多様性を尊重する社会によって救われている人が「多様性反対!」と叫ぶ謎

先月行われた参議院選挙では、「日本人ファースト」や「伝統的な価値観の尊重」といったスローガンを掲げる政党が議席を伸ばした。

彼らの主張は、グローバル化やリベラルな価値観への反発を軸としており、特に「多様性」という言葉への反発が色濃く見える。(余談だが、同政党の躍進については当ブログでも別の視点から予想していた

うした現象は日本だけではない。

昨年のアメリカ大統領選挙ではトランプ氏が再び当選。

彼の掲げる「アメリカ・ファースト」や移民規制、反LGBT政策といった強硬路線は、世界中の保守層を自称している人たちの希望となっている。

そこに共通するのは、「多様性を尊重する社会」に対する強烈な拒否感だ。

「男と女には違いがあるのに、それを否定して頑なに平等にこだわるのはおかしい」

「外国人ばかりが優遇され多数派の国民が逆差別されている」

そんな言葉がネット上を飛び交い(主張が事実であるかはひとまず置いておくとして)、社会にじわじわと浸透している。

多様性に反対する声が、社会の一部で常識のように語られる時代になった。

多様性を認める社会と、それに反対する人たちの主張

賢明な読者にとっては今さら説明など不要だろうが、多様性とは、性別、国籍、人種、宗教、性的指向、働き方、家族構成など、人間のあらゆる違いを尊重し共存していこうという考え方である

本来は誰かを特別に優遇するのではなく、「どんな違いがあっても排除されない社会」をつくるための理念である。

しかし、それに対して、このように反発する人もいる

「昔は男が稼ぎ、女が家庭を守る社会で上手く回っていたのに、男女平等や女の社会進出のせいで、男が非正規になって、家族を養うことができなくなり、女も働かなければならなくなった!!」

LGBTや外国人の人権ばかりが取り上げられ、自分たちは不当に扱われている!!」

「多様性なんてものがなければ、もっと多くの人がマシな人生を送れていたはずだ!!」

一見すると、社会の歪みを指摘しているように思えるが…

このような言葉の裏にあるのは、

多様性なんてない社会に生まれたら、もっといい人生を歩めたのに!

という現代社会で冷や飯を食わされていることのフラストレーションや、被害者意識ではないかと感じるのは私だけだろうか?

例えば、未婚の非正規男性であれば「男が家族を養う時代だったら、自分も普通に結婚して家庭を持てたのに!!」と考えるかもしれない。

逆に、非正規、もしくは正社員であっても、安い賃金で馬車馬のように働かされている独身女性なら、「女が専業主婦でいられた時代なら、正社員の男と結婚して専業主婦として悠々自適に暮らせたのに!!」と思うかもしれない。

そんな人たちは「自分が『普通の人生を歩めない原因は、社会が多様化して、『当たり前』というレールがなくなったからだ!!」と、社会の多様性を恨むことだろう。

そして、その恨みは、しばしば政治的な怒りとして噴き出し、「多様性反対!」「伝統的な価値観を取り戻せ!」というスローガンのもとに集結していく。

日本社会に限らず。

そんな人たちこそが多様性によって救われている

彼らの主張は筋が通っているようにも見える。

少なくとも、本人たちはそう思っているのだろう。

ところが、そこにはとんでもない落とし穴がある。

実は、そんな彼らこそが「社会の多様性によって、最も救われている」のだ。

考えてみて欲しい。

もしも、この社会が彼らの理想とする多様性などなく「男らしさ」、「女らしさ」というジェンダーによって役割が固定化された社会だったとしよう。

では、男は正社員で稼ぎ、家庭を養い、女は若いうちに結婚して出産し、夫に尽くすことが求められる。

それは「義務」とさえみなされている。

そんな社会であれば、真っ先に世間から後ろ指をさされ、嘲笑の対象となり、生きづらさに苛まれることになるのは、彼らのように「社会の標準」から外れ、非正規で家族も養っていない男性や、適齢期を迎えても結婚できない女性ではないのか?

多様な生き方への尊重やマイノリティへの配慮など微塵もないので、社会のレールから外れた彼らに対して、職場でも、親戚からも容赦ない言葉の暴力や偏見が向けられることになるだろう。

「負け組!!」、「甲斐性なし!!」、「行き遅れ!!」、「売れ残り!!」、「底辺!!」、「社会不適合者!!」、「訳アリ夫婦!!」…まだ続けようか?

そして、社会に文句を言えば、「黙って働け」、「お前に魅力がないのが悪い」と自己責任論で一蹴される。

そもそも、困難に直面した時に、黙って耐えながら努力を続ける男らしさも、どんなにろくでもない男であってもひたむきに尽くす女らしさもなく、ネット上で政治や社会への不満を吐くだけの人間に「男らしさ、女らしさを取り戻せ!」と訴える資格があるのか甚だ疑問である。

彼らが曲がりなりにも、最低限の生活を送ることが出来て、ネットに社会や政治について発言することが可能なのは、社会が「男らしさ」「女らしさ」というレールかられた、自由な生き方を許容するようになったからに他ならない

すなわち、「多様性によって切り捨てられずに済んでいる」と言える。

そんな人たちが「多様性を認める社会に大反対!!などと主張して、自らの首を絞めるのは滑稽だ。

・愚かではないが性質が悪い人

時代の変化を嘆いたり、理想の社会を語ることは自由だ。

だが、その変化の恩恵を受けながら、それを否定するのは、あまりにも頭が悪いか、自己中心的かのどちらかと言える

この記事で取り上げた社会保険料の負担についても同じだが、自分がいかに社会や制度に守られているかを知らずに、社会から搾取されている被害者であるかを語る愚か者たちのように。

それこそ、彼らが敵視している(つもりでいる)「多様性」を隠れ蓑に日本社会を蝕むノイジーマイノリティー的な発想と言えるだろう。

大事なのは、多様性を否定するよりも、まず自分が今この社会の中でどんな恩恵を受けているのかを冷静に見つめること。

その謙虚さがない人間は、社会も自分自身も変えることなど出来るはずもない

なお、多様性を認める社会を目の敵にしているのは、今回取り上げたような「社会のレールから外れて不本意な人生を歩んでいる人」ばかりというわけではない。

かつての「標準的の生き方」と呼ばれた人生を歩んでいる人にも、「マイノリティーの配慮や多様性などない社会の方が健全で生きやすい!」と訴える者もいるだろう。

彼らは、自らを保護してくれている多様性を尊重する社会を否定する人ほど愚かではない。

だが、個人的には余計に性質が悪いと感じる。

なぜなら、それは今回の主役である社会のレールから外れて貧しい生活に困窮している人たちを余計に追い詰めているからである。

それは既得権への固執を遥かに超えた「弱い者いじめ」と言える。

いくら賢くないとはいえ、ピュアな心を持っている彼らをこれ以上苦しめないであげてください。

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