どうしても結婚したい人へ贈りたい3つの言葉②:仲良し夫婦は家父長制からの解放にならず

前回から2年ぶりに行うジューンブライド企画として、「どうしても結婚したい人へ贈りたい3つの言葉シリーズ」をお送りしている。

一発目から大真面目な本を用いながら過激な発言を飛ばしたが、今回は若干マイルドな言葉である(あくまでも当社比)。

今日のテーマはこちら

:仲良し夫婦は家父長制からの解放にならず

結婚相手の男性に望むものは容姿、年収、性格など様々だろうが、どうしても譲れない条件として

「家父長制の家庭を目論む男は絶対に嫌だ!!」

と考えている人は多いのではないだろうか?

「家父長制」という言葉を意識しなくても、

「私のことを『お前』と呼ぶような男は嫌だ!!」

「『嫁』ではなく『ひとりの人間』として対等な関係でいたい!!」

とか。

以前、「男尊女卑」というイメージがある九州男児を餌にして、差別主義者を懲らしめる記事を書いた。

その記事は私の予想を大きく上回り、瞬く間に当ブログのアクセス数No1にまで昇りつめ、半年近くその座をキープしている。

その記事へのアクセスから封建主義的な男がどれだけ嫌われているのかが分かる。(詳しくはこの記事を読んでほしい)

参考までに、ある期間におけるこのブログの検索結果の画像を貼り付けておく。

また、家父長制とイコールではないが、「相手の親との同居は絶対に嫌だ!!」という条件もこれと似ている。

「相手の親の実家で暮らすことになるから、長男とは結婚したくない!!」

「舅・姑から奴隷のようにコキ使われたくない!!」

彼(彼女)らが望む結婚とは、実家とのしがらみから解放されて、二人(と自分たちの子ども)だけの自由と特別な関係を満喫することであり、その「家族」には互いの親族は含まれない。

なんだか、「家族の絆」という言葉がこれほど虚しく聞こえることもそうはない。(しかも、本人は「家族が欲しい!!」と言っている)

でもね、フフフ…(←うすら笑いを浮かべながら言う)、残念ながら、仲良し夫婦であることが家父長制からの解放を意味しないのですよ。

むしろ、より強化される危険性すらある。

・半世紀前のニューファミリー

前回の記事で紹介した本、21世紀家族へ第4版 落合恵美子(著)有斐閣に「ニューファミリー」という言葉が登場する。

これは1974年頃から流行したもので、朝日新聞が76年に特集した記事によると、行動特性としては以下のことが挙げられている。

・できるだけ夫婦、親子で行動、家事も共同、ファッションに気を使い、まるで友達みたいな態度をとる。

・ジーンズを愛用。

・常にサウンドを求め、レジャー、外食を好む。

・一見セツナ(刹那)主義

消費傾向の変化が第一の特徴とされているが、同じくらい指摘されていることが、「友達夫婦」、夫婦関係の平等化である。

加えて、結婚相手に求める条件は、夫は第一位に、妻は第二位に「価値観が似ていること」が挙げられている。

この年代は、ウーマンリブ運動が活発化し、結婚する夫婦の多くは戦後生まれとなった頃である。

というわけで、この時代の夫婦はこれまでのような、女性が一歩下がって、家事のすべてを押し付けられる家父長制のような家庭を作るつもりはないと考えているのだろう。

さよなら家父長制、こんにちは仲良し家族。

「九州の男 結婚したくない」と検索して私のブログを訪れた人はこのような結婚を望んでいるのですね。(「あんたが選べる立場なのか?」なんてことは口が裂けても突っ込みませんが)

だが、ニューファミリーとは結局幻想に終わったようである。

彼らが主な購買層だと思われていたワインや洋菓子を買っているのは実は中年夫婦であることが分かり、彼らをターゲットにしていた雑誌「クロワッサン」はさっぱり売れず、翌年から、夫婦一緒に読む路線を捨てて、女性だけが読む雑誌へと趣旨を変えた。

ニューファミリー構想という夢の破綻は、性別分業について男女の意識差があったことが原因で、妻の方は友達夫婦という建前を信じ続けたかったものの、夫側は現実の力関係に開き直り、結局は、先輩世代と同じく、女性は家事・育児ロボットや家政婦(兼性欲処理)というこれまでと同じ役割を負わされることになった。

つまり、家父長制とは無縁な、民主的で、夫婦も親子も対等で、愛によって結ばれた友愛家族を作ってくれそうな男であっても、その優しさが結婚後の生活も保障してくれるとは限らないのである。

