以前、48歳のアメリカ人女性からこんな話を聞いたことがある。
彼女は看護師として働いているため、シフト勤務で働いている。
そんな彼女が珍しく土日連続で休めることになった。
現在独身である彼女はその連休を利用して、恋人とデートを楽しむ予定らしい。
私は2ヶ月前の記事で、「近代的な結婚とは経済生活と親密性を一致させることが不可欠だが、社会が新しいステージに入ると、それまでのように誰もが安定した収入を得ることが難しくなるため、それまでとは違い、『経済を取るか? 愛情を取るか?』の選択に迫られることがある」ということを書いた。
そのような状況で、欧米は愛情を優先して、経済は夫婦で独立した形を取る道を選んだ。
そのため、結婚して夫婦になっても、恋愛感情を保ち続けなくてはならず、たとえ結婚しなくても、経済ではなく心理的なつながりで交際をする。
彼女の話を聞くと、それは本当であると改めて実感できた。
デートの予定を楽しそうに伝える彼女のメールを読んだ私は微笑ましい気分になった。
だが、すぐに別の考えが頭に浮かんだ。
彼女のように休日に恋人とデートを楽しむことができる独身の中年女性はこの国にどれだけいるのだろう…
もしも、彼女と同じ48歳で未婚の日本人女性が、同じように
とワクワクしながらデートの予定を語る様子を見せたら、周囲はどう思うだろうか?
「いい年して遊んでないで、ちゃんと結婚しなよ!!」
そうなじられて、痛い奴認定されることが容易に想像できる。
・独身中年女性の休日
ここで衝撃的な過去を告白したい。
私は上京して初めての職場で働いていた時に、同僚の独身中高年女性たちが開催した女子会というか、食事会に参加したことがある。(その時の詳しい話はこちら。なお、「中年」の定義がアラサーなのか、30代なのか、40代以上なのかは読者の想像に任せる)
といっても、私は特に親しい間柄の人がいたわけでも、同調圧力に屈して無理やり参加させられたわけでもない。
私が地元にいた時は離婚者を除くと独身の中年女性など全く目にすることがなかった。
そして、テレビでは独身の中年女性がいかに悲惨な送っているのかが繰り返し報道されていた。
若い時はのぼせ上って、男をえり好みして遊んでいながら、適齢期を過ぎた頃から焦り始めて「いい男!! いい男!!」と結婚に異常に執着する女性、貧困に苦しみながら孤独死する女性。
以前の記事でも書いたが、この国の社会保障は男性が勤め先の充実した福利厚生に守られて、女性はその男性に養われることが前提になっている。
だから、大企業の男性正社員のような恵まれた福利厚生も、養って生活の面倒を見てくれる夫や親もいない中高年の独身女性は貧困に陥りやすい。
それは十分に理解していたため、独身の中年女性が実際にどんな暮らしをしているのかに興味があった。
その食事会で、彼女たちと世間話をしたのだが、そこで私が感じたことは、「彼女たちが(「意外にも」と言ったら失礼か?)普通に暮らしている」ということだった。
彼女たちは「男!! 男!!」と言って必死になって自分を養ってくれる相手を探しているわけでも、将来に悲観的になるわけでもなく、バレーのチームに参加したり、女同士で旅行をしたりと、特に若い人たちと変わらない様子だった。
「聞くと見るとは大違い」とはこのことである。
だが、交際相手がいる人は一人もいなかった。
できれば、元々交際に興味がないまま年を重ねただけなのか、それとも、以前は恋人がいたものの、今は年齢を理由に交際を止めたのかを聞きたかったが、さすがにその勇気はなかった。
・結婚しないと大切にされない?
ここで改めて考えてみたい。
中年女性が結婚ではなく恋愛を望むことはおかしいことだろうか?
交際相手がいること自体が稀であるかもしれないが、たとえ相手がいたとしても、結婚を考えるような間柄でなければ「それは遊びじゃないか!?」と非難される。
しかし、そもそも遊びの何が悪いのだろうか?
どんな理屈なのかは理解に苦しむが、結婚を前提としない交際のことを
「無駄な遊びのために時間を浪費したくない!!」
と言って嫌う人たちがいる。
私はその言葉を聞く度にこのように突っ込みたくなる。
「恋愛とはその無駄な遊びの積み重ねであり、その結果として行うものが結婚ではないのか!?」
独身者でも、同性の友達とは親密な関係を築いていることは珍しくない。
その相手が異性というだけであって、なぜ結婚が前提でなければならないのだろうか?
よく「結婚には責任が伴うため真剣にならざるを得ないが、恋愛では都合よく遊ばれているだけ」だと考えている人がいる。
その例として挙げられるのが、恋愛関係を利用されて、お金を貢がされるとか、性的な欲求のはけ口にされるとかである。
そして、飽きられたら一方的に捨てられる。
だが、それは「恋愛」でもなければ、「遊び」でもなく、性的な搾取、または虐待であり、そのような関係を結婚と対比させること自体が間違いである。
ちなみに、
「いつまでも、恋人気分でいられるほど甘くないぞ!!」
「相手のことが嫌いになっても離れない(離れられない)関係が結婚だ!!」
と言って、結婚には「相手のことが好き」というような恋愛を超越した義務や責任があるかのような説教をする人がいるが、そういう人たちほど、経済的な関係が破綻すると、あっさりと離婚したりする。
・「結婚」にこだわる人ほど相手のことを信用していない
確かに結婚すると、相手には扶養や不貞の義務が生じて、法律上の特権が得られる。(もっとも、それは自分も同様に縛られることを意味するが…)
結婚したら、法律上の義務があるのだから、(離婚しない限り)相手は一生裏切ることはない。
そのような保証を望むのであれば、結婚は魅力的な選択肢なのかもしれない。
しかし、そのような法的な制度に支えられた繋がりや保証を「絆」と呼ぶことには、私は違和感を覚える。
好きな人と一緒にいる理由は経済的なつながりでも、制度に縛られた繋がりでもなく、お互いに相手を選び合っているだけで十分ではないか。
今から10年程前の話だが、時の政権が選択的夫婦別姓を導入しようとした際に「保守」を自称する政治家がこんなことを言って反対していた。
私は別に他所の夫婦の苗字になど興味はないが、その理屈を聞いて呆れた。
苗字が同じでなければ維持できない「家族の絆」とは一体何なのだろうか?
自分で言っていて虚しい気持ちにならないのか?
結婚に特別な意味を見出そうとしている人ほど、制度で縛って強制しなければ、相手は自分から離れて行ってしまうのではないかと恐れている。
つまり、相手を信用していなかったり、自分に自信がなかったりと精神的に弱い人なのである。
たとえ、血がつながっていなくても、経済的につながっていなくても、制度でつながっていなくても、お互いが「一緒にいたい」と思って、付き合う関係が「絆」だと私は思う。