺めているだけである。

彼の自宅を出発してから、この神社に辿り着くまで1時間ほどかかり、急な坂道も多かったため、椅子に腰かけて、少し休憩を取ることにした。

その後は、山道を5kmほど進みながら、道沿いの神社に立ち寄った。

どこまで行くのかは分からないが、彼と話しながら歩くだけでも、今となってはとてつもなく貴重な時間である。

昔はそんなこと当たり前で、その「当たり前」がいつまでも続くと思っていた。

・高台から見た景色

道に沿って歩いていると、私たちはかなり山奥まで入っており、そこはすでに隣町だった。

時間はすでに午後1時を回っていて、昼食を取るためには街に降りなければならない。

おそらく、次の神社が最後の場所になるだろう。

そこは車が通れる程の山道から、さらに階段を昇った高台にある神社である。

普段は運動をしていない20代後半の身としては階段を昇るだけでも一苦労だ。

息を切らしながら、ようやく辿り着いた私は後ろを振り返った。

すると、そこには絶景が広がっていた。

こうして高みから見下ろすと、「昔、私たちが経験したことの多くは、こんなに小さな世界での出来事だった」と実感した。

まあ、厳密に言うと、ここから見えているのは隣町だけど…

ちなみに、この神社はパワースポットとしても有名のようで、観光客も多かった。

さて、神社巡りも終わり、昼食を取るために山を下らなければならない。

ここから先はこれまでと違い下り坂になる。

通っているのは隣町の道路であるが、実は私たちが小学生だった時に一度だけそこを通ったことがある。

あの時は、マサルも含めた友人たち数人で自転車に乗っていたため、今まで経験したことがないスピードで坂を下ったことを今でも憶えている。(危険なので絶対に真似しないでください

今回はのんびりとした歩きだが、20年近く経って、再びこうして彼と同じ道を通ることは何とも感慨深かった。

街まで降りると、スーパーやレストランが立ち並ぶ繁華街に到着した。

最初はレストランで食事をしようとしたが、私たちが知っている店は扉に「貸し切り」の札が立っていたため、スーパーで弁当を買って食べることにした。

ちなみに、そのスーパーとは私が初めて自分で見つけたバイト先で、後にどす黒い謀略戦が繰り広げられていたことが判明した、このブログでもお馴染みの店である。

一応、その店の写真も撮影したが、特徴的な外観をしているため、この場で公開するのは差し控えさせていただく。(高台で撮った画像には写っている)