・化け物が消えたら、新たな化け物が生まれた

ただし、これは決して、自称フェミニストが叫んでいる

「優しそうな男も結婚したら家父長制の本性をむき出しにする!!」

という「男性性悪説」に基づいた話ではない。

あくまで構造の問題。

まあ、大半は自分たちが好んで選んだ道なのだろうが…

ニューファミリーとは近代家族の理念をもっとも先鋭に志向した家族であり、実際に家制度の縛りから女性を相当程度解放することにはなったのかもしれない。

だが、それは女性にとっての理想郷の実現ではなかった。

よくよく考えたら分かる話だが、近代家族の特徴は、家を拠点とした自営ではなく、雇われの身として会社に通勤することになり、必然的に夫婦(性別役割)分業となる。

そして、夫婦だけで独立して家庭を営み、親族の誰かが家事を担ってくれることは期待できないため、当人たちだけで時間と労力を費やさなければならない。

しかも、子どもは愛情を込めて育てられることが求められるため、親は子どもに付きっきりでいなければならない。

たとえば、「手料理でなければ子どもが可哀そう」とか、「他人に子どもを預けて、自分は娯楽を楽しむなどけしからん」とか(実際にそのような圧力をかけられているのか、本人が思い込んでいるだけなのかは不明だが)。

当然、会社勤めの人間にはそんな時間も労力もなく、すべての家事や育児を妻一人が担うことになる。

そうなると、(夫にも言い分はあるにせよ)女性は夫や子どもの世話に従属する形で、家の中に閉じ込められてしまう。

そんな生活を送っておきながら「対等な仲良し夫婦」なんてことを考えても、それは絵に描いた餅になることは明白である。

つまり、ニューファミリーとは近代家族の理念が実現できずに女性を家父長制という化け物から解放できなかったのではなく、その理念を完璧に実現できたせいで女性を虐げる新たな化け物が誕生したのである。

なんだか、ドラえもんの「どくさいスイッチ」で、のび太が乱暴者のジャイアンを消したら平和で民主的な世界が生まれると思ったら、その後はスネ夫がそのポジションに収まり、自分の役割は結局これまで通りだったという話に似ている。

・自分の考える理想の家庭が相手に幸せをもたらすとは限らない

今日のテーマは結婚相手に自分を対等に扱い、友達のような仲良し夫婦を作ってくれる男性を求めている白馬の王子様症候群の女性だけでなく、男性にも警告を出す目的で書いた。

結婚に対して、前近代的な家族のしがらみから女性を救い出すというヒーロー願望を持っている男性が少なからずいる。

本人はその筋書を大真面目に信じているのだろうが、自分が理想とする家族が相手を理想にするとは限らない。

何年か前にネットで、僻地に住み文明から隔絶された集団生活を送っている少数民族の取材動画を見たことがある。

その中で整った顔立ちの少女がインタビューを受けており、コメント欄にはそのシーンを指して、こんなことが書かれていた。

「俺がこの子と結婚して、村から助け出してあげたい」

これはこれまで女性と交際したことなどないであろう男性が書いたものだと思われるが、私はこのコメントを見て吐き気がした。

この男の妄想では、親族や地域など前近代的なしがらみに苦しめられて生きている彼女を解放するつもりでいるのだろう。

彼は自分の理想とする近代家族こそが絶対的な正義で、幸福をもたらすと信じて疑わず、彼女が身を置いている生活よりも、自分が考える家庭の方が彼女を幸せにできる前提で話を進めている。

だが、彼女から見れば、それは今の彼女を支えている様々な絆を奪われて、すべての生活がこの男の管理下に置かれることを意味する。

まあ、奪う側の人間はそのすべてを自分一人で代替できることを能天気にも確信しているが…

その考えの幼さや傲慢さは大いに呆れる。

このように、本人は大真面目に愛情に基づいた家族形成を考えているつもりでいても、家父長制の家庭へとつながる危険性もある。

ここまでアホな例は極端だが、「本人は対等な関係」でいるつもりでも、実は女性に負担を強いている家庭は珍しくない。

勘違いイクメンが子どもをお風呂に入れたり、休日に遊びへ連れて行くことで、対等に子育てをしているつもりになっているものの、妻に不満を言われて、「僕はこんなに頑張っているのに何が不満なんだ!!」と激怒することがある。

本人は「僕は育児を妻に任せきりにしたりしない!!」と言いたいのだろうが、そんな彼らの一体どの程度の人が、子どもの予防接種や熱を出した時の急なお迎えのような昇進に支障が出たり、同僚から後ろ指を指されるリスクを背負った行動ができるのだろうか?

それができないのであれば、「結局は、子育ては妻がやってくれる」と思っていることと同じなのである。

当然、その役割を押し付けられた妻は、「自分はそのことでキャリアを諦めたのに『育児に協力的です』というような顔をされることが許せない!!」と思うだろう。

そんなことをやっている男が「自分は女性を虐げる家父長制とは無縁で対等な関係だ」などと言われても、妻が持つのは不信感だけである。

次回へ続く

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