留学先で出会った日本人たち

前回の記事の冒頭で少し触れたが、今年もそろそろ1年を振り返る時期になった。

というわけで、今年書いた記事を読み返して、補足や追加情報が必要な箇所はないか探していた。

今日から数回は既出の記事で伝えきれなかったことについて話をしたいと思う。

・あの人は今何をしているのだろう?(海外編)

9月の末に、Facebookを初めて使用した時の記事を書いた。

概要はこうである。

学生時代の恩師に連絡を取りたくなったものの、本名以外に手がかりがない。

本名だけで探し当てることができる可能性があるFacebookを使って探すことを思いつく。

結局はそこでも、彼女を見つけることができなかった。

だが、せっかくなので、元同級生の様子を覗いてみることにした。

大多数の人がすでに更新を止めていたため、現在の様子を除くことはできなかったが、それでも中学校で別れて以降の話には驚くような発見が多々あった。

この記事では、主に中学時代の元同級生についての話をして、彼らの進路に驚きながらも、これからの飛躍を誓ったところで話は終了した。

しかし、私のFacebook探索には続きがある。

私には元同級生以外にも現状を知りたい人物がいた。

それはフィリピンで出会った日本人の留学生仲間である。

彼らとの思い出は私にとって一生の宝物だが、今では彼らの誰とも連絡を取っていない。

LINEで帰国を報告した後、私はLINEのグループを外れた。

学校を出た以上、そうすることは当然なのだが、別れを惜しんでくれた彼らに対して、個人的に連絡先の交換を持ちかけることをせずに、ひっそりと去ることにした。

今になって考えると大変愚かなことだったが、当時はこの記事で書いた通り、一人の生活に慣れ過ぎたせいか、誰かと繋がることに何とも言えない煩わしさを感じていた。

だが、やっぱり今になって後悔している。

「今の彼らと話がしたい!!」

そんな想いを抱いていたので、Facebookの使用を機に、彼らとの接触を試みようとした。

しかし、小学校の同級生同様名前が漢字で思い出せない。

というか、知らない。

学習室の張り紙やホワイトボードに記載されている名前はすべて英語だったし、LINEのグループに入っていた時も、誰一人として、ユーザー名に本名を使っていた人はいなかったから。

学校や校長の名前は憶えているため、友達リストや留学当時の書き込みへのコメントを基に手がかりを探したが、それも上手くいかなかった。

これでは元同級生の時と全く同じである。

・共に行動していた4人の仲間

さて、ここからは私が連絡を取りたいと思っている、当時親しくしていた留学生仲間について紹介させてもらいたい。

「いや、そんなことをして、一体誰が得するの?」と思う方もいるかもしれないが、望みは薄くても、彼らがこのブログを読んで、返事をくれる可能性も無きにしも非ず、ということで勘弁して欲しい。

このブログでは過去に留学仲間である「寅さん」について紹介したことがある。(その時の記事はこちら

当時の彼は40代半ばだったが、そのような年代の人は彼一人で、残りの全員は同世代だった。

その中から、共に娯楽施設やプール(もちろん、水泳嫌いの私はビーチで雑談をするだけだが)へ出かけることが多かった4人の仲間を紹介したい。

なお、彼らの年齢はすべて当時のものであり、名前はすべて仮名である。

・①:ケンタロウ(31歳男性)

寅さんのような特別枠を除く、同世代の留学仲間で最年長だったのが31歳のケンタロウだった。

20代半ばの私でも高齢だった中で、彼は一人抜け出た存在だった。

彼は自分だけが30代であることを嘆いていたが、年長者としての自覚があったのか、常に先頭で仲間を引っ張っていた。

私も彼から食事に誘われたり、ビリヤードのやり方を教わったりした。

彼は東京都の練馬区出身で、両親共に教師という厳しい家庭で育ったらしく、その反発からなのか、定職に就かず、両足の見える位置にタトゥーを入れていた。

彼が英語を勉強していたのは、日本社会の息苦しさから逃れるためである。

当時は31歳だったが、誕生日前にオーストラリアのワーキングホリデービザを取得していたらしい。

「家族を養うために、正社員として何十年も嫌な仕事を続けるのは嫌だ!!」という典型的なアウトロー属性だったが、今では自身を育ててくれた両親に感謝する発言もしていた。

これまでに、どんな仕事をやっていたのかは不明だが、年相応に知見もあり、「ウェーイ!」みたいなノリが苦手な私とある程度話ができた。

・②:タカユキ(25歳男性)

私がフィリピンで最初に会話をしたのが、タカユキという男性である。

現地に着いたのは夜の10時半で、ハウスキーパーによる施設内の案内が終わった後、一人で食堂にあるウォーターサーバーを利用していると、金髪姿の男性から声をかけられた。

