ここ2週間くらいは東京で働くことの記事を書いていたため、旬の時期は逃した感はあるが、このニュースを見てどうしても書きたいと思うことがあった。
選択的夫婦別姓「賛成7割」、高齢男性に根強い「他の夫婦も同姓がいい」という価値観 | 弁護士ドットコム ニュース
そのテーマとは選択的夫婦別姓のことである。
・未婚率の上昇と少子化の進行を食い止めるには
私はそもそも、結婚そのものが不要であると思っている。
以前の記事で結婚不要社会と結婚困難社会について紹介したことがある。
簡単におさらいすると、
・私たちが「結婚」と聞いて思い浮かべる生活様式は「近代結婚」と呼ばれ、「伝統的」なものではなく、日本では戦後になって普及した比較的新しいライフスタイルである。
・これはある一定の社会条件ではどの国においても見られる現象であり、欧米でも1970年代までの150~200年はこのような結婚が主流だった。
・しかし、経済状態が変化すると、誰もがこのような結婚をすることが難しくなる。
・そこで、同棲や婚外子など従来の型にとらわれない自由な家族の在り方を追求するのが「結婚不要社会」、従来の(自称:伝統的な)結婚に固執してそれ以外の在り方を認めず、結婚そのものが困難となっている社会が「結婚困難社会」である。
日本や韓国のように少子化や未婚率が社会問題となっている国は概ね後者であり、この2つを比較した場合、結婚不要社会の方が人間の尊厳を保てて、少子化の歯止めになる利点はある。
そのため、選択的夫婦別姓などという生ぬるい政策に留まらず、結婚そのものを廃止すれば、姓の問題だけでなく、同性婚を認めるか否かの問題や、有名人の年の差婚に対して「やれあいつは若い女の体目当てだ」とか「やれあいつはジジイの財産目当てで結婚した」などという浅ましくて下らい偏見も消滅して万事解決すると思っている。
・「ひとつの家族」という言葉にある2つの意味
以上が私の意見なのだが、これはかなりの極論で、実際にそこまでのことができるとは思っていないし、すでに結婚して幸せなな家庭を築いている人に対して「結婚なんて汚らわしいことをしないで今すぐ別れろ!!」などと言うつもりもない。
というわけで、妥協案として、当面の間は選択的夫婦別姓のような制度を取り入れることが妥当だと思っている。
さて、私が今回取り上げたいことは夫婦別姓に反対する人の奇妙奇天烈な理屈についてである。
先ほど引用した記事の中では反対意見としてこのようなものが紹介されている。
「夫婦は家族を作ることだから同姓がいいと思う。夫婦別姓だと家族がバラバラになったように感じるから」(男性57歳)
「昔からの伝統を大切にしたい。夫婦同姓が日本のルールだから」(男性50歳)
「短絡的な離別の抑制」(男性56歳)
発言者の年齢と性別が確認できた意見はこの3つだけだったが、3人とも高齢の男性である。
これは私の推測だが、おそらく3人とも妻の方に苗字を改名させ、そのことを当然だと思っているのだろう。
その傲慢さだけでも十分腹が立ち
恥を知れ!!
と説教したくなる。
彼らの考えにあるのは「自分たちは夫婦二人で同じ苗字を名乗り、家族としての一体感を得たい」ということではなく、「他所の家庭も自分たちと同じように結婚したら夫婦で同じ苗字を名乗ることが当然であり、それ以外の家族の在り方は認めない!!」という偏狭な思想なのだろう。(そうでなければ、他人の夫婦別姓に反対する理由は生まれない)
そして、他の人たちも、自分たちも同じような「正しい」家族であることを「ひとつの家族」と考えているのだろう。
この「ひとつの家族」という言葉が悪質なのである。
私は以前の記事で「伝統的で温かいひとつの家族」という言葉には親族間の助け合いを重視する前近代的な家族観と、誰もが同じような結婚して、同じような自分の家庭を持つという意味である「みんなと同じ形の家族」という近代的な家族観がデタラメな具合に混ざっているということを書いた。
前者は比較的イメージしやすいと思う。
途上国は年金のような社会保障がなく、仕事も末端の生活者まで行き届いていないため、家族しか頼れるものがない。
そのため、いざとなったら家族を頼るし、家族の誰かが困ったら積極的に助ける。
後者についてはやや説明が複雑になる。
「誰もが結婚できる」という皆婚社会は日本では1950年代後半から70年代後半までの期間のできごとであり、この時代は経済的に成長して社会が安定していた時代である。
近代化や工業化によって成長し豊かになる社会の特徴として画一的、均質的というものがある。
家族の形以外にも、みんなが同じテレビ番組を見て、同じような車に乗って、同じように家を買って、(序列はあるにせよ)同じようなレールに乗った人生を送る。
生き方の多様性はないにせよ、社会が成長する中で強者が富を独占するのではなく、誰もが同じように豊かになれることがこのような時代の特徴である。
このような社会にとって、「ひとつの家族」とは多くの親戚を含む大家族的な助け合いのことではなく、誰もが同じように自分の家庭を持ち、同じように自分が作った家族に生きがいを感じる「みんなが同じ」という意味なのである。
この2つの家族観は似ているようだけど、全然違う。
選択的夫婦別姓に反対する人の考えている「ひとつの家族」とは限りなく後者の意味合いが強い。
・「自立」という言葉を通して考えてみよう
その違いを分かりやすくするためにこんなたとえ話を用意した。
あるところに4人の兄弟がいる家族がいました。
上の3人の子はすでに就職して、実家を離れています。
しかし、末っ子だけは学校を卒業した後も、実家で暮らしています。
仕事も週に20時間程度のアルバイトをするだけで、全く自立しようとしません。
それでも、両親は特に咎めることなく、当たり前のように実家に住まわせています。
もしも、両親が死んでしまったら、その子はお兄さんやお姉さんの家庭に居候するつもりです。
そして、お兄さんやお姉さんもそうなった場合は当然のようにその子の面倒を見るつもりでいます。
なぜなら、「家族の誰かが困った時は世話をすることが当たり前だから」です。
これがいわゆる「家族の絆、ひとつの家族」なのです。
出来が悪いからこそ、なおさら支えなきゃ。
自立も自己責任も必要ねえよ!!
