心の闇に負けないために、あえて「いじめの理論」を学ぼう①

私はテレビを所有しておらず、新聞も読まず、職場に世間話をする相手もいないため、常に世間の話題に疎く、多くの人の間では有名になっていることも数ヶ月遅れで耳にすることがよくある。

あの事件に関しても、先月、知人の家に1週間ほど泊まった時に連日ニュースで報道される様子を目にするまで全く知らなかった。

それは北海道で起きた中学生のいじめ自殺である。

1986年に起きた「葬式ごっこ」で有名な東京都の中学校の事件以降、概ね10年周期で、中学生がいじめが原因だと思われる自殺をした時はこのような大々的な報道が展開され、専門家だけでなく、多くの人がいじめ問題に対して発言を行うことになる。

そこでは、いじめそのものだけでなく、学校や教育委員の悪質な対応や汚い隠蔽も同様に非難される。

また、2006年に福岡県で起きた事件以降は、それに加えてインターネット上で加害者や担任教師の個人情報が公開されるというのがお決まりのパターンとなっている。

少年法や公務員としての立場に守られている加害者に対して、ネットの力で制裁を与えるように見えるが、中には誤情報やデマも多く、被害者の味方だった人も加害者として私的制裁の嫌がらせを受けることも珍しくない。

このようなことが何十年と繰り返されているのだが、なぜ人はいじめをやめられないのか?

そもそもいじめとは何か?

これだけ問題になっても減らない理由は何なのか?

今回はいじめを通して、誰もが持つ心の闇とその対処法について話をしたい。

・人は何のためにいじめを行うのか?

「いじめを撲滅しよう」というのは限りなく不可能な目標であるにせよ、先ずは「いじめ」について知ることから始めてみよう。

いじめの被害は甚大だが、「いじめ」という言葉で表現される蛮行でなくても、人間関係で悩んでいる人は、所属する集団は全く違うはずのに、同じような生き苦しさを抱え、憂鬱な気分になっていることが多い。

ひょっとして、今このブログを読んでいる人もこんなことを思っているのかもしれない。

「派閥政治で仲間外れにされるのが怖いから、本当は付き合いたくない相手と仲良くしている」

「ちょっとした人間関係の変化に恐ろしいほどの神経がすり減らされる」

「都合の悪いことは何をやっても自分のせいにされる…」

「今日も学校に行きたくない…」

だが、前提として確認しておきたいことは「いじめは子どもの社会だけで起こるものではない」ということ。

親が行う子どもへの虐待や、会社で上司が職権を利用して部下にパワハラを行うことも、「虐待」「パワハラ」という言葉で定義されているが、行っていることはれっきとした「いじめ」である。

というわけで、今回は「子どもの社会性の欠如」や「親のしつけの低下」、「他人を思いやる気持ちの衰退」といった幼稚ないじめ論を一切排した、いじめ研究の専門家の本を参考書として用いることにしよう。

その本がこちら。

心当たりがある人もいるかもしれないが、この本は2年前に一度紹介したことがある。

だが、その時は「奴隷の鎖自慢(不幸自慢)」の解明のために用いたことから、著者のファンにとっては「そんな絡ませ方ありなん?」と思った人もいたかもしれない。

今回は本来の目的である「いじめ」そのものに対して使用することになる。

Wikipediaの「いじめ」の頁(20217月時点)では同書の内容を引用する形で内藤氏のいじめ理論がこのような言葉で説明されている。

「人間関係が濃厚すぎる集団内において生じる欠如を埋めようとする偽りの全能感」

少し難しい言葉だが、私の解釈も含めて、単純化した言い方をしてみよう。

私たちが生活している中では嫌なことがたくさんあるが、それらの多くは自分の努力で解決できたり、他に楽しいこともあるため、そこまで大きなストレスにはならない。

だが、自分の力でどうすることもできず、他に楽しいこともない状況に陥ってしまうと、そのムカつきやイラ立ちは耐え難いものとなってしまい、私たちの心はそのムカつきから逃れるための代償行動を引き起こそうとする。

