年末年始に帰省した時、昨年同様に地元の友人と食事をした。
そんな彼が来年(つまり今年だが)の目標としてこんなことを言った。
「最近寝る前にYouTubeで動画を見ていると、必要のない動画までダラダラと視聴してしまって、全然寝られていないことに気づいた」
「だから、今年はその習慣を断つことを目標にする」
それを聞いた私は思わず頷いた。
私も同じような経験をしていたからだ。
・無意味な動画探しと決別するために
私が動画探しの罠に陥っていたのは就寝前ではなく、食事の時だった。
夕食や休日など自宅での食事の時、「せっかくだから食事の時間を有効活用したい」と思い、何か適当な動画を探し始める。
だが、いざ探してみると、なかなか見たいと思う動画が見つからず、食事の時間よりも動画を選ぶ時間の方が長くなってしまうことが少なくない。
これでは本末転倒である。
そんなことを繰り返していた私は、彼の言葉を聞いて、同様に「この習慣を改めなくては…」と決心した。
そこで考えた対策が、「食事中はYouTubeではなく、U-NEXTで昼ドラを見る」ということだった。
昼ドラのいいところは、まず一本の長さがだいたい25分前後であること。
これは食事の時間にぴったりだ。
それに、話が続きものであるため、「今日は何を見ようかな…」と悩む必要がない。
これは食事のように、毎日の習慣として必要な時間に漠然と見ることにうってつけである。
よくよく考えると、昼ドラとは本来そのような目的で放送されているのではないか?
私が選んだのは、自分が子どもだった20年ほど前に放送されていた作品だった。
そのような動画については、かつてこれらの記事に書いた通り、数年前から視聴していた。
それを「楽しみのため」ではなく、日々の習慣として見ることにした。
子どもの頃も含めて、ほとんどは一度は見たことがあるストーリーだが、改めてみると、当時は気付かなかった登場人物の葛藤や親世代の苦悩、社会の空気感などが、まるで別物のように胸に迫ってくる。
自分の両親や職場の上司などの大人たちも「こういう気持ちだったのかもしれないな」などとしみじみと思う。
・物語は苦労が伴うもの
ところが、そんな昼ドラ生活も、ここ最近はぱったりと止まってしまい、気がつけば、またもYouTubeの動画を漁る日々に逆戻りしていた。
きっかけは明確ではなかったが、なぜか昼ドラを見る気分ではない。
「一度見たことがあるから退屈なのか?」
「一作品が完結するために40~65話も見ないといけない長期戦にうんざりしたのか?」
そんな漠然なことを考えていた。
しかし、ここでそのままYouTubeに流れ込んだら、昨年までと全く同じだ。
私は「なぜまた昼ドラを見なくなったのか」を必死に自問していた。
すると、あることに思い当たった。
その理由は、「物語が序盤だったから」である。
昼ドラというのは、基本的に波瀾万丈のストーリー展開を売りにしている。
最終的には主人公が周囲に認められたり、家族や仲間とつながったり、ハッピーエンドで物語は幕を閉じるのが定番だ。
しかし、その過程で、特に序盤では主人公は周囲から浮いた存在であり、いじめられたり、裏切られたり、理不尽な目に遭ったりすることが多い。
私は、その「辛い部分」を直視したくなかったのだと思う。
明るい話、楽しい話、笑える話を見たい気分の時に、重苦しいシーンが画面いっぱいに広がると、それだけでチャンネルを変えたくなってしまう。
要するに、私は物語の核心ともいえる主人公の成長過程から、目を背けていたのだ。
「別に好きな動画だけを見ればいいじゃないか」とも思う人もいることだろう。
わざわざ苦しい思いをして、精神をすり減らしてまで視聴する必要はない。
だが、どこかで引っかかる思いがあった。
人生において、困難な時期や不快な状況というのは、避けて通れない。
人とぶつかったり、自分の至らなさに落ち込んだり、努力が報われなかったりすることは誰にでもある。
ドラマの序盤は、まさにそうした現実の縮図なのだ。
そうしたことに蓋をして、「少しでも気に入らないことがあったら、ブロックしてすべて解決」という浅はかな思想はこの記事でコケ下した弱い人間たちと同じではないか?
YouTubeのアルゴリズムは、私たちに心地よい動画を次々と提供してくれる。
笑える動画、動物の癒やし動画、ゲームの実況、トレンドのまとめ…。
それらを見ていると、気分は楽だ。
何も考えなくても、映像が勝手に流れてきて、適度な刺激を与えてくれる。
だが、そこには、理不尽さや不条理、誰にも気づいてもらえない努力、思わぬ裏切りと、遅れて訪れる報いのような「物語」はない。
昼ドラには、それらが一本のドラマの中に詰まっている。
かつての私はそうした苦労の末にハッピーエンドを勝ち取るという姿に惚れこんで、昼ドラを食い入るように見ていたのではないか?
もちろん、すべての動画視聴が自己鍛錬である必要はない。
ただ、自分が「楽な道ばかり選んでいる」と感じたなら、それは心のどこかでチャレンジ精神が鈍ってきている証拠かもしれない。
今日もYouTubeの甘い誘惑に駆られる前に、「まずはあの昼ドラの続きを見よう」と声をかけてみる。