別の家庭にも、同じように、お兄さんやお姉さんが自立しているにもかかわらず、学校を出た後も実家に暮らしている末っ子がいます。
両親はその子に自立を求めています。
父:「お前も兄さんや姉さんを見習って自立しなさい!!」
末っ子:「は? 自立って何よ?」
父:「結婚して自分の家庭を持つことだ!!」
末っ子:「え~、なんでそんなことしなくちゃいけないの?」
母:「お父さんやお母さんはあなたよりも先に死んでしまうのよ。そうなったら、あなたはどうやって暮らすの?」
末っ子:「う~ん、お兄ちゃんかお姉ちゃんと一緒に暮らす」
母:「いい加減にしなさい!! お兄さんもお姉さんも結婚して家族がいるから、あなたの面倒を見ることなんてできるわけないでしょう!!」
え!?
お兄ちゃんやお姉ちゃんは私たちの家族じゃないの!?
前者が前近代的な意味のひとつの家族、後者が近代的な意味でひとつの家族。
「自立」という言葉を通して考えると、同じ「ひとつの家族」でも意味は大違いであることが分かる。
・「温かいひとつの家族」と「冷たいひとつの家族」
前者の意味の「ひとつの家族」であれば理解はできる。
「家族」とは親、兄弟、親戚、血縁も制度上のつながりもないがなぜか住み着いている居候、裕福な家ならば召使、もっと広げると同居はしていないけれども仲が良い友達のことを指し、その中の誰かが困ったら互いに助け合う。
「就職や結婚で離ればなれになっても、困ったことがあればいつでも頼っていいよ」
「上手くいかなかったらすぐに戻ってきていいよ」
「だって家族だから」
そこに血のつながりも、制度のつながりも必要ない。
ましてや、同じ苗字であることなどどうでもいい。
各々が心に定めた「家族のため」に戦う。
このような助け合いの精神が「美しく温かいひとつの家族」だと思う。
もちろん、このような家族の形には、生まれた家や地域など、自分の力だけではどうにもならないしがらみがあり、家族の誰かが困ったら、自分が損をしてでも助けなければならないなどの面もあるため完璧とは言えないが、「ひとつの家族としての支え合い」という意味では理解できる。
それに対して後者の(近代的な)「ひとつの家族」のメリットとはどんなことだろうか?
「自分も他所も同じ」という透明性による安心感と効率性以外には見当たらない。
しかも、効率性とは社会がそのような家族の形に適した状態でのみ機能するものであって、男一人の稼ぎで家族を養う収入を得ることが難しかったり、将来の見通しが不安定で、「(自分一人でさえ困難なのに)相手の生活を一生保証する」ことが困難である現代社会ではその優位性は損なわれているだろう。
「自分も人と同じだと安心できる」というように付和雷同することで心の安定を保ちたい人にとっては精神安定剤になるかもしれないが、今日のテーマである選択的夫婦別姓に反対する人は逆に「他人も自分と同じじゃなきゃダメ」と考えているのである。
ほぼ全員(みんな)が同じような結婚をして、同じような家族を営み、そこには正社員で働くお父さんがいて、専業主婦で働くお母さんがいて、自分たちの家を買って、夫婦二人だけの手で子どもを育てることが、唯一絶対普遍的な正しい家族であり、「それ以外は許さん!!」と考え、その規範モデルから外れた人間は「自己責任だ!!」と罵倒する。
ちなみに、彼らにも「家族の助け合い」という考えはあるようだが、それは「夫・妻・子」という限られた間柄のものに過ぎず、しかも結婚して自分の家庭を持った後は自分の親に対してはやたらと冷たい。
「助け合い」と口にしながら、包摂性などなく、いたって排他的な絆である。
それが彼らにとっての「ひとつの家族」であるというのであれば、それはなんとも「醜くて冷たいひとつの家族」であろうか。
「結婚相手に高望みするな!」と偉そうに説教している人も結婚に妥協できていない
「独身者は人間にあらず」という偏見は高度経済成長時代に生まれた公害問題である
結婚への高望みは多様性を容認しない社会に過剰適応した末の悲劇である
コロナ渦で露呈した「家族はいつも一緒にいることが日本の文化」のウソ
(「選択的夫婦別姓が家族の絆を破壊する」と批判するのなら、日本企業の単身赴任制度も同様に「家族の絆を破壊する」と批判しよう)