「ご近所ファシズム」は時に独裁国家よりも私たちの生活を苦しめる

先週から東京オリンピックが開幕した。

コロナウィルスの感染拡大が懸念されているため、ギリギリまで開催反対の声が聞かれていた。

オリンピックに対して、私の意見を述べさせてもらうと、コロナとか関係なしに、オリンピックそのものが大嫌いである。

スポーツの大会そのものは別に嫌いではない。

ただ、あたかも「日本国民全員が選手を応援すべきだ!!」というナショナリズムで国民を煽り、興味がないことを表明すれば

「日本人が世界で戦っている姿を見て何も感じないの!?」

と非国民呼ばわりする様子は恐るべき全体主義としか言いようがない。

不足するボランティアや観客動員が期待できない競技の応援のために学生を徴用する浅ましさ(通称:「学徒動員」)に至っては、「この国は今、戦争をやっているのか?」とさえ思う。

平和の祭典であるはずのオリンピックがこのように国民を虐げる形で開催されているのは誠に嘆かわしい。

そんな理由から、私はコロナの感染リスクや自国開催による税金の無駄遣い(通称:「たかりンピック予算」)が問題となっている今大会に限らず、オリンピックそのものに嫌悪感を持っているのである。

2012年のロンドン大会の時に、ある人物がオリンピック一辺倒の報道の醜悪さを表すためにTwitterで「汚リンピック」という文字を用いて多いに共感した。

ちなみに、その人物とは最近ブログでいじめ関係の記事を書いた際に紹介している内藤朝雄氏である。

というわけで、今日はオリンピックを機に「全体主義」による熱狂と脅威の話をしようと思う。

・全体主義って何だろう?

前段で名前を挙げた内藤朝雄氏の著書であり、当ブログでも紹介した「いじめの社会理論」のイントロダクション(前書き)は「中間集団全体主義」という項目で始まる。

「全体主義」と聞いて、私たちが思い浮かべるものは概ねこんなものである。

・独裁政権

・秘密警察

・国家反逆罪

・共産党

・金王朝

・軍国主義

全体主義の社会では、何よりも「全体」に貢献することが優先され、個人は集団から認められる限りにおいて価値がある。

そして、集団に逆らった者は虫けらのように殺される。

だが、これらは「全体」を「国家」とイコールだと考えた場合の話である。

私たち個人が、強大な国家権力と対峙したり、生活に介入されることは平時ではめったに(実は戦時中でもそこまでも)ない。

個人と国家の間には、学校、職場、地域など様々な中間集団が存在する。

私たちの社会では、国家レベルにおいては、三権分立が確立され、複数政党による民主的な選挙が行われ、言論の自由が十分に保障されている。

しかし、中間集団は個人が全人格を集団に埋没させようとする傾向が強い。

たとえば、個人に対して、会社は給料に見合った働き方をするよりも、学校は学問を身に付けることよりも、組織の一員として振る舞うことを求める。

その結果、組織は国家権力よりもはるかに強大な力を持ち、自分たちに都合が良いような「しつけ」や「教育」を好き放題することができる。

ちなみに、今回の記事のタイトルでは「ご近所ファシズム」という言葉を用いたが、これは田舎社会にありがちな「閉鎖的なムラ社会」だけでなく、学校や職場などの身近な集団のことの総称である。

逆に言えば、独裁国家であっても、それが「=全体主義」ということにはならない。

最近は徐々に変わりつつあるが、中南米には反米の共産主義国がいくつか存在しており、これらの国では独裁的な政治体制となっているが、国民一人ひとりが独裁者を称える歌を謳わされたり、マスゲームのような国家的な行事に参加させられることはなく、お上に逆らいさえしなければ比較的自由に生活できる。

そのような独裁国家と、法律で個人の権利を保障されているはずの日本の社畜を比べた場合、後者の方がはるかに抑圧的な生活を送らざるを得なくなる。

中間集団全体主義が個人を抑制する特徴は、国家による強制が全くないことはないが、多くがメンバーの自発的な団結によって行われることである。

単に団結して盛り上がるだけあれば結構だが、そのような不自然に距離を密着させられた環境では、それまで表面化することがなかった恨みや僻みが、みんなのつながりや共通善から離れ、プライベートな幸福追求を希望する者への制裁という形で解き放たれる。