彼がタカユキで、私と年が近く、出身地も同じ西日本の某県の田舎であり、偶然にもそこは私の母の出身地だった。

だが、不思議と現地で地元の話をすることはほとんどなかった。

彼はケンタロウに次ぐリーダー格で、よく遊びや食事に誘ってくれた。

大人の風格があるケンタロウとは対照的に、彼は典型的なノリのいい「あんちゃん」という雰囲気だった。

ちなみに、「もう英語は十分」、「帰国後は沖縄へ行きたい」と発言していたこともあり、留学してまで英語を学んでいた理由は一切不明である。

別れ際にこんな会話をしたのが印象的だった。

早川:「僕は大人数でワイワイやるのが得意ではなかったけど、いろいろと遊びに誘ってもらってとても有難かったです」

タカユキ:「いえいえ、僕の方こそ、誰でもすぐに誘いたがる性格なので、迷惑じゃないかと心配していたけど、そう思ってくれてとても嬉しいです」

たしかに不思議な関係だった。

もしも、彼が高校生の時に同級生として出会っていたら、絶対に近寄りたくないタイプだった。

しかし、20代半ばという年齢だったためか、お互いに距離を取って上手い具合に付き合うことができた。

私たちも大人になったということだろう。

・③:マナミ(24歳女性)

詳しい関係は不明だが、タカユキの彼女的存在がマナミという女性だった。

彼女もタカユキ(と私)同様に西日本の某県出身だが、彼女は都会の方の出身で、私もその町には数年前に住んでいたことがある。(この記事で紹介した一時的に実家を出て働きへ出てきた町)

彼女はいつもタカユキと一緒に行動し、ラインのプロフィール画像も彼と寄り添って撮った写真だった。

女性の留学生もいたが、彼女はいつも男グループに同行し、紅一点的な存在だった

次に紹介するマコトのことを弟のように可愛がり、無口で不愛想な私のこともいろいろと気にかけてくれたこともあり、元々、男との付き合いに慣れていたのかもしれない。

そんな彼女であるが、高校を卒業してからは2年間無職として過ごした後は、地元でケーキ販売の仕事をしていたらしい。

ちなみに、彼女は私の帰国日にセブ島へ旅行へ行くから、「もう会えないかもしれない」と直々に挨拶に来てくれた。

のだが、私は彼女の「セブへ行く」という発言を「セブンへ行く」つまり「近所のセブンイレブンへ行く」と言っているのだと勘違いし、「そんなコンビニへ行く程度のことで大げさな…」と思い、真剣に挨拶をしなかったのが心残りである。

LINEで帰国を報告した時に最後の挨拶ができたのがせめてもの救いだが…

・④:マコト(21歳→22歳男性)

私と同じ日に授業を開始したのがマコトという大学生だった。

沖縄出身で、フィリピンへ来る前も香港でインターンを経験していたこともあったらしい。

ほとんどの学生は旅行気分でやって来るためか、学習時間は14時間程度だが、彼は毎日8時間の授業を受けていた。

だが、ガリ勉タイプというわけではなく、遊びにも積極的に出かけていた。

2週間後に高校を卒業したばかりの18歳の青年がやって来るまでは、彼が最年少だったためか、誰からも弟のように可愛がられていた。

仲間でプールへ行った時に、グループの誰かが誕生月だったら、入場料が割引されるサービスを案内された時に、偶然、彼の誕生日が間近であることが判明した。

そのことを知ったケンタロウやマナミが密かに誕生ケーキを用意して、皆で彼の誕生日を祝った。

彼から聞いた面白い話がある。

プールの帰りにショッピングモールへ行って食事をしている時のことだった。

タカユキがマニラではエスカレーターに乗る時に左側を空けることを指摘したら、大阪の出身者が「大阪でもそれが普通」と言ったことで、「各々の出身地では、どちら側を空けているか?」で議論になった。

そんな時、彼は「沖縄ではエスカレーターを歩く習慣がないから、2列に並ぶことが当たり前で、そんなこと考えたことなかった」と答えた。

エスカレーターの管理者は安全性の問題から、「エスカレーターは歩かないで!!」と長年も呼びかけているのに、その声かけは相変わらず無視されている。

そんな人たちが、彼の発言を聞いたら、どんなにホッとするだろうか。

10年後にまたこの場所で会いましょう

この4人が、私がフィリピン滞在中に共に行動することが多かった仲間である

ちなみに、この4人は全員が喫煙者である。

新メンバーの歓迎会の時にケンタロウがこんなことを言った。

「ここで出会ったのは日本では出会えない人たちばかりなんだよ」

たしかに国内であれば、非喫煙者の私が彼らと共に遊びへ出かけるなど有り得なかったことだろう。

その他にも、英語関係の資格は英検5級のみだが、現地の人との通訳を担ってくれた大学生や、半年間留学して、その後はフィリピンの会社で就職を決めた20代半ばの青年、私と同い年だった料理人など色々な人たちと出会った。

語学学校は、大学や専門学校のように1年単位で学生が出入りしているわけではない。

仮に2010年に留学したとしても、3月時点での学生と9月時点の学生では顔ぶれが大きく異なる。

そのため、201X年度卒業者名簿などなければ、同窓会も開催されない。

もちろん、街中でバッタリと出くわしても、気づくことはないだろうから、フィリピンを離れる前に、誰か一人でもいいから連絡先を聞いておくべきだった。

今月最初に書いた記事で、これまでに20以上の職場を転々としてきた人物であるカワサキ(仮名)に対して、「10年後、また同じような形で会いたい」という話をした。

この発言は私のオリジナルではない。

元ネタは、私の歓迎会と翌週で帰国する人のお別れ会を兼ねた席で司会を担当していたケンタロウが言った言葉である。

10年後にまたこの場所で会いましょう!!」

もうすぐ「10年後」という約束の期間の折り返し地点に達しようとしている。

そんなことができないことなど当時から分かっていた。

それでも、「あの場所で再会できたらなあ…」と思ってしまう。

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