心の闇に負けないために、あえて「いじめの理論」を学ぼう②

前回の記事では「いじめの社会理論 内藤朝雄(著)柏書房」を参考に、「いじめとは何か?」「なぜ人はいじめを行うのか?」について、欠如や3つのシナリオを用いて説明した。

いじめの基礎理論については概ね前回の内容だけでも十分だが、せっかくだから、学校で蔓延するいじめ問題まで話を展開していこうと思う。

集団のいじめに興味がない人にとっては退屈だと感じるかもしれないので、こちらまで飛ばしてもらっても構わない。

・群れによるいじめと空間の占用

欠如から生じるイラつきや落ち着きのなさを埋め合わせるための全能感と利害計算が一致することで引き起こされる行動がいじめの本質なのだが、学校のいじめによく見られるような集団で行われるいじめを説明するためには、それだけでは不十分である。

一度、いじめのグループが形成されると、一人ひとりの意思を超えた群れの勢いによって動かされ、一人では出来ないようなことも平然とやれるようになる。

そして、集団でいじめを行うこと自体に特別な喜びを感じるようになる。

このような、欠如を埋め合わせるための全能感を一人ではなく集団で行うことで得られる全能感を「祝祭」と呼ぶ。

この祝祭による盛り上がりとは、仲間内で芸能人やスポーツの話をして盛り上がるといったものと似ているが、ある種の血祭りのようなもので、仲間を盛り上げるために誰かに苦しんでもらうことが必要になり、その苦しみを「ノリ」として仲間内で共有し合う。

この「祝祭」によるいじめは心理と社会が相互に重なり合って拡大する。

仲間を盛り上げるために「遊び」と称したいじめを行い、集団の力を感じることでより過激ないじめを行うといったように。

ちなみに、群れの勢いに逆らうことがとてつもなく恐ろしく感じてしまい、集団のいじめに付和雷同することはグループ内の保身も兼ねることとなる。

学校のいじめに限らず、不良少年(少女)たちが群れることで、一人ではできないことを平然と行うようになり、次第に歯止めが利かなく原因はこのような理由によるものである。

このようなグループが勢力を強め、集団を支配すると、場の秩序が外の集団とは変わってしまい、何が正しいのか、何が悪いのか、といった現実感覚もごっそりと変わってしまう。

「祝祭」の全能感を中心に形成されたグループでは「いかに派手ないじめを行えるか?」、「どれだけ集団に献身的になれるか?」で立場が決まる。

もちろん、彼らはいじめを媒介したノリでのみ繋がっているため、個人と個人の間には信頼関係などなく、その場にいないメンバーの陰口や、親しくしていた相手でも情勢が変わればあっさりと裏切るといった「本当に友達なのか?」という行動が日常茶飯事である。

さらに、「祝祭」に加え、自分たちを中心とした「ノリ」と「勢い」で空間を覆いつくし、占領する形の全能感を「属領」と呼ぶ。

公的な空間であるはずの学校の教室(大の大人が会社でこれを行うことも珍しくないが)が特定の仲良しグループによって派閥支配が行われることがある。

そこでは、自分たちが強い立場であることを実感するための玩具や奴隷(前回の3つのシナリオの役を思い出してほしい)が必要であり、グループに所属しない人が日常的にその役回りを負わせられることになる。

不良グループにありがちな教員に逆らうとか、校則違反となる物を持ってくることは「誰もが享受できる普遍的な自由」ではなく、「強さや軍団のメンバーシップによる身分特権」として位置づけられる。

そのため、普通の人が同じことをすると

「あいつは調子に乗っている!!」

「弱いくせに生意気だ!!」

という被害者意識でいっぱいになり、彼らは(生活指導の教員以上に)それを絶対に許さない。

そのような世界では身分の線引きを一歩でも間違えないように常に周囲の顔色を伺って生活しなくてはならない。

・学校という環境でいじめが蔓延する理由と解決法

いじめそのものだけでなく、いじめにより形成された群れや、派閥支配といったところまで話が広がったが、津々浦々の学校でこのようないじめが蔓延するのは、学校という環境に理由がある。

前回も少し触れたように、学校という環境はクラスに集められた人たちは実質赤の他人であっても、あたかも深い絆で結ばれた仲間であるかのように振る舞うことが要求される。

それは理念だけに留まらず、外の世界から隔離され、しつこい行事への動員や給食、班活動のような集団生活が制度として設計され、全人的に関わり合いにならずにいられないようになっている。

