孤独の苦しさと自由の快適さのジレンマ

私がペンペルサイトを使い始めて三年以上経った。

その中で私が感じたことは、どの国で生活しているかにかかわらず、日々の生活の中で孤独を感じている人が多いということである。

だが、そのような人の多くは「寂しい」という感情とは真逆のことを行うことが珍しくない。

・「孤独は嫌だ!!」と言いながら、すぐにバックレる人たち

日常生活の中では自分を理解してくれる人がいないから、見ず知らずの外国人にメッセージを送る。

それが可能なのがインターネットの良い所だと思う。

彼らはこの人たちとは違い、自分の生活や生い立ちについてよく話してくれる。

それから、「もっと仲良くなりたい」と言ってくれることも多い。

しかし、そんな孤独を嫌っていた彼らが突然バックレることが珍しくない。

私が「最近、どうしている?」というメッセージを送っても全く返信しないか、別人のように素っ気なくなる。

しかも、3日や4日の短期間で。

一夜限りの関係で終わることも珍しくない。

一、二週間メッセージ交換を続けて、「やっぱり、この人は思っていた人と違う」と思ってバックレるのなら、私の対応に原因があるかもしれないが、一日や二日で、そう判断されたら私としても良い気はしない。

彼らは一人でいることに孤独を感じていたのに、なぜすぐにバックレるのだろうか?

・孤独の副産物

「孤独」という言葉はマイナスのイメージで語られることが多い。

「孤独は嫌だ」

「誰かと一緒に居たい」

「自分のことを分かってくれる親友を見つけたい」

引きこもりとまではいかなくとも、このようなことを思って生活している人は少なくないだろう。

しかし、その前に考えてみたい。

・孤独とは本当に「百害あって一利なし」なのか?

・孤独の中にも良い所はあるのではないか?

たとえば、孤独と「自由」は表裏一体である。

自分の周りに親しい相手がいないということは、それだけ、誰にも縛られることなく自由に自分のやりたいことをできるということでもある。

たしかに、孤独が生む自由とは、時に快適なものである。

私が想像するに、彼らは一人でいる期間が長かったため、孤独の辛さを感じつつも、同時に自由の快適さに慣れきってしまったのではないだろうか?

だから、自分が寂しい時は誰かと繋がりたいと思い、いろいろなことを話すが、そうでない時は相手が鬱陶しくなるのだろう。

これは田舎の車生活に似ている。

田舎在住の人は「田舎は車がないと、仕事も買い物も満足に行けないから本当に不便なんですよ~」と口では言いながら、車で移動することの快適さにすっかり慣れきっているため、たとえバスや電車で移動することが出来ても、車の使用を止められないということが珍しくない。

車を使えば、家から目的地まで一直線で行けて、雨風に晒されることもなく、周りを気にすることなくプライベートな空間で楽しく移動できる。

そのため、今さら公共交通機関を利用する不便さには耐えられない。

たとえば家から駅まで、駅から目的地まで歩くことが必要で、時間(時刻表)に縛られて、家族や友達と一緒でも周りに気を使ってやりたいことができないとか。

私も車生活に慣れきった後で都会に引っ越してきたので、最初は苦しんだ。

同じ「移動時間の1時間」でも、車なのか、それともバス、電車(+駅までの徒歩)なのかでは内容が全く違う。

多分、「結婚したいけど、出会いがない」とか言って、独身生活を続ける人も似たようなものだと思う。

結婚となると、その代償に失う自由は相当のものだろうし・・・

孤独を嫌えば自由を失う。

うーん、これは難しいジレンマだ。

・孤独のつらさと自由の快適さの間で揺れたもの

実は私も似たような経験をしたことがある。

かつて、私はフィリピンの語学学校で英会話を習っていたことがあるのだが「明日は休みだから、町に出て、現地の人がどんな生活をしているのかを見てみよう」と考えていたことがあった。

そんなことを考えながら食堂で夕食を食べていると、同じ学校の仲間が「明日は何人かでプールに行くんですけど、一緒に行きませんか?」と誘ってくれた。

「一緒にプールに行こう!」と誘われることは、私にとっては小学生の時以来の出来事である。

地元の親しい友人とも何年も会っていなかった私は久しぶりに友人の暖かさを感じて、喜んで誘いを受けた。

しかし、部屋に戻って一人になった瞬間、自分でも信じられないような冷酷な感情に襲われた。

「明日は予定があったのに、それを狂わされた!!」

幸い、まだ日程に余裕があったため、それは別の日に行うことが出来て、次の日はプールで楽しく過ごすことが出来た。

彼が一緒にプールに行こうと誘ってくれたことは感謝している。

だが、今になって思うと、あの時の一瞬の感情が、「誰かと関わることで楽しい思いをすることは出来るが、自分の予定を狂わされた」という孤独と自由の間の揺らぎだったのかもしれない。

・人と関わるということ

「孤独は嫌だけど自由の快適さを捨てるのも嫌だ!!」

素人考えだが、これが孤独を嫌う彼らがすぐにバックレる理由だと私は思う。

たとえ、対面のコミュニケーションでなくても、相手は心を持った人間である。

というよりも他人であり、常に自分が望んだ返事を返してくれるとも限らない。

それは自分にとって居心地のいい情報ばかりを与えてくれるYouTubeの動画や匿名掲示板の閲覧とは違う。

「だから、やっぱり関わり合いになるのはやめにしよう・・・」

自分にとって都合のいいタイミングで返信できるメールのやり取りでさえ、こんな感じである。

孤独を感じつつも自由を失いたくない人間が対面で友達を作っても、自由な時間を捨てて、相手と顔を合わせて、相手の要望に合わせた食事をしたり、遊びに行ったりして友達関係を維持することがどれだけ困難なのかは、想像に難しくない。(それが出来ずに、またネット上で幻の理解者を求める、ということが繰り返されるだろうが・・・)

少なくとも、私が言えるのは、

「私たちは孤独から生まれる自由の快適さを知ってしまった」

ということ。

今では、小学生の時のように、「休日や放課後は毎日、仲のいい同級生の〇〇君と遊びに出かけて、決して壊れることのない友情を感じる」というような関係を作ることは不可能だ。

そんなことが出来たのは、お互いに自由の快適さを知らなかったからであり、それを知ってしまった今、そんな関係を目指してもお互いに不幸になるだけだろう。

自分には一人になる時間が必要だが、それは相手にも必要なこと。

その中で落とし所を見つけて、一人ひとりの相手と付き合っていくしかない。

・今日の推薦本

「空気」と「世間」 鴻上尚史(著)

共同体の縛りにうんざりしつつも、誰かと繋がっていたいと思っている人が、少しでも楽に生きるための方法を学ぶのに最適。

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