人の未来は些細な偶然で大きく変わる

今月最初の記事で、ふと楽しかった地元の生活の思い出がよみがえった時の話をした。

その中で、学校を卒業した後に、同じく地元に住んでいた元同級生たちと楽しく遊んでいた時のことを書いたが、改めて当時のことを思い返してみると、あの時からすでに10年も経過していることに驚いた。

・一時だけ叶った夢

「将来の夢は何ですか?」

あなたも子どもの頃から何度となくこの質問をされてきたことだろう。

子どもの頃の私はこの質問が大嫌いだった。

なぜなら、なりたい仕事などなかったからである。

「夢を仕事に!!」などと繰り返し言われていたが、仕事で夢をかなえたいと思ったことは一度もなかった。

余談だが、学校であまりにもしつこく仕事での自己実現を煽られることに反発して、同級生が小学校の卒業文集の「20年後の自分」という欄に「プロ野球選手」や「医者」と書く中で、「ただのサラリーマン」と書いたことがあるし、中学生の時は「職業的な地位がなければ何もできないような人間にはなりたくない」と書いたこともある。

クソ生意気なガキですね。

こんな調子で、当時の私は将来の夢へ向けて羽ばたくことを拒絶していた。

ただし、何も私は現実や自分の将来に絶望していたわけではない。

むしろ逆である。

当時の私はその時の生活に大変満足しており、「ここで今の仲間たちといつまでもバカなことをやって楽しく暮らしたい」というのが将来の願いで、学校を卒業した後に就く仕事など生計を立てる手段に過ぎず、「生活費を稼ぐために、決まった時間に、決まった場所へ行って、決まったことをやるだけでいい」と思っていた。

そう考えると、「将来の夢は平凡なサラリーマン」という小学生の時の考えは、ある意味では本音だったのかもしれない。(まあ、その「平凡なサラリーマン」が理想とあまりにもかけ離れていたため、今では逆に「断固拒否」の姿勢になったわけだが…)

話を戻すと、今から10年前の2010年は、その夢が叶った気がした。

学校を卒業した後も、子どもの頃と同じように友人と楽しく遊ぶことができた。

当時の遊び仲間は中学校の時の同級生だったカンダ(仮名)と、小中学校の同級生で、別の高校へ進学した後も親交が続いていたマサル(仮名)の二人だった。

大人になったことで、学生の頃よりも行動範囲が大きく広がり、自由に使えるお金も増えた。

「このまま、ずっと今の暮らしを続けたい」

心からそう思っていた。

しかし、その至福の時間はあっという間に過ぎ去った。

彼ら二人は同じ時期に就職したことで、彼らとの付き合いはなくなり、毎日、孤独を感じていた。(その話はこの記事に詳しく書いてある)

思い返せば、その時から今日までの10年間はひたすら自分を受け入れてくれる居場所と仲間を求め、もがいていた気がする。

そして、今日までいろいろなことがあった。

彼らと会えなくなって、ちょうど1年が経過した時に突然仕事をクビになった。

「車の運転などとんでもない」と思っていたが、無職になった後も実家に住み続ける口実が欲しくて自動車学校へ通った。

ハローワークへ行って仕事を探すようになった。

いくつもの仕事を転々とした。

海外へ出ることを夢見て、英語の勉強を始めた。

仕事へ行く時は毎日自分で弁当を作るようになった。

持病が出て毎月通院が必要になった。(現在はほぼ完治)

壁にぶち当たったことで、生きる方向が定まった。

消息を絶っていた友人と再会できた。

東京へ出て一人暮らしをした。

なぜかブログを書くことになった。

私が主に20代を過ごした2010年から2020年までの10年間はいろいろあったような気がしたが、2000年から2010年までの10年間に比べるとあっという間に時が流れていった。(特に後半の1519年は速かった)

人は今まで積み重ねてきた年数を分母にして1年を計算するため、年を取ると1年が早く感じるという「ジャネーの法則」を完全に信じているわけではないが、これからの10年間はもっと早く時が流れそうな気がする。

・少しの違いで未来は大きく変わる

現在とは過去の積み重ねである。

小さなきっかけで人の運命は大きく変わり、何気ない今の決断で未来は大きく変わる。

そのことを実感する出来事があった。

7年前に初めて海外へ行った時、私は初めて飛行機に乗ることになった。(その時のことが詳しく書かれている記事はこちら

出国審査を終えた私は売店でペットボトルに入った飲料水を買って、待合室へ向かった。

そこで私が手にしていたペットボトルの容器を眺めていると不思議な気持ちになった。

海外旅行へ出かけた経験のある方ならご存じだろうが、国際線に搭乗するための出国ゲートではペットボトルの飲料水を持ち込むことは出来ず、機内に持ち込む場合は保安検査場の先の売店で購入しなければならない。

つまり、そこで売られている商品は、ほぼほぼ搭乗者と共に海外へ行くことになり、二度と日本の地を踏む(?)ことなく、到着先の国で処分される。(搭乗前にすべて飲み干されて、空港内のごみ箱に捨てられる可能性もあるが…)

