東京で生まれ育った人は地方にどのようなイメージを持っているのだろうか?
そして、会社からいきなり地方への転勤を命じられたらどう思うのだろうか?
「地方は東京よりも不便だし、狭い世界の人間関係とか面倒そうだな…」
逆に地方で生まれ育ち、現在もその地域に住み続けている人は東京に対してどのようなイメージを持っているのだろうか?
「いろいろな可能性はありそうけど、何だか怖いイメージもある」
と言って、東京に出てくることを躊躇しているのかもしれない。
このような「東京か? 地方か?」という話をする時に必ず言われるのが、
ということである。
というわけで、現在は東京23区に住んでいる地方出身の私が、この「東京の暮らしは快適で、地方の生活は息苦しい」ということについて体験したことを書いてみようと思う。
・「地方=田舎」ではない
「東京では? 地方では?」という話をする前に一つだけ確認しておきたいことがある。
それは「東京=都会」、「地方=田舎」という図式は必ずしも正しいとは言えないということである。
たとえば、私の出身は東京から遠く離れた西日本であり、実家はその県の県庁所在地から電車やバスで2時間近くかかる場所にある。
そこで生活するためには車が必要不可欠である。
また、娯楽らしいものは特にない。
つまり、私は文字通り「田舎」の出身である。
そして、現在は東京23区内に住んでいる。
だから、私が実家に住んでいた時の暮らしと現在の暮らしを比較した場合は、「東京(=都会)と地方(=田舎)」の生活の比較という図式が成立する。
ただし、当たり前だが、東京以外の地方都市にも都会は存在する。
たとえば、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡のようにたくさんの商業施設や地下鉄、プロ野球の球団がある政令指定都市は地方ではあるが都会だといえる。(厳密にいえば、広島に地下鉄はないが…)
一方で、首都圏にも田舎は存在する。
JR中央線の立川以西や、(東京都ではないが)千葉以東の各路線に乗ると、車窓は一気にのどかになる。
これらの市や町から、先ほど挙げた地方都市へ引っ越す場合は、「首都圏から地方へ移る」ことになるのだが、それは「都会から田舎へ移る」ということにはならない。
だから、「地方=田舎」だと無条件に考えることは正しいとは言えない。
ここでもう一つ、たとえ話を出してみたい。
何年か前に、外国人留学生が卒業後に日本で就職する際のミスマッチに関する記事を読んだことがある。
その記事では「多くの留学生は東京の大企業で就職を希望するものの、求人の多くは地方の中小企業であるため、彼らは結局、日本での就職をあきらめて母国に帰る道を選ぶことが多い」と書いてあったのだが、私はこの記事を読んであることを思った。
「地方の中小企業」という言い方は、そもそも何を指しているのか?
中小企業庁では「中小企業」をこのように定義している。
この定義に従えば、以下の2つの企業も同じ「地方の中小企業」ということになる。
①:全従業員が250人ほど在籍して、勤務先が地方の政令指定都市にあり、法人向けの手堅い商売を展開している会社。
②:アルバイトも含めた全従業員は20名ほどで、車がないと生活できないような田舎に店を構えている小売業で、正社員であってもボーナス、退職金は一切出ない、実質個人経営の会社。
この2つの会社が同じではないことは誰の目にも明らかであろう。(ちなみに②は私が上京前にバイトをしていた会社である)
様々な会社を「地方の中小企業」という言い方で十把一絡げにすることがいかにナンセンスであるのかがお分かりいただけたと思う。
「地方=田舎」だと無条件に考えることはできないのは、この話と同じようなものである。
・地域にはびこる「世間」の目?
