小学生の子どもの世話をするために仕事を休む親は過保護なのか?

あなたは一人で留守番ができるようになったのは何歳の時だっただろうか?

私は小学生になった時からだった。

その頃から、休日や放課後に学校の同級生の家へ遊びに行ったり、彼らを家に招いたりしていたので、私一人だけでなく、同じ地域に住む同級生もその年ごろから親の監督がなくても多少の時間は一人で過ごすことが出来るようなったのではないかと思う。

だから、他所のご家庭もこれが普通だと思っていた。

しかし、この社会には子どもが小学生の高学年になっても一人で留守番させることができない親もいる。

今年(2020年)の3月から6月にかけて、コロナウィルスの影響で全国の小学校が休業となったため、「子どもを見てくれる人が誰もいないから」と言って、その間まるまる仕事を休んでいた人があなたの職場にもいたのではないだろうか?

ちなみに、私はコロナによる影響で学校が休業になり、多くの子どもが学校に行けないというニュースを聞いた時は正直羨ましいと思った。

数ヶ月もの間、堂々と学校をサボることができて、親も仕事もいないとなれば、毎日ダラダラとテレビやビデオを見たり、ゲームで遊ぶことができるではないか。

絶対、毎日ウキウキして早起きをしているに違いない。

私が小学生だった時から、およそ20年が経過したが、未だに(年が近いはずの)親の立場ではなく、子どもの方に感情移入するガキのような考えの自分に進歩のなさを感じるが…

・過保護ではないのか?

話を戻そう。

小学校の低学年の子どもなら分からなくもないが、高学年にもなって「学校が休業で子どもの世話をしないといけないから…」と言って仕事を休む人を見ているとこんなことを思った人がいるのではないか?

「その年にもなって一人で留守番もさせないなんて過保護じゃないの?」

正直に告白するが、かつての私はまさにそのような考えだった。

これは私が20代前半の時の話である。

当時の勤務先の退勤時刻は17時だったが、小学生の子どもの世話をするために15時で退社して、土日祝日は必ず休みを取るパート女性がいた。(しかも7人のうち3人)

そのことは事前に知らされていたため、それ自体にケチをつけるつもりはなかったが、それでも、自分の過去を引き合いに出して「何で小学生にもなって、親が付きっきりで面倒を見なくてはいけないんだ?」と思っていたし、実際に本人のいない所で「子どもが小学生になったのなら、一人で留守番くらいできるんじゃないの?」と愚痴っていたこともある。

いや、別に彼女たちのせいで自分が休む暇もないほど働かされたわけではないけど…

また、小学生の子どもを持つ同僚女性が「子どもがインフルエンザの影響で学校へ行けなくなった」と言って一週間連続で仕事を休んだことがあった。

それを聞いた私は、てっきり彼女の子どもがインフルエンザにかかったのだと思い込んで、「それは大変だな」と心から同情した。

しかし、実際は彼女の子どもがインフルエンザにかかったのではなく、インフルエンザの影響で学級閉鎖となり、学校へ行けなくなったことで、その子の世話をするために仕事を休んだのだと知った時は呆れた。

ちなみに当時のお子さんは小学5年生だった。

その年にもなって、親が仕事を休んででも面倒を見る必要あるのだろうか?

・人間関係ネットワークの「分散型」と「集中型」

このブログを読んでくれている人も、かつての私と同じ考えの人が多くいるかもしれないが、2週間ほど前に書いた記事で、都会の人間関係に馴染めないと悩んでいる人に話したことを思い出してほしい。

田舎に住んでいる人の方が、都会に住んでいる人よりも結婚に積極的なのだが、これは不思議なことである。

というのも、「結婚したいし、相手もいるのだけれども踏み切れない!」と悩んでいる人が結婚できないと考えている理由は、どの調査結果を見ても経済的な理由がトップである。

にもかかわらず、経済的に恵まれていない田舎で生活している人の方が、結婚しやすいというのは矛盾している。

その矛盾を解消できる理由は、生まれ育った地元で生活している人は、周りに親族や昔からの友人など、経済的にも情緒的にも頼れる人が多くいて、一人の配偶者に求める水準が高くなく、結婚のハードルが低いからである。