その一時の「ニセ満足」のような代償行動が、「いじめ」なのである。

・人間の心はひとつではない

ここからは、先ほどの本を参考にそのモデルを詳しく見ていこう。

先ず、話の前提となることは、人の心はひとつではなく、様々な場面でいろいろな顔を使い分けているということ。

またそれらは隔壁で完全に仕切られているわけではなく、いくつかの世界を同時並行的に生きている。

このような体験モードは無数に存在するが、ここでは重要な2つのモードを見ることにしよう。

α-体験構造

シェーラーによると、「高貴な人には、おのれの自己価値と存在充足についてのまったく素朴で無反省な意識、しかも彼の現実生活の意識的な各瞬間をたえず充実している闇黒の意識」あるいは「素朴な自己価値感情」がある。

宇宙にはこの「積極的価値のほうが多く含まれている……と説明されているが、ここでは「α-体験構造」とは世界が開かれたような「無条件的な自己肯定感覚」くらいに認識で大丈夫である。

β-体験構造

α-体験構造の欠如によって「無条件的な自己肯定感覚」が失われているが、その原因がはっきりせずに、漠然と「どこかが大変だから、とにかく修復が必要だ!!」との情報だけで、欠如を埋め合わせるための体験を求めようとするモード。

β-体験構造において、無条件な自己肯定感が奪われ、とにかく欠如を感じてしまう要因は主に以下の4つがある。

(a):他者からの迫害、特に無力な状態で痛めつけられ続けること。

(b):拘束、すなわち自由や自発性の剥奪。

(c):不釣り合いな心理的密着あるいは心理的距離の矯正的密着。

(d):認知情動図式のすりかえてき誤用(後で詳しく説明)。

こうしてみると、学校という空間はこのすべてを満たす傾向がある。

工場は(b)、宗教には(c)(d)しかない。

刑務所には(c)(d)がなく(a)の混入した(b)がある。

軍隊でも(c)(d)が学校ほどではない。

学校では、実質的には薄情な関係を家族のように情緒的に生きることが強制される。

・加害者の方が被害者意識を感じる理由

ここから先はこのβ-体験構造を中心に話を進めていこう。

β-体験構造の欠如は、本来はα-体験構造の欠如であり、運よく「無条件的な自己肯定感覚」が取り戻されれば解消されるのだが、そうでない場合は、似たような感覚のコピーを強引な形で体験することで回復しようとする。

その似て非なる(偽りの)感覚を「全能感」と呼ぶ。

これを体験することで、内なる壊れかけた世界を修復して、一時的な癒しを体験できるのだが、欠如を生む根本の原因は何も解決されていないため、いくらこの感覚を体験しても、当初の欠如によるイラ立ちやムカつきは何も解消されない。

さて、この全能感を得るためには「完全にコントロールする自己」と「完全にコントロールされる他者」という筋書を実行する必要がある。

さらに、この筋書を3つのサブユニットに展開するとこのようになる。

:「主人と奴卑」

:「遊ぶ神とその玩具」

:「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」

は既存の秩序の上で利便性に準拠して命令する主人と、命令に忠実に従う奴卑のセットである。

の場合、神は、新たな接続線を引いて世界の脈絡の別次元を強引に結びつけ、思いのままに世界の現実そのものを一気に破壊しつつ再創造し、その思いもよらぬ形態変化の愉快なかたちに笑い転げる。

は、ストレートな暴力のパワーそのものを楽しむ筋書である。

これらの筋書はどれも実際に苦しむ相手の反応が不可欠であり、自分一人で筋書を実行したとしても、それは演劇の台本を音読しているようなもので、何とも言えない虚しさしか感じない。

単純な図式で例えると、幼い子どもが戦隊ヒーローの「〇〇パンチ!!」「××キック!!」という必殺技の真似をして遊んでいるが、一人で素振りをやっているだけでは何だか物足りない。

