2013年11月。
私は留学の下見のために初めての海外旅行へ出かけることになったのだが、言葉が通じないこともあって、何度も危険な目に遭った。
そんな中、ようやく今回の宿泊するホテルに到着することになった。
・やっぱり英語は通じません
ホテルの中に入ると、受付には西洋系の顔立ちをした中年女性がいた。
私は自分の名前を伝え、予約確認書とパスポートを見せた。
彼女は料金の支払いは既に済んでいるがデポジットを渡すように言った。
デポジットを受け取った彼女は私に何か言って、室内へ入っていった。
私も彼女について行こうとしたが、彼女に止められた。
例によって何を言っているのかさっぱり分からないが、仕方なく、その場で待つことにした。
しばらくすると彼女は別の女性スタッフを連れてきた。
どうやら彼女は「案内係(実はそちらの女性がマネージャーだったのだが)を連れてくるから、ここで待つように」と言っていたらしい。
そういえば何度も両手を下にして「here!」と言っていたような…
この程度の聞き取りもできないとは…
一体何のために1年以上も英語を勉強してきたのか…
トイレや洗濯機などの設備の案内が終わると私が泊まる部屋に案内された。
絨毯敷きで清潔感のある部屋だが、とても小さく、窓もなかった。
まあ一泊3000円ではこの程度のクオリティーだろう。
部屋に着いた私は、先ずパソコンを開いた。
受付で渡されたwi-fiのパスワードが使えるかを確認するためである。
次はアパートの内見のためにエージェントに電話をかける。
部屋の内見は明日だが、その日に一度電話を掛けることを約束していた。
携帯電話に付属していた説明書など読めるはずもなく、日本で使用しているものと同じように電話番号を押して発信ボタンと思われるボタンを押す。
つながった。
エージェントが電話に出る。
私は自分の名前とクアラルンプールのホテルに居ることを伝える。
それを聞いた彼は私に質問するが、私は「which~」という単語しか聴き取れない。
私はとっさにパソコンでグーグル翻訳に接続し「あなたの声が聞き取れない」(ウソ)と入力し、翻訳された英文を伝え、一旦電話を切った。
その後、すぐにメールで謝罪と私が英語の会話に慣れていないためメールでやり取りをしたいことを伝えた。
彼は快諾し私に「今、どこのホテルに居るか?」と尋ねた。
ああ、さっきのWhichは「Which hotel」のことだったのですね。
私がホテルの名前を伝えると、彼はそのホテルの場所を知っており、彼の職場も近くにあるため、仕事が終わったら、一緒に夕食に行こうと誘ってきた。
その誘いは嬉しかったが、その日は前日の移動の疲れもあったため、眠たくて仕方なく、「明日にしてくれ」と伝えた。
その日の夕食は近所のセブンイレブンでパンを買うことにした。
日本では最低でも100円はするパンが1RM(約30~32円)で売っていた。
やはりマレーシアは物価が安い。
日本の三分の一だという前評判は大げさだと思っていたが、案外そうでもなさそうである。
味も申し分ない。
その後は、食堂で雨漏りが発生したことをきっかけに、同じ宿に泊まっていた日本人の留学生と交流することになったが、その話をすると長くなるので、詳しくはこちらの記事をご覧頂きたい。
・部屋が見られない?
翌日、私は午前5時前に目を覚まし、朝食を取った後は、部屋に籠ってしばらくはネットサーフィンをしていた。
この日はアパートの下見をする予定である。
10時過ぎにエージェントにメールを送る。
下見についての最終調整である。
すると彼は私に「紹介する予定だった部屋の住人が急遽退去期間を1ヶ月延長することになったので、部屋が空くのは12月以降になる」と言った。
私がマレーシアに留学するのは2014年以降だとは伝えていたので、その部屋を紹介することは問題ないのだが…
だが、入居者がいるというのに内見などできるのか?
私は彼に確認した。
早川:「You mean that I can’t see the room until I left Malaysia?」
エージェント:「You are right.」
オイー!!
なんじゃそりゃー!?
