地元へ戻って就職、結婚することをしつこく勧めるオヤジとの決着をつけに行く①

先の年末年始の少し前に、実家へ帰省することになった。

表向きの理由は地元に住んでいる知人の結婚式に参加することだが、「結婚を廃止すべき」だと主張している私が、結婚式に参列して祝いの言葉を述べるなどお笑い以外の何物でもないし、交通費(並びに「ご祝儀」という名の恐喝)だって決して安いものではない。(招待されておいて、なんて失礼な!)

だが、私にとって今回の帰省の一番の目的は、そんな些末なことではなく、式に参加した後に、地元へ戻ってくることをしつこく勧める元同僚と直接対決を行うことだった。

・毎度逆らっていたものの…

彼の名前はタケダ(仮名)、今の年齢はたしか64歳だったと思う。

今回のタイトルにある「オヤジ」とは私の父親のことではなく、彼のことである。

私が彼と一緒に働いたのは5年以上前のことで、私が退職して以降も連絡を取り合っていた。

彼と一緒に働いていた時の印象は「話の合う気さくなおじさん」という感じだった。

その時は、まだ私がこの社会で働くことに絶望する前だったため、思い返すと私が心を許した最後の同僚だったことになる。

そんな腐れ縁で、退職後も5年以上連絡を取り合っていたが、20代後半になっても非正規の仕事を続けている私に対して(本人は心配しているつもりなのだろうが)「早く正社員として働け!!」、「早く結婚しろ!!」と説教してくることが多くなり、彼とは激突することが増えてきた。

こんな様子で

タケダ:フリーターなんてやってられるのは若いうちだけだぞ。年を取ったらどこの会社も雇ってくれなくなるぞ!!

早川:そもそも、人を採用する時に年齢で差別することは法律違反なのに、何でそんなに善人ぶった説教ができるんですか?

タケダ:社会は甘くないよ。法律なんかじゃ絶対に守ってもらえないよ。

早川:何でそんな血も涙もない企業が終身雇用だけは律儀に守ってくれると思っているんですか?

タケダ:社会とはそういうものなの!!(←キレながら言う)

早川:また都合が悪くなったら逃げるんですか?

一緒に働いていた時からこんなやり取りはあったが、私が30歳に近づくにつれて、彼との会話はほとんどがこのような言い争いになってきた。

私が東京で経済的に自立した生活を送っていることを知った時も「頑張っているね」というような反応ではなく

「いつまでも東京でフラフラしてないで、早くこっちへ戻ってきて就職して、結婚しろよ!!」

というものだった。

過去の記事を読んでくれた方なら、このセリフに思い当たりがあるかもしれない。

タケダはかつてこの記事に登場して、私が「バカか、お前は!?」と罵倒した相手である。

ちなみに彼はこの記事にも登場しているため、今回の記事は内容の一部が重複する点があるかもしれないがどうかご了承願いたい。

余談だが、今月最初の記事で登場した「爺(仮名)」も彼のことである。

さて、「早く東京でのフリーター生活から足を洗って、地元で正社員になれ!!」という彼の要求に毎回、楯突いてきたが、よくよく考えてみると「なぜ私がそうしないのか」を説明したことは一度もなかった。

というわけで、今回の再会を機に自分の考えを整理して、改めて彼に伝えようと思った。

・「お金がすべてではない」と言うけれど…

まず一つ目の理由は経済的なものである。

要するに「金の問題」。

以前も述べた通り、私は何も企業に対して「終身雇用で定年まで雇い続けろ!!」とか「勤続30年で年収は700万まで上げろ!!」と言っているのではない。

もしも

:完全週休2日(土日祝日の勤務は可)

:手取りで月給20万(ボーナスはなくても可)

:基本は定時退社で残業代は全額支給

というごく当たり前の条件の仕事に就けるのであれば、私はすぐにでも地元へ帰る。

そのような仕事すらろくにないのだから、私は今も東京に住んでいる。

ただし、その経済的な理由だけでは、地元で暮らし続けることに絶望するまでには至らなかった。

今から10年くらい前だったが、「包摂」という言葉を知った。

たとえ、福利厚生に恵まれた会社なんて無くても、一人ひとりが非力であっても、同じような立場の人たちが相互扶助的なグループを作って暮らすことができれば、貧乏であることが直ちに死につながるのではなく、人間としての尊厳を保って生きることができる。

たとえば、正社員として身を粉にして働いたところで将来の保証などあるはずもないのだから、仕事は適当に終わらせて毎日定時で退社して、休日も毎週必ず二日は取る。

雇用の数が限られている以上、「正社員にならなくては!!」と悩んでも仕方ない。

フリーターや自営業者の手伝いとして働いても構わない。

ただでさえ仕事に恵まれないのに、正規だの非正規だの醜い争いをしてもしょうがない。

そんなことよりも、貧乏人同士が寄り添って協力して生きることの方が大事ではないか?