そこでは、個人と個人の距離を取ることができず、自分の立場は人間関係に左右されることになり、常に周囲の顔色を伺わなければならなくなる。

このように物理的にも精神的にも逃げ場がない世界では、いじめの原因となる欠如を生む要因が揃っているだけでなく、個人で行うにせよ、グループで行うにせよ、誰かが誰かの運命を左右されるチャンスが溢れ、いじめの手段である暴力や人間関係を駆使して相手を圧倒するような大きな権力となる。

さらに、外の社会では禁止されている暴力や恐喝といった犯罪は黙認され、やりたい放題やっても法律で処罰されない。

そのような環境で、いじめを行うことは欠如を回復し、「荒れ」を抱えている仲間から承認され、権力を得るための合理的な手段であり、得をすることはあっても、損をすることはない。

著者はいじめが蔓延の防ぐためには、個人の心よりも、環境を変えることに重きを置き、その方法として次の2つを提案している。

①:暴力系のいじめに対しては学校内治外法権(聖域としての無法特権)を廃し、通常の市民社会と同じ基準で、法にゆだねる

他の場所でも同じだろうが、少なくとも学校の場合は自分が大きな損をしてまで、特定の誰かをいじめ続けるといったことはほとんどない。

いじめは基本的に「やっても大丈夫」、むしろ「やったほうが得だ」という利害構造に支えられて蔓延・エスカレートしている。

暴力に限らず、金品をたかられたり、危険なことを命令されたりするいじめは犯罪として扱い、加害者を退学あるいは懲戒免職にすることによって、かなり緩和させることができる。

そのため、いじめそのものや、「なめるなめられる」というように相手を圧倒する勢いで統治するタイプの秩序を蔓延させないための政策として、暴力や脅迫、窃盗に関しては警察が介入し、加害者が生徒だろうと、教員だろうと一律に法で捌く。

②:コミュニケーション操作系のいじめに対しては学級制度を廃止する

一方で、無視や陰口、仲間外しといったコミュニケーション操作系(人間関係)のいじめに対しては、法や警察は無力である。

だが、こちらも驚くほど簡単に解決できる方法がある。

それは学級制度を廃止することである。

特定の相手を無視したり、人間関係の政治を駆使して苦しめるといったことは、日常的に仲良くしなければ(卑屈な態度で顔色を窺わなければ)最低限の生活が成り立たないことで、いじめとして成立する。

だからこそ、付き合う相手を自由に選べる場所では、単に相手から逃げられるだけで、相手を苦しめる行為として成立しなくなる。

物理的なことを考えてみたらよく分かるが、教室内の机や、靴箱の中にある靴(または上履き)を標的にした嫌がらせが問題だというのであれば、「教室内の見回りを強化する」「靴箱をロッカーの型に変更し、そこに南京錠を取り付ける」などというイタチごっこをしないで、固定席を廃止したり、靴箱ごと取り払って校内を土足で移動できるようにするだけで解決するのである。

・加害者にならないための4つの言葉

これは本の中でも説明されているが、「制度を変えることで社会問題としてのいじめを解決するために何をすべきか?」と「今目の前で苦しんでいる人を救うために何をすべきか?」は必ずしも一致しない。

この2つを混同するとしばし悲惨な結末を迎えることがある。

というわけで、このブログでも、個別のケースを無視して、実際に会ってもいない読者の方に「こうすればあなたへのいじめも解決する」という(無責任な)アドバイスをすることはできない。

たとえ「冷たい」と思われても、それは誠実さを欠くことだからである。

だが、一方で、制度のようなものは個人の努力で簡単に変えることができず、変えられるにしても時間がかかりすぎる。

それでは、私たちはいじめの理論を学んだとして、どのように活かせばいいのだろうか?

それは加害者にならないための心構えを身に付けることであると私は思う。

たとえば、今日から次の4つを頭の片隅に入れておいてみよう。

:暗闇に襲われたら一旦引いて冷静になる

いじめの原理とは欠如から生じるムカつきを埋め合わせるために、他人を思い通りにコントロールすることで得られる(偽りの)全能感を体験しようとすることである。

いじめに限らず、日常生活の中では些細なことでイライラして、つい誰かに当たってしまうことがある。

だが、そのイライラの原因は本当に目の前の人が思い通りに動いてくれないことで生じているのだろうか?

他に解決できる方法は本当にないのか?