もっと言えば、離婚する時もそんなに深刻に考えないのかもしれない。

そのような特定の相手に依存することなく、複数の人間関係のネットワークの中に埋め込まれて生活することを「分散型」と呼ぼう。

一方で、そのような人間関係のネットワークがない(期待できない)都会で暮らしている人は、一緒に住む家族以外に頼れる人がいなくなる。

そのため、配偶者には経済的、情緒的の両面を一人で満たしてくれる人を選ばなくてはならず、結婚相手への要求水準が必然的に高くなる。

とはいっても、そんな相手はそう簡単に見つからない。

その結果、経済面では田舎よりも恵まれているはずなのに、なかなか結婚できないという一見矛盾したことが起こる。

このような特定の相手(配偶者)に生活の基盤のすべてを依存する(される)人間関係を先ほどの「分散型」と対比させて「集中型」と呼ぼう。

これはどっちが「良い・悪い」という話ではなく、生活の様式が根本的に違うというだけである。

・私は「分散型」の家庭で育った

この人間関係のネットワークの分散型・集中型という考えを通して、先ほどの子どもが高学年になっても一人で留守番をさせられない親について考えてみよう。

彼ら(彼女ら)は「集中型」の生活基盤を営んでおり、子育ての際に配偶者以外に頼る人がいないであるため、親が仕事を休んででも子どもの面倒を見なければ、たちまち子どもが孤立してしまうのではないだろうか?

ちなみに、私は田舎で育った。

首都圏から離れた地方という意味だけではなく、本当に田舎である。

どれくらい田舎なのかというと、外出する時や夜に眠る時も玄関の鍵をかける習慣がないほどの田舎である。

というわけで、自然と「分散型」の家庭で育った。

確かに小学生の時から親がいない状況で留守番していたが、近所に顔見知りはたくさんいたし、友達の家に遊びに行けば、その家の家族が気にかけてくれた。

もちろん、これは親がいない間はずっと親以外の誰かの監視下にあったというわけではない。

親に行き先を告げず、子ども同士で外に出かけることもあった。(それも学校から出されたルールを無視して隣町へ出かけたことも多々あった)

それでも特に不安に思ったことはないし、親から「そんな危ないことは止めなさい!」と注意されたこともなかった。

つまり、重要なのは「困った時に助けを求めることができる相手が近くにいる」と思えることである。

それがあるから、親がいなくても安心して遊ぶことができたのである。

というわけで、私が小学校の低学年の時から一人で留守番をすることができたのは、別に子どもの頃の私がしっかりしていたわけでも、私の親が私の独立心を養うために厳しくしつけていたからでもない。

単にそのような環境で育ったというだけである。

・必要なのは相手への理解

以上が私の見解なのだが、誤解してほしくないのは、私は別に「集中型」の家庭を営んでいる人に対して「過保護だ」とか「知り合いに子どもを預けてでも仕事に出ろ!」と言っているのではない。

就職活動や入社式に親が付き添うことを「親への甘えだ! 依存だ!」と嘲笑う企業が、採用面接でやってきた女性に対しては「で、親御さんはあなたの子育てを手伝ってくれるの?」と、労働者の育児に対しては親による支えがあることを当然のように考えている姿は怒りや呆れを通り越して爆笑に値する。

そのような虫がいい人は論外であるにせよ、このような家庭の運用方法の違いを考慮していないと軋轢が生じることがある。

地方在住の親が、都会で暮らしている娘に(本気で心配しているのだろうが)早く結婚するように説教して煙たがられる話をよく聞くが、それも同じような認識のズレから生じるのだと思う。

親は田舎に住んでいて、夫以外の人も頼ることが出来る「分散型」の家庭を想像していて、結婚相手にそこまで高いレベルを求めているわけではないから、適齢期と言われる年齢になっても結婚しようとしない娘のことは、わがままで相手に高望みしているように映るのである。

それに対して、都会に住んでいる娘は、配偶者だけで自立(?)した生活を営む「集中型」の家庭を築くことを想定しているから、親から「早く相手を見つけろ」という言葉に対して、「『結婚!! 結婚!!』って気安く言っているけど、そんな簡単に良い相手が見つかるわけがないでしょう!」と反感を持つのである。

その結果、次第に喧嘩が絶えなくなってしまう親子もいることだろうが、これもお互いに相手の考えを理解できたら、そんなことにはならなかったのかもしれない。

もっとも、相手の意見を尊重することと、それを受け入れることは全く別のことだが…

ちなみに、田舎は「分散型」、都会は「集中型」というのはあくまでも理論上の話であって、実際にすべての家庭や地域がこのモデルに当てはまるわけではない。

実際に私が地元で経験した「分散型」の生活は20年前の話であり、今はその利点を自ら放棄して、そもそも存在しない大企業で働く正社員と専業主婦(もしくは短時間のパート)から成る「集中型」の暮らしに取りつかれている気がしてならない。

私はそのバカさ加減に嫌気がさしたため、地元に見切りをつけたのである。

スポンサーリンク