私たちが店の前のベンチで弁当を食べていると、休憩から戻るところであろう従業員の女性から声を掛けられた。

従業員の女性:「とても、おいしそうにお弁当を食べているね」

その発言に私たちは「とてもおいしいです」と答えた。

何気ない会話だが、東京へ出てきて以降、店員さんとこのようなやり取りをした経験はほとんどなかった。

改めて、地元に戻ってきたことを感じさせてくれた。

・帰り道で思い出す複雑な感情

行きは山道を通ったり、階段を昇ったりすることが多かったため、少し息切れしたが、帰りは平坦な道を通ることになった。

といっても、私たちが選んだのは車の通りが少ない裏道である。

隣町であるが、この辺りは以前もよく二人で歩いていた。

日差しの中で、風に揺らされる木々の音や畑の匂いを感じると、昔のことを思い出す。

そんな中、またも思い出深い場所を通りかかった。

この写真の右側に見えるフェンスの奥は、自動車学校の敷地である。

この光景を見たマサルは、自身が学校に通っていた時の話を始めた。

彼は専門学校を中退した後に、バイト探しも上手く行かずに、空いた時間で自動車学校に通っていた。

そこで、元同級生に会ったり、仮免許で走行中に路上で事故を起こしそうになったり、といろいろな思い出があるらしい。

私も後に同じ学校に通って免許を取得したため、彼は私の思い出も聞いてきた。

といっても、その頃の私はつらいことが多かったため、人に楽しく話せるようなことは何もない。

彼は私に詳しい状況を訊ねなかったが、その時のことは過去に何度か取り上げたことがあるため、このブログの常連の方であれば、憶えがあるだろう。

私が自動車学校に通うきっかけは、突然バイトをクビになり、その後も親元で暮らし続けるアリバイを作るためである。

それだけでも肩身の狭い思いをしていたが、加えて、ちょうどその時期は友人と疎遠になって丸1年が経過した頃だった。

正直言うと、仕事をクビになったことよりも、そっちの方がつらかった。

私が自動車学校に通っていたのは、そのような孤独や将来の不安に押し潰されそうだった時期だったため、今でもあの時は「つらい思い出」として記憶している。

つまり、あの時期の私がつらい思いをしていたのは・・・

今、私の隣にいる人物のせいである。

もちろん、彼にそのことを伝えたりはしなかったが…

無邪気に昔話をする彼と若干の温度差を感じつつ、どんどん歩き続けると、河原の道に入った。

日差しは強いが、川のせせらぎを聞きながら、涼しい風を浴びると、心地いい気分になる。

この辺りを訪れることは多くなかったが、自動車学校に通っていた時は、家に居づらく、真っ直ぐ帰りたくない日も少なくなかったため、よくこの道を歩いて帰っていた。

彼に思い出話をすることは躊躇ったが、ここを通ると嫌でも当時のことを思い出してしまう。

河原の道を少し歩くと、隣町を抜け出て、私たちの家がある町に入った。

風景は先ほどとあまり変わり映えしないが、この辺りは犬の散歩でもよく通った道である。

もちろん、自動車学校へ通っていた時期にもよく通っていた。

あの時は犬の散歩だけが、唯一の気が落ち着く時間であり、将来を悲観して、本気で「沖縄へ逃げる」ことを考えたりもしていた。

もうあの時のような思いをすることは御免だが、帰り道を進みながら、彼との別れの時間が近付くにつれ、「この後は、またあの時のように孤独を感じる日々に戻るのでは…」という不安に襲われた。

次回帰省した時も、今回と同じように彼と会うことができるだろうか…

そんな言葉に出せない不安を感じていると、彼の家の前まで到着した。

いよいよ別れの時である。

「じゃあ、またね」

彼はその一言を告げるとすぐに家の中に入って行った。

いつも会っていた頃と何も変わらず、明日も会えることを感じさせるような別れだった。

彼のあっさりとした別れ方には「今度もまた会えるかな…」という不安に満ちた質問をするタイミングがなかった。

きっと彼は、「またすぐに会える」と思っているから、そのような言い方をしたのだろう。

その時はそう信じることにした。

・その日のオチと後日談

思い返すと、マサルとは結構な距離を歩いたが、特に疲れは感じなかった。

多分、楽しい時間が長かったからだろう。

しかし、その日の夜に首や腕の辺りに痛みを感じた。

筋肉痛ではなく、ヒリヒリとした肌の痛みである。

その上、皮膚がボロボロと剥がれ落ちた。

「まさか…」と思って、鏡を見てみると、私の顔は真っ黒に日焼けしていた。

まあ、春とはいえ、快晴の中、帽子も被らずに山道を数時間も歩き回ったら、そうなるのは当たり前だが…

翌日は東京に戻り、その次の日は仕事が始まった。

その日までに日焼けが収まるはずがなく、連休明けの初日には多くの同僚から

「連休は随分と楽しんだようですね」

「ゴールデンウィークはどこへ出かけたんですか??」

と冷やかされることになった。

ちなみに、次回の帰省は約半年後だった。

その時は、この記事で少し触れた親類の結婚式に参加するための帰省であり、式の前日に彼と会って、食事をすることにした。

あの時の彼のあっさりした別れは「昔のように、またすぐに会えると思っているから」という私が信じた通りの結果になった。

さて、彼と旧交を温めた日から、3年経った今、改めて当時のことを振り返ろうと思う。

昨年書いた記事で、彼は古くからの友人だが、「彼との間には友情が深まったと感じるような感動的なエピソードが思い当たらない」という話をした。

この時の体験もそうだった。

あの時の体験は「海外旅行へ出かけるような特別なできごと」ではなく「当たり前の日常」であり、数年間失われていた、その「当たり前」を久しぶりに感じることができた。

だからこそ、今回の記事は文字として書き出すことが難しく、「全体的に掴みどころがない」印象になった。

だが、あの時、彼と共に過ごした時間が私にとっては貴重な財産になったことは間違いない。

言葉で人に物事を伝える人間がこんなことを言うべきではないのかもしれないが、「友情や感動に、理屈や言葉は不要」である。

東京の生活に戻った後で、同僚にこの体験を聞かれた時はこう答えた。

「僕たちのような田舎者は『どこへ行く』とか『何をする』とか具体的な目的が無くても、たわいもない話をしながら一緒に自然の中を歩き回るだけで十分楽しみを感じることができるんですよ。ハハハ…」

この言葉は、職場で同僚とプライベートな話をすることを嫌い、「煙に巻こう」と思って口にしたつもりだったが、その真意は正しかったのかもしれない。

つい先日のように感じる、彼との思い出の時間からすでに3年が経過した。

私はゴールデンウィークに限らず、年末やお盆休みにも定期的に帰省しているわけではないため、今後、彼と再会できる予定は全くの未定である。

だが、その時が来たらは、また以前のように、ひと時だけでも「当たり前だった昔の日常」を味わいたい。

そう思っている。

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