そこで、その遊びをよりリアルなものにするためには、実際に攻撃を受けて倒れてくれる悪役が必要になる。

いじめの被害者は不幸にもその劇の共演者として無理やりキャスティングされてしまったのである。

そのため、相手が自分の思った通りに振る舞いをしてくれないと、全能感による回復を経験できず、加害者の中には「何で期待通りにやられてくれないんだ!!」という怒りが生まれ、それは当然のように被害者の方へ向けられる。

このような理由から、多くのいじめの場合、攻撃しているはずの加害者の方が被害者意識を感じている。

この筋書を通じて、主従関係が日常的なものになると、加害者はその場の気分次第で、被害者を好き放題コントロールし、被害者は加害者の顔色を窺って、彼らが求められる「人間としての尊厳を奪われた下位者・プチ人間以下の奴隷」のような振る舞いをしなければならなくなる。

そして、被害者がその線引きを一歩でも間違うと、加害者の方が重大な欠如を感じてしまい無性にイライラしてしまう。(先ほど(d)の一例)

子どもの世界に限らず、多くのいじめに見られる

・何の目的もなく被害者を苦しめ笑い転げる。

・嫌っているはずの被害者にしつこく付きまとう。

・些細なことをしつこく口出しして、コントロールしようとする。

・破壊的な衝動をぶつけ、死んでもおかしくないようなことを平気で行う。

・誰かをバカにすることが楽しくてしょうがない。

・人のことを手足のように扱う。

・イライラしつつも、どこか楽しさを感じている。

・強い相手の理不尽な振る舞いには怒りを感じない一方で、立場が弱いと判断した相手の些細なミスは執拗に糾弾する。

といった第三者から理解しがたい振る舞いは、この全能感を求めるための行動だと考えればすべて説明ができる。

・ほとんどのいじめは損得を計算した上で行われている

ここまでは欠如や全能感の希求といった心理的な面のみ取り上げてきたが、実はいじめにおいて最も重要視されることは損得勘定に基づいた利害計算である。

多くのケースでは、いじめは、やりたい放題やっても処罰されないため、損をしないどころか、「得になる」という状況がきっかけになっている。

パワハラやDVでも同じだろうが、「このままでは身が破滅する」と分かっていても自分を抑えることができないなどというケースはほとんど存在しない。

怒りに身を任せ、感情をぶつける場合であっても、周囲から非難されたら言い訳やアリバイ作りをして、自らの振る舞いを正当化したりする。

そして、「損をする」と事前に察知すると、「他人をコントロールすることで留飲を下げる」などということは思いもしなくなる。

これは単純な「見て見ぬフリ」をしている情態とは違う。

フリの場合は「本当はやりたいのだけれども、損をすることが嫌だからできない」と思い本当の感情を確保しつつ、行動するのだが、欠如によるイラ立ちや全能感の誘惑は「やっても大丈夫」と確信することで、初めてその存在が認識される。

たとえば、格好のターゲットだと思った相手が実は武道の達人であり、手痛い反撃を受ける可能性を予期した場合はすぐに手を引いて、すぐに他のターゲットを物色しようとする。

その過程では「『この人をいじめたら自分が損をするから』ではなく『この人は憎めないから』『自分は良い人だから』いじめなんてやらない!!」と思い込みながら、手を引くのである。

「小権力者は社会が変わると別人のように卑屈な人間に生まれ変わった」

これは精神科医の中井久夫氏が少年時代に大日本少年団で経験したいじめの加害者に対する考察であり、この類の言葉は状況に応じてコロコロと態度を変える人間の情けなさを表すものとして扱われてきた。

だが、著者はこれを希望の論理だと考えている。

制度や環境を適切にコントロールして、一人ひとりが持つどす黒い本性の出現を抑えることができれば、普通の人々が狼になることを防ぐことができる。

このような欠如による救済と利害計算が一致することで、他人をコントロールしようとする行為がいじめの基礎理論となる。

次回は学校のいじめに多く見られる「群れによるいじめ」とその解決法、それから、いじめ理論を学んだ上で日常生活どのように活かせばいいのかについて話したいと思う。

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