彼は「それでも安心してこの部屋を勧めることができる」と言ったが、私はただでさえ分からないことだらけの外国でそんなリスクを冒すことなどできない。
彼には「内見できない部屋を契約することはできないから、学校が用意する部屋にする(ウソ)」と言って断りを入れた。
「私は一体何のためにここへ来たのかだろうか?」
せっかく海外に来たのに英語が全く話せない。
入学する予定だった学校の料金も跳ね上がり計画を変更しなくてはいけない。
家を借りることもできない…
ここで私にある考えがよぎった。
「マレーシアに留学するのは止めた方がいいのでは…」
およそ1年前からずっと「マレーシアへ行きたい」と思っていたが、その理由はあくまでも日本に居たくない(働きたくない)からという後ろ向きなものだった。
海外は自由だとか、生きやすそうだとか漠然とした憧れはあったが、「絶対にこの国で生きるんだ!!」という強い信念はなかった。
一人で部屋に居ても暗い気持ちになるだけなので、とりあえず街に出ることにした。
ホテルの近くを歩いていると中華街が見えた。
「ここで屋台の料理でも食べようかなあ」と思いもしたが、やはり英語で注文する勇気はない。
とりあえず、店員に話しかけられる可能性の低そうな大きなショッピングモールに行くことにした。
特にやることも無く店内を散策した後は、セブンイレブンで買ったパンをベンチで食べた。
・嫌いな人との会話でさえ…
日が暮れる前にはホテルに戻った。
私はその日やらなければならないことがあった。
職場への電話である。
私の職場では毎月15日から20日にかけて翌月のシフトの希望を提出するのだが、その月は私が出発する17日になっても希望休を書き込む用紙を渡されなかった。
私が職場に復帰するのが24日だから、その日に希望を伝えても、すでに締め切られている可能性もあるため、マレーシアから職場に電話で伝えることにした。
職場の定時の退社時間は17時半である。
日本とマレーシアの時差は一時間だから、私は(現地時間の)16時過ぎに電話をかけることにした。
これまで、国際電話をかけたことなどなかったが、ネットで調べた通り、最初に81を押して、市外局番の0を外した番号を入れてみたら繋がった。
電話には正社員のB(仮名)が出て、私は彼に翌月の希望休を伝えた。
彼は私がマレーシアから電話を掛けたことに特に驚くことはなく、こちらの状況も聞かれなかったため、1分もかからない短い通話だったが、私は今まで感じたことのない気持ちになった。
正直言って、私はこれまで彼に対していい印象を持っていなかったが、そんな彼との短い会話ですら、今まで当たり前だと思った職場の光景を思い出して、それがどうしようもないくらい尊いものであったことに気付いた。
電話をかける前に日本との時差を考えた時もそうだった。
「今のマレーシアが16時だから、日本は17時で、多分職場では誰と誰がどんなことをやっていて、家ではこんなことが…」というそれまでの日常を想像していた。
すでに使い古された感のある言葉だが、「幸せとは失って初めて気づく」ものである。
この日の出来事で、私は完全に今回の留学計画に後ろ向きな気持ちになった。
・あと2日は何して過ごそう?
この日は11月21日。
ここでもう一度、今回の旅行の予定表を確認しよう。
・2013年11月
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
退勤後に家を出る | 上海経由で夜にKLへ | KLに到着、学校を見学 | アパートの内見 | 今ここ | 夜にKLを出発 | 上海経由で日本に到着 |
当初予定していた学校やアパートの下見も終了し、この日と翌22日は完全にフリーとなる。
といっても、これまでの経緯から、「楽しく市内を観光するぞ!!」という気にはなれなかった。
この時点で私の気持ちは完全にマレーシアから離れており、日本に帰ることしか頭になかった。
とりあえず、この日はホテルの近所を回って、職場と家族へのお土産を探したり、誰にも話しかけられないように人気がない場所をうろつくことにした。(もちろん、スラム街のような危険な場所には近づかない)
市内を歩き回って印象的だったことは、クアラルンプールの有名な観光地であるペトロナスツインタワーのすぐ近辺に古びた住宅が多く残っていたこと。
(※:カメラの電池を取り替えた際に日付設定を間違えたため、写真では前日の日付になっている)
おそらくマレーシアの中でもかなり高い地価があるであろう場所に、どうしてそのような建物が残されているのだろう…
そこに日本では見られない不思議な魅力を感じた。
この日は、出発前に宿泊させてもらった弟へのお礼の品と、実家の家族、それから職場へのお土産を購入した。
余談だが、この日は生涯で初めて、丸一日、日本語を聞くことがなかった。
マレーシアに来てからも、語学学校の日本人スタッフや職場への電話でわずかながらであるが日本語で会話をしていた。
そんなことも帰国をより一層渇望させることになった。
翌22日、この日がマレーシアに滞在する最終日である。
ホテルの最終チェックアウト時刻は10時だったが、9時前にはホテルを出た。
ちなみに、初日に支払ったデポジットは全額返ってきた。
早めにホテルへ出てもやることは何もない。
ただ、「ようやく日本に帰ることができる」という気分でウキウキしていた。
この日の予定は一日中、LRTというクアラルンプールを走る電車を乗り倒して時間を潰し、夕方の6時頃、空港へ向かう列車に乗る。
飛行機の出発時刻は23時過ぎだが、万が一の場合に備えて余裕をもって空港へ着くことにする。
というよりも、「他にやることがないから」というが一番の理由なのだが…
・電車の中でこれまでのことを振り返る
一日中電車に乗るといっても行きたい目的地があるわけではない。
とりあえず、路線の端から端まで乗って時間を潰す。
日本でいうところのフリー切符のような乗り放題券を購入するのではなく、運賃は通常通り支払った。
それでも、日本円で1000円程度だった。
物価が安いマレーシアだが、市内の交通費は際立って安いと感じる。
詳しい場所は憶えていないが、終着駅で電車を降りて、ホームでジュースを飲みながら、折り返しを待っていると、現地の小学生と思われる集団を見かけた。
引率者らしき大人が2人ほどいる。
おそらく小学校の遠足だろう。
男性の引率者が子どもたちに問いかけた。
引率者:「みんな、電車の電気はどこから送られてくるのかな?」
子どもたち:「線路の上の電線!!」
このやりとりを見ていた私は最初気にも留めなかった。
こんなこと日本ではありふれた光景だったためである。
しかし、私はすぐに重大なことに気づいた。
ここは日本ではなく、マレーシアである。
「え、日本語!?」
子どもたちや引率者の外見から判断すると、恐らくマレーシアの「日本人学校」の人たちだったのだろう。
彼らと言葉を交わしたわけではないが、異国の地で思わぬ形で同じ日本人に出会ったことに少し感動した。
電車で移動している私はずっと窓の外の景色を眺めていた。
私は1年前から、この地に一体何を求めていたのだろう?