同書では、高齢の女性が戦争中に経験したできごととして、このような証言が取り上げられている。

隣組制度が作られ、地域の人たちとの関わり合いが密になると、これまでニコニコと愛想が良かった近所のおじさんが急に威張りだした。

投稿者の家庭が英字新聞を取ったり、娘をミッション系の学校に通っていたことを普段から密かに嫉んでいたのかもしれない。

防空演習が始まると、母親が理由もなく怒鳴られたり、子どもを産んだばかりにもかかわらず、水を入れたバケツを持って何度も走らされ、体調を崩してそのまま亡くなった。

・「独裁は怖い」と言うけれど…

日本社会が非常に情けない点は、国家レベルの「全体主義」が個人を抑圧・迫害することに対しては非常に敏感で、嫌悪感を示している人であっても、中間集団の全体主義に関しては全く無警戒であることが珍しくないことである。

戦争中の軍国主義や天皇を核とした政治体制に反対しているにもかかわらず、その舌の根も乾かぬうちに、社畜のQCサークルや、オウム真理教やヤマギシ会を思わせるような薄気味悪い小学校の組体操、または人間ピラミッドを絶賛していたりする。

2008年に「The wave」という映画が公開された。

これはドイツで作られたもので、1967年にアメリカの高校の授業で起きた出来事がモデルとなっている。

高校教師のベンガーが、学生に「独裁」をテーマとした授業を行うのだが、彼らの多くは「独裁なんてものはナチスが亡びた現代では起こるはずがない」と信じて、全く授業に関心を持たない。

そこで彼は「Wave」という名前を付けた体験式の授業を取り入れることにした。

たとえば、授業中は彼のことを「ベンガー様」と呼ばせ、団結力を強めるために、全員で行進をしたり、同じ白のYシャツを着ることを要求する。

最初は「アホらしい」と思っていた学生の多くが、徐々に集団の一体感と魅了され、自ら多くの規則を作り、Waveに反発している同級生を迫害し始める。

2013年に世界一受けたい授業という番組で、このシーンが紹介されたことがある。

その時、スタジオでは

「えー!!」

「独裁ってこんなに簡単に起こるものなの!?」

という驚きのリアクションが起きたのだが、それを聞いた私は思わずツッコミを入れたくなった。

いや、待たんかい!!

この国ではそんなこと、小学生の子どもに対して、当たり前のようにやらされているでしょうが!!

ナチスの亡霊に怯える一方で、自分たちは子どもに同じことをやらせていることになぜ気付かないのだろうか。

・学校の「せんせい」より、名前も知らないお役人の方が紳士的

このように日本では、現政権に全く問題がないとは言わないものの、国家権力よりも、個人に近いとされる中間集団によって生活を抑圧されることが多い。

しかも、そのことが問題視されず、「自治」という言葉を無条件に素晴らしいものだと考える傾向がある。

私が小学生の時に、とても印象深い経験をしたことがある。

当時の担任教師(仮名:「バカ殿」)は「クラスの団結!!」と称して、徹底的な個の抑制と規律による統制を実施して、やたらと学校行事へ参加したがり、嫌がる人には「お前が参加しないと、行事が開催できない。そうしたら、みんなの頑張りが台無しになるぞ!!」と同級生を人質に脅迫する絵に描いたような暴君だった。

その上、平時でも、我々児童の些細な振る舞いにまで言及して、気に食わなければ授業を中断して、一日中説教するような完全無欠のクズだった。

ある日、教育委員の役人がこのクラスの授業を視察することになった。

視察は午後の授業に行われることになったため、午前中は隠蔽工作として、徹底的な教室の掃除と、「きちんと挨拶をする」「余計なことは喋らない」というような口封じを発令するなど、いつにも増してして奴はイライラしていた。

だが、その役人がやって来ると、バカ殿は、児童のことを自分の体の一部であるかのように扱う日頃の神経質で横柄な態度はすっかり消え失せ、ニコニコ笑いを浮かべながら 授業中の児童の不手際に対しても(気持ち悪いくらい)優しくフォローしていた。

それ様子を見ていた私が「このお役人さんは毎日来てくれないかなぁ…」と思ったのは言うまでもない。

よく学校を舞台にしたドラマで、冷たい役人が保身のために、子どものことを想っている熱血教師を排除しようとするシーンがあるのだが、私はこの時の経験から、時と場合によっては名前も知らない人よりも、身近な人間の方がよっぽど脅威になることを学んだ。

今日はオリンピックを契機として全体主義の熱狂と個人の迫害を扱った。

文中でも述べたが、日本社会では、独裁や秘密警察のように、国家が個人の権利を侵害する全体主義には敏感だが、中間集団が個人を抑圧することに関しては驚くほど鈍感であることが多い。

もちろん、オリンピックのような国家的行事に国民が強制的に動員されたり、市民としての権利を制限されることは批判されるべきである。

しかし、会社や学校における個人の迫害や、しつこい行事への動員も同様に批判されなければならない。

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