誰かを思い通りにコントロールすることで自分の荒れを鎮めようとすると、逆に普段では何とも思わない些細な振る舞いも、自分を否定されたかのように感じてしまう。

そんなことをすればするほど底なし沼に足を取られることになるのである。

そんなことになるくらいなら、少しでも異変を感じた時点ですぐに身を引いて冷静になる方がはるかに賢明である。

嫌なことがあると闇に飲み込まれて目の前が真っ暗になるが、「本当の世界は広い」のである。

:他人は所詮「他人」である

以前、新入社員に仕事を教えていた時の様子を書いたが、その中で、自分に言い聞かせる言葉として、「所詮他人」という言葉を紹介した。

他人が自分の要求を勘違いしたり、忠実に実行してくれないと、時間のロスが生じてしまうが、それ以上に「相手が思った通りに動いてくれない」ことに対して猛烈なイラ立ちを感じてしまうことがある。

だが、自他の境界線を突き壊して強引にコントロールすることがいじめの本質である。

相手の些細な言動まで踏み込んでネチネチと執拗に糾弾することもそれと近しいのではないか?

自分とは別の意志を持つ人間だからこそ他者なのである。

:そのイライラをぶつけることは本当に得なのかを冷静に考えてみる

ほとんどのいじめは損得勘定に基づいて行われる。

だが、それはあくまでも反撃しない相手や監視が行き届かない場所のような目先だけの利害計算で「やっても大丈夫」と確信しているに過ぎない。

目の前の保身は確保できていても、長い目で見たら、そのイライラをぶつけることが本当に得をすることなのか?

「強い態度で接さないと自分もなめられてしまう!!」というような権力闘争を考えているかもしれないが、逆に有望な人材が会社を去るかもしれない。

直接の被害は与えていないが、その様子を見ていた同僚や同級生が「今度は自分の番かも…」と怖れて上役に告げ口するかもしれない。

このように長期的な目で見れば、いじめはおろか、大声で罵倒(本人は「叱責」だと思っている)したり、イライラをぶつけたりしても得になることは何もない。

:加害者を敵として憎み続ける

よく被害者に向けて

「その悔しさをバネにして仕事や勉強を頑張ることで加害者を見返せばいい」

「『いじめられたことで強くなれた』と思えばいい」

「厳しい指導のおかげで今のあなたがある」

というメッセージを送る(頭の悪い)人間がいるが、それは完璧に間違いである。

今回は省略したが、奴隷の鎖自慢で、理不尽な目にあってひたすら痛めつけられつつも、耐えること自体を戦うと認識することで強さを実感する「タフの全能」を紹介した。

「痛めつけられていること」自体を「戦っていること」のように思い込むことで、「今の自分は戦っているのであって、いじめられているのではない」と自分に言い聞かせて現実のみじめさを否認するが、頭の中には凍結していたはずの「自分をいじめる強者ーいじめられる弱者としての自分」という実像はうっすらと残っている。

そして、かつての屈辱的な体験を癒すために、かつての自分と同じ立場の人に対しては、自分が受けた仕打ちを辿るように同じ苦しみを与えようとする。

そうしなければ、「かつての自分は戦っていたわけではなく、単にいじめられていただけ」だということがバレるからである。

これがいじめの被害者が加害者へと転じるメカニズムである。

そのような「強い相手には卑屈になり、弱い相手を痛めつけなければ気が済まず、その上、自分が加害者であることを誇るゲス野郎」にならないためにどうすればいいのか?

それは加害者を敵として憎み続けることである。

この記事で紹介したタイ人と日本人の職場いじめを受けた時の違いのように、加害者が被害者から報復されることは自業自得かもしれないが、「昔の自分の方がもっとひどい目にあったから」という身勝手な理由で、謂れのない被害者を生むことは言語道断である。

そのようなド変態にならないためには、自分を苦しめる加害者を明確に敵として憎み続けよう。

そうすれば新たな被害者が生まれることはない。

というわけで、私も、かつて職場でひどい仕打ちを受けた派閥のボスやマネージャーX氏をこれからもブログで非難し続けるつもりである。

・いじめ、カッコ悪い

いじめの議論がされる際には「いじめは人間の本能である」という論が出てくることがある。

強い者が弱い者を捕食することの方が生物として正しい姿であり、弱者が淘汰されず、平等に生きる権利を与えられるという理屈は「人権」という甘っちょろい概念が生まれた近代社会になって作られたものに過ぎず、それは人間本来のあり方ではないと。

この理屈は痴漢や強姦のような性犯罪の関してもよく言われる。

この「いじめ=人間の本能説」は正しいのだろうか?