-
息苦しい日本と違う自由な暮らし
-
安い資金で留学できる物価の低さ
-
新興国でありながら、低い凶悪事件の発生率
-
英語が通じるが、ネイティブではないため、完璧な英語をしゃべる必要のない気楽さ
そんな都合がいいことばかり考えていた。
手っ取り早く言えば、「ここへ来れば、今までの自分から変われる」と思っていた。
だが、この数日の経験でそれは幻想だったことに気付いた。
念のために言っておくが、これは「マレーシアが期待外れの国だった」という意味ではない。
私は自分にとって都合のいいことしか考えていなかったのである。
語学学習についてもそうだった。
私は「上手く覚えられない!!」と嘆きつつ、ただ一人で本と向き合っていただけで、誰かと交流して「自分に何が足りないのかを知ろう」などとは微塵も考えていなかった。
今になって考えると恥ずかしいが、私は出発前に職場の同僚と今回の旅行の話をしていた時に、「一週間の予定ですけど、現地の居心地があまりにも良すぎて、日本に帰らずにそのまま滞在ということもあるかもしれませんよ」などと豪語していた。
我ながら何という浅ましさだろうか…
現地で数日暮らしてみて、現実の厳しさと自分の考えの甘さを痛感した。
理想と現実の差に気づくというか、まるで、思いっきり顔をひっぱたかれて現実に引き戻された気分だった。
前日まで、「早く日本に帰りたい」と思いつつも、完全に留学を諦めたわけではなかった。
しかし、この日、電車の中で、数日間のことを振り返ったり、現地を楽しむのではなく、「言葉が通じないから…」という弱腰の姿勢から誰にも話しかけられないよう逃げ回っている自分を見て、完全に留学への未練が経ち切れた。
電車での時間潰しを終えた私はKLセントラル駅に着いた。
ここから空港行きの特急列車「KLIAエクスプレス」に乗るため、専用のチケットカウンターに向かう。
チケットカウンターへ向かう途中で、どこからか、日本語の歌が聞こえた。
「し~んぱ~い ないからね♪」
「きみのお~も~いが、誰かにと~ど~く♪」
これはKANの「愛は勝つ」という歌である。
なぜマレーシアの駅でこの曲が流れていたのかは知らない。
だが、ちょうどこの頃、日本ではPanasonicのテレビCMでこの曲が頻繁に流れていたため、これを聞いていた私は、励まされると同時に、日本での生活を思い出して、一段と日本に帰りたい気持ちになった。
(この記事を投稿している時点では、そのCMをYouTubeで見かけたが、著作権の問題があるかもしれないので、URLは付けられません)
・空港へ向かう
私が乗車する列車は空港までノンストップで走行する。
料金は日本円で2000円ほど。
現地の人にとっては割高なため、もっぱら金持ちの外国人旅行客が利用しているらしい。
マレーシア版の「成田エクスプレス」といったところだろうか。
スピードは最速で時速160kmらしい。
航空会社によっては、この電車に乗る前から搭乗手続きを行うこともできるようだが、私は空港で行うことになる。
自由席の列車だったため、着席できるか心配だったが、私は早めに列に並んだこともあり、窓側の席に座ることができた。
空港まではおよそ30分。
外はまだ明るいため、当分の間は来ることも無いだろうマレーシアの景色を十分に楽しむことにした。
この列車は専用の路線を走るため、しばらくは在来線と並走していた。
マレーシアに来る前は、マレー鉄道に乗ってジョホールバルやイポーなどの都市へ行ってみたいと思っていた。
隣の線路を走っているのはそんな都市に向かう列車だろうか?
今となってはそんなこと知ったところで、どうにもならないことだが…
列車の中では、この1年間、マレーシアに留学しようと決めた時から、この日までのことが次々と頭の中に浮かんできた。
しかし、この時の私が決断したことは、日本に残ることである。
この地で暮らしたいと思い勉強と資金稼ぎを頑張っていたのだが、それはかなわぬ夢となった。
そんなことを考えていたらすぐに空港に着いた。
さすがはマレーシア版「成田エクスプレス」である。
もうすぐ。
もうすぐで、日本へ帰ることができる。