大企業のような手厚い福利厚生がある会社などあるわけがないのだから、人が窮地に陥った時に救ってくれるのは仲間だけである。

というわけで、そのような人たちが集まって、休日は草野球やバーベキューを楽しんだり、海やキャンプに出かける。

子育ては親の手のみに任せるのではなく、地域や親戚で協力して行う。

このように、自分を守ってくれるものにすがるのではなく、仲間と絆を深めることで、互いに支えあうことができる相手を作る。

そんな生活を送ることができたら、たとえ年収500万だとか800万だという大金を稼ぐことができなくても、幸せに暮らすことができるかもしれない。

「金がないからマイホームも海外旅行も夢のまた夢だけど人生は楽しいぞ!!」

そう言って、仲間たちと笑って暮らすことができるのなら、それも幸せな生き方かもしれないが、実際は全く逆だった。

そして、それこそ、私が地元で働きたくない真の理由であり、今回のメインテーマである。

・人間は不安になるほど、自分を守ってくれる強大なものにすがろうとする

私が地元で就職したくない真の理由、それは雇用の安定など実質的に存在していないにもかかわらず、正社員という働き方に対する信仰心だけが未だに残っていて、それに反する者を良しとしない同調圧力が異常に強いからである。

簡潔にまとめるつもりだったが、全然そうはなっていないため、順を追って説明したい。

かつて「正社員」と言えば、

・仕事の経験がない新人でも雇う

・出来が悪くても決してクビにせず、手取り足取り仕事を教えながら一人前の労働者に育て上げる

・本人だけでなく家族が安心して暮らせるだけの給料を払う

・定年までしっかりと面倒をみる

これが当たり前だったが、近年はどの会社も余裕がなくなり、そのような安定した働き方ができる人が減ってきている。

「正社員」として働いても、それはかつてのような無条件に安定をもたらしてくれるものではないことは明らかになった。

もっと言えば、正社員として働けること自体が難しくなってきている。

これについてはほとんどの人が同意見であると思う。

問題はその先である。

かつての「正社員の安定」とは、従事する職種、勤務地、勤務時間を企業から一方的に決められる高拘束と引き換えに与えられたものだった。

だとしたら、「正社員の安定」が保証されていない以上、企業からの一方的な拘束に応じる筋合いはないと私は思う。

どうせ会社のために馬車馬のように働いたところで、雇用の安定も、将来の保証も約束されているわけではないのだから、仕事は適当に済ませて、それ以外の場所に生きがいを見出したり、会社に代わって、自分を守ってくれる友達や家族のような仲間を大切にしよう。

というのが私の考えである。

しかし、(少なくとも私の地元には)このように考える人は多くなかった。

人間は弱い生き物だから、自分を守ってくれているはずのものが実際には守ってくれないことが発覚すると、「誰かに頼るのではなく、自分がしっかりしなくては!!」と思うのではなく、自分を支えてくれるより大きな力を持ったものにすがろうとする。

そのような人たちは「確かに世の中全体は厳しくなっているけれど」とお前置きしながら、「だけど自分は正社員だから安泰」、「自分の会社だけは絶対に守ってくれる」と思い込むことで不安を和らげようとする。(以前紹介したこの本の言葉を借りれば「共同体の匂い」に支えられようとする)

こうして、「大企業的な正社員モデルがほとんど存在していない」と分かっているにもかかわらず、「正社員になれば会社に守ってもらえる」というような期待に似た幻想だけが強力に生き続けているという不思議な現象が起こっている。

年功序列や終身雇用といった日本型雇用の恩恵を感じることができるのは勤続20年を超える頃である。

若い時は、それらが一切なく従業員を使い捨てるだけのブラック企業との差異はほとんど明るみに出ない。

そのため、(幸か不幸かは分からないが)ブラック企業でも、「正社員だから絶対に安泰(に違いない)」という安心感だけは持つことができる。

これが、この記事で紹介した「正社員という名の宗教」に救いを求めようとする人たちの行動である。

次回へ続く

スポンサーリンク