私が手にしていたボトルは、これまで何度も購入したことのある物と全く同じ商品なのだが、たまたま検査場の先の売店に納品されたというだけで、その他大勢の仲間とは違う運命を辿ることになるのである。

ほんの少しの違いで、未来は大きく変わることになる。

そんなことを考えていると、今の自分がこの場所にいるのも偶然が積み重なった結果なのだと思えた。

子どもの頃はおろか、(当時から)ほんの23年前の私ですら、自分が海外へ行くなどと全く思っていなかった。

飛行機に乗るのは怖いし、海外のことは全く興味がなかったし、英語は喋れないし。

  • もし、今の仕事が続けられずに、資金が貯まらなかったら…

  • もし、1年前にたまたま海外へ目を向けることがなかったら…

  • もし、3年前、仲の良かった友達と連絡が途絶えることがなかったら…

  • もし、「学校卒業後に正社員としてまともな会社に就職」という「普通」のコースを歩んでいたら…

これらが一つでも起こっていたら、今の私はここにはいない。

仮に別の世界があったとしたら、その世界の私と今の世界の私はどちらが幸せなのだろうか…

普段はそんなことを考えないが、初めて飛行機に乗るため少々ナーバスになっていた私は、そんなセンチメンタルなことを思っていたのであった。

・これからの10年はどうなるのだろうか?

人間の運命は些細な偶然で大きく変わる。

10年前の私は今の私の姿を予想していただろうか?

非正規の仕事を転々としていることは何となく想像していたが、外国に興味を持ったり、英語の勉強をしたり、外国人と交流することは全く予想していなかった。

だって、中学校を卒業した時の英語の成績は5段階評価の「」だったから。(大げさではなく本当の話である)

飛行機に乗ることが怖かったため、地元を離れて東京で働くことも予想していなかった。

私のような社交性のない人間が、まさかブログを書くことになるとも思っていなかった。

これが人生というものなのだろうか…

そして、これから先の10年はどんな人生になるのだろうか?

今のところ、地元に戻るつもりも、結婚して自分の家庭を持つつもりもない。

しかし、何かの偶然でそうならないとも限らない。

さて、最後に10年前に付き合っていた友人たちの話をさせてもらいたい。

一人目の友人であるカンダは彼が就職して4年ほど連絡が途絶えていたが、街を歩いていると、偶然にも仕事中の彼と遭遇したことが一度だけあった。

私たちは近況を報告し合ったが、彼が仕事中ということもあって、私はすぐに去り、後で電話をする予定だった。

だが、電話番号はすでに変更されており、当時の私も地元を離れていたため、なかなか直接会う機会もなかった。

半年後、私は彼の働いていた店へ行ってみたが、彼はすでに退職しており、その後は今に至るまで再会できていない。

もう一人の友人であるマサルも就職後に何度か電話で連絡を取り合っていたが、突然、電話がつながらなくなった。

私は彼の家族に電話をしてみたが、彼は親戚の家に住み込みで仕事をしていて、今は携帯を解約していると言われた。

のだが、実のところそれはウソで、突然、精神疾患を発症したため、しばらくの間、リハビリ施設に入れられていたらしい。

彼は今も実家に住んでいるが、スマホもパソコンも持っていないため、このITの時代においても、東京に住んでいる私とはネットを通してつながることができない。

それでも、私が帰省した時は必ず会って昔話をしている。

彼と再会できた時は最後に会ってから6年の歳月が経過していた。

再会のきっかけは、上京前に「ひょっとしたら、これが最後になるかも…」と直感して、どうしても彼に会いたくなったからである。

「地元を離れるから」という口実もあり、それを知った彼が「一度だけなら」と承諾してくれるのではないかという期待もあった。

彼は実家にいないと聞いていたため、私は彼へ宛てた手紙を家族に渡すことにした。

その手紙を渡すために彼の実家を訪れたら、いないはずの彼が出てきたのである。

ちなみに、彼の家族は彼の存在を隠すために部外者との接触を断っていたものの、私が訪れた時はたまたま彼以外の家族全員が仕事や買い物に出かけていたため、普段は来客の応対などしない彼が顔を出したのであった。

彼の不可解な言動を目にした私が困惑していたところ、たまたま、彼の両親が帰宅してきた。

彼らはこれ以上隠せないと観念したのか、事のすべてを私に打ち明けてくれた。

そこで、私はようやく真実を知った。

つまり、彼との再会も思いもよらない偶然の賜物だったのである。

  • もしも、あの時、私が地元に住んでいなかったら…

  • もしも、あの時、私が上京しなかったら…

  • もしも、あの時、私が「彼に会えなくなるのでは…」と思わなかったら…

  • もしも、あの時、彼以外の家族が自宅にいて、彼と直接顔を合わせることがなかったら…

  • もしも、あの時、彼の家族が絶妙なタイミングで帰宅しなかったら…

この中のどれか一つでも起こらなければ、私は彼と旧交を温めることはできなかった。

彼と再会できた時のことを考えると、改めて人生とは何かの偶然で大きく変わるものだと感じるのであった。

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