かなり、前置きが長くなったが「東京=都会」、「地方=田舎」とはならないことはお分かりいただけたと思う。
ここで、本題の一つである「田舎の生活は閉鎖的な人間関係に覆われているから息苦しいということが本当なのか?」について考えてみたい。
前回まで3度に渡って「『世間』と『空気』」という本を紹介してきた。
その中で、自分と利害関係のある相手、もしくは将来はそのようになるかもしれない相手のことを「世間」と呼んでいた。
今回もその「世間」という考え方を用いて、「息苦しいとは世間に抑圧されていること」の意味だと考えてもらいたい。
東京にはないが、田舎にはある抑圧的な世間としては「地域」の目が考えられる。
過去の自分を振り返ってみると、私は中学生の時に常に人の目を気にしていた。
ただし、私は「学校内で同級生にどう見られているか?」を気にしていたわけではない。
私は学校外の時間に町内で同級生に自分の姿を見られるのが嫌だったのである。
これは私の主観だが、小学生の時はオンとオフがはっきりと分かれていたと思う。
そして、同級生と町で出くわしても何とも思わなかった。
お互いにオフだから。
学校にいる時は学校の、休みの日には休みの日のモードが別れていた。
しかし、中学生になるとその区別が曖昧になった。
少なくとも私の住んでいた地域では、中学生になると部活や学習塾の仲間とつるんで、学校外でも一緒に行動することが珍しくなくなる。
だから、当然、休みの日に学校外で同級生と出くわすことがあるのだが、その時に違和感というか妙な居心地の悪さを感じた。
「学校という世間の人間関係」が町中に広がり、町全体が学校の中と同じような空間になり逃げ場がないような気がした。
特に、私が私服で、向こうは制服姿という時は一段とバツが悪い気がした。
まるで、幼稚園児くらいの年の子どもが、同じ歳の子どもの前で、自分の親におんぶされている見られたくないと思うようなものだろうか。
それとも、リクルートスーツの着用が暗黙の了解になっている大学生の就職説明会に私服で参加するようなものだろうか。
今になって振り返ると、恥かしいことこの上ないが、同級生の目を気にして、休日に友達の家に遊びに行くためにわざわざ学校の制服を着て行ったこともあった。
また、学校で(人に知られたら困ることをやっていたわけではないにせよ)「日曜日に友達の誰々と遊んでいたよね?」とか「家族とどこどこに行っていたよね?」という話をされるのが、とてつもなく嫌だった。
そんな感じだったので、家族と遊びに出かける時も学校の同級生を避けるように、最低でも電車で4,5駅離れた場所に行くことにした。そこまで行けば、知り合いに見られることもないだろうと思いホッとした。
このように中学生の時は学校の同級生に自分の私生活を見られること、知られることに常に怯えていた。
・人から見られることに怯えていたのは事実だが…
これが田舎という狭い世界で生じる息苦しさであり、読者の大半は「田舎=誰かの視線に怯えて生活する」とはこのようなものをイメージしていたことだろう。
このような息苦しさを感じることは都心部ではないのかもしれない。
ちなみに、私は上京前に、実家を離れて自分の出身地の都市部で生活していたことがあるが、その時は東京と同じく隣に住んでいる人の顔も知らなかった。
このように地方でも都市部では田舎ほど息苦しさはないのかもしれない。
そのため、地方の人が就職や大学進学のタイミングで東京に出てきて、「田舎に住んでいた時は息苦しかった。今は東京で自由を満喫している」と語る話は間違いではないと思う。
ただし、ここで一点注意が必要。
私がここまで息苦しさを感じていたのは、あくまでも中学生の時の話である。
しかも、私が恐れていたのは「学校」という世間の人間に私生活を見られることであって、別に近所の人の目を恐れていたわけではない。
私が中学生の時は人間関係が狭い空間に密集してので、息苦しく感じていたわけだが、高校生になると、同級生のいる場所はいろいろな地域に分散して、「地域=学校」の関係ではなくなったので、同級生の目を気にして近所も歩けないということもなくなった。
その結果、今まで避けていた地元のレンタルビデオ店やゲームセンターに行くことも出来た。
ちなみに、近所の人とは顔を合わせれば挨拶をするので、あの人はどこに住んでいるということは分かる。
だから、都市部のような匿名性はないのかもしれないが、町の行事に参加しなかったり、地域の消防団への入隊を拒否したら、家に落書きされたり、車のタイヤをパンクさせられるといった嫌がらせを受けることは一切なかった。
身内からは「世間」の目を気にして、
「成人男性なのだから早く正社員になれ!!」
「いつまでも実家にいないで、早く自立しろ!!」
と言われたこともあったので、これも「世間の目」を気にした同調圧力と言えなくもないが、これはたぶん東京でも同じだと思う。
その上、地域の人から面と向かって「あんた、いい歳なんだから早く結婚しなさい!!」と説教されたり、「早川さんのところのバカ息子はまた仕事を辞めたんだって」と陰口を叩かれたりしたこともない。(本人が気づいたら陰口ではないが…)
一点だけ補足しておく、私は田舎で中学時代を過ごした時に息苦しさを感じたわけだが、都会で同じ年代を過ごしたわけではないので、都会の中学生がこのような世間の目を全く気にせずに自由に生きることができるのかは正直言って分からない。
行動範囲が狭いのは都心部の中学生も同じだろうから、もしかしたら彼らもかつての私と同じ悩みを抱えているのかもしれない。