確かに、今回紹介した理論に基づけば、私もあなたも環境による欠如を感じたり、同じ荒れを抱えた(悪い)仲間という誘惑があれば容易に加害者となる可能性はあるわけだし、そういった意味では「いじめ=人間の本能説」は正しいのかもしれない。

だが、いじめが本能だとしても、人間は理性で本能に抗うことができる生き物である。

たとえ、弱さを抱えていても、自分の弱さと戦うことはできる。

不完全な自分を受け入れて、正しく前に進むことはできる。

派閥のボス、マネージャーX氏。

ちゃんと、聞いているか?

繰り返しになるが、いじめにおいて、最も重要なのは損得勘定である。

「ムカつく!! ムカつく!!」と言って、自分ではどうしようもない苦しみを抱えているかのような言い方をしたり、もっともらしい理屈を並べることで悪行を正当化しているが、その怒りをぶつける対象や、やっても大丈夫な場所、周囲の目はしっかりと確認している。

このように考えると、いじめだけでなく、パワハラや身近な人への八つ当たりのように「やっても大丈夫」と選んだ相手に「自分はこんなに苦しいのだから、その苦しみを分かってよ!!」と怒りをぶつける様子は、まるで、小さい子どもが「お父さんやお母さんはボクちゃんのすべてのわがままを受け止めてくれる」と思って散々駄々をこねている様子と似ている。

それって…

めっちゃダサくない??

随分と昔のことだが、サッカー日本代表の前園真聖氏が出演したCMで「いじめ、カッコ悪い」というフレーズがあったが、その言葉はあまりにも的確である。

派閥のボス、マネージャーX、以下同文。

・あとがき

今回は前編・後編に分けて「いじめとは何か?」、「どうすれば加害者にならないのか?」について考えてきたが、(学校であれ、会社であれ)いじめに苦しんでいる人が読んだところで、救われたり、前向きな気持ちになれる内容ではなかったため、「期待外れ」だと感じた人もいたかもしれない。

そんな想いであったとしても、最後まで付き合ってくれた読者の方には感謝している。

また、参考に用いた本は若干(というか、私にとっては「かなり」)難しく、分量も300ページを超える内容だったため、私の解釈もかなり含まれ、書評や解説と呼ぶに値しないほど大雑把なものになってしまった感は否めない。

前回の記事で紹介した基礎理論や奴隷の鎖自慢で登場した「みじめな過去を癒すためのいじめ」に関しては著者のブログで原文を読むことができるので、詳しく知りたい方は下記のリンクからそちらの方も参考にして頂きたい。

最後にこの本に対する個人的な話をさせてもらいたい。

私が初めてこの本を読んだのは高校生の時であり、もう10年以上昔のことである。

私は子ども時代にトラウマとなるほどの被害経験があるわけではなく、改まっていじめについて学ぼうと思うこともなかったが、たまたま宮台真司氏や藤井誠二氏との対談本で内藤氏のいじめ理論を知った。

その本で目にした「無視や仲間外しといったコミュニケーション操作系のいじめに対しては学級制度を廃止すべき」という意見が、集団生活の中で生き苦しさを感じていた私にとってあまりにも斬新だったため、むさぼるように氏の本を読み漁り、たとえ難解であっても、いじめの社会理論を何度も読み返した。

この本の教えが土台として存在したからこそ、たとえ、いじめに苦しんでいる人を救うヒーローにはなれなくても、すぐにカッとなったり、他人の些細な言動がいつも気になっていた私が、自分の感情な問題に対処できるようになれた。

(まあ、それが完全に実践できるようになったのは30近くになってからだが…)

たとえば、教育の訓練など受けていない私が、新入社員の教育という分不相応の仕事を何とか無事にやり遂げることができたのは、いじめ理論の核となる「全能感の筋書」を頭に入れていたおかげで、「自分の仕事が忙しいから」という理由で彼に八つ当たりをすることを抑止でき、彼が私の説明をすぐに理解してくれなかった時も、「彼と私は別人なのだから…」と余裕を持って構えることができた。

私が、具体的に、どこの、どなたのことは言わないが、職場で派閥を組んで、非構成員をスコープゲートに利用したり、感情的になって醜態を晒す浅ましい人間にならずに済んでいるのは内藤氏のいじめ理論のおかげだと思っている。

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