・外国人が納得しないプロポーズの言葉
先日、日本のドラマやアニメが大好きなタイ人からこんなことを言われた。
「どこでそんな言葉を覚えたのか?」という疑問はさておき、それはもっともな意見である。
「全力で君を守る」と言うのであれば、家事や育児にも責任を持つべきなのに、自分は仕事だけにしか目を向けないのはその言葉に反しているのではないか?
彼女にとっては結婚する前に「全力で君を守る」と言いながら、家庭のことを妻に丸投げして、自分は一切責任を持たない男は大ウソつきのように見えるのだろう。
しかし、まがりなりにもこの国に生きている私はプロポーズの時にこんな言葉を使ったにもかかわらず、結婚したら職場のことしか頭になくなってしまう人の行動も理解できなくはない。
というわけで、彼女に私の意見を伝えてみた。
早川:「そういう人が考える『全力で君を守る』という言葉は『結婚したら、どんなに仕事がつらくても、君を守る(養う)ために一生懸命働く』という意味なんじゃないかと思う」
タイ人A(仮名):「え!? 結婚することと、一生懸命仕事をすることに何の関係があるの? 結婚したら夫婦で協力して仕事と家事を分担するものじゃないの?」
早川:「日本の会社員は会社の都合で一方的に勤務地や職種を変えられるから、二人揃ってフルタイムで働くということが難しいの」
タイ人A:「そんな働き方で家庭生活が成り立つの?」
早川:「だから、大半は夫がフルタイムの仕事を続けて、今まで通り(というよりも、家事を妻に丸投げできる分『今まで以上に』とも言える)仕事中心の生活を送って、妻がすべての家事を行って夫を支えるケースが多い。彼らの言う『全力で君を守る』という言葉が『仕事に没頭する』という意味になる理由はこのためだと思う」
タイ人A:「『あなたは主婦になって、私のためにすべての家事をやってください』と言って、家のことをすべて妻に押し付ける人は随分自分勝手な人に見えるけど、何でそんな人が『君を守る』なんて言えるの?」
早川:「・・・何でだろうね?」
タイ人A:「それって、相手の気持ちを全然考えていないじゃない? そもそも本当に、相手がそんな結婚生活を求めているの?」
・熱意の空回り
「なんで私が大嫌いなタイプの人たちのことをそこまで擁護しなければならないのか?」と疑問を持ちつつも全力で擁護したが、結局彼女を納得させることはできなかった。
とはいうものの、彼女のいうことは正論ではないかと思った。
もちろん、その言葉に偽りはないだろう。
家族のためにも、どんな長時間労働だろうが、泊まり込みだろうが、全国転勤だろうが、絶対に耐える!!
だが、それは「家族を守る」と言う言葉に反して、自分はどれだけ家庭のことを妻に押し付けているのだろうか?
その独りよがりな頑張りで、どれだけ家族のことを傷つけているのだろうか?
社畜やモーレツ社員のような生き方を好む人は「仕事とは人生を捧げるものである。その覚悟がない女共は社会に出る資格がない!!」と宣うが、その働き方は自分の家庭の仕事をずべて引き受けてくれる専業主婦の存在がなければ、そもそも成立しない。
タイ人の彼女が指摘した通り、「君を守る(ために全力で働く)」という言葉は、実は「自分が仕事に没頭できるように、私の身の回りの世話をすべて引き受けてください」の意味に等しい。
それが本当に相手を幸せにすることなのだろうか?
このように自意識と他人が求めているものの間に差がある場合は、熱意を持って頑張ることが意図した結果をもたらすとは限らない。
・「一人前の男は自分一人で家族を守るもの」という考えに固執して家族を守れない人
本人は「自分は立派な人間でなければ!!」という高い自意識に執着することが、「実際に立派な人間であること」であるとは限らないという話で似たケースを聞いたことがある。
これは私がフリーターをしていた時の話である。
当時の同僚に夫の愚痴を頻繁にこぼす50代のパート社員がいた。
彼女の話によると、彼女の家庭は夫と二人の息子(大学生と高校生)、そして夫の両親の6人家族である。
生活費はサラリーマンとして働く夫と自分のパート代で賄っているが、夫の年功賃金はピークが過ぎたということで、収入面は相当苦しくなっている。
というよりも、実際は火の車で、ボーナス前にはサラ金から借金をしないと生活ができない。
一方で(にもかかわらず?)夫の両親はある程度の厚生年金を受け取っているようで、彼らにはそれなりの貯金があるらしい。
そのため、彼女は夫に「お義父さんとお義母さんに少しでも生活費を負担してくれるように頼んで!!」とお願いしているのだが、夫は全く聞き入れてくれないという。
どうやら彼女の夫は典型的な日本型社会保障系の考えの持ち主(自称社会人)なのか、
と思っているようである。
というわけで、援助を頼む勇気がないどころか、自分の収入だけでは家族を養うことができないという事実を認めることすらできず、家計は破産寸前らしい。
ちなみに、息子の大学の学費は義理の両親が全額負担してくれたそうだが、ここでも一悶着あったようである。
本来であれば、「子どもの学費は親が出すものだが、それができないから両親(学生の祖父母)に出してもらおう」なるのかもしれないが、彼は両親に
とお願いすることができなかった。
その上、「自分が子どもの学費を負担することができない」という現実を受け入れることが嫌で、息子に対して
と言って息子に奨学金を借りさせようとしたらしい。
その時は彼女が夫にブチ切れて大喧嘩になり、止めに入った義父母が事情を聴いて、学費を全額払うことを約束してくれたようである。
彼女の今の(私と一緒に働いていた当時の)悩みは高校生の息子の大学進学費用と、最後の砦である退職金が減額されたら家のローンが完済できないことである。
果たしてその時が来たら、夫は本当に「家族を守るため」の行動を起こすのか、それとも「自分は家族を守っている」という虚像を守るための行動を起こすのだろうか?
・本当の「強さ」とは?
この話も熱意が空回りして結果に結びついていないことが分かる。
本当に「家族(家庭)を守りたい」と思うのであれば、自分一人の収入が家計を賄うことができないと察知した時点で、すぐに預貯金のある両親に事情を説明して(借りるにせよ、貰うにせよ)支援を頼むべきだった。
それが「家族を守る」ということではないのか?
そうすれば、少なくともサラ金から借りた金の利息くらいは無駄に使わずに済んだし、妻と子どもを不安に陥れることもなかった。
(ちなみに「奨学金」と呼ばれている学資ローンを借りた場合も、サラ金と同様に元本だけでなく利息も払わなければならない)
それができなかったのは「自分は一人前の社会人なのだから、他人の力を借りずに自分一人で家族を養わなければいけない」という「強い男性像」が邪魔をしたからである。
と支援を頼むことが本当に恥ずかしいことなのか?
「自分は誰の支援も受けていないのだから、立派に家族を守っている」という(偽りの)自尊心を守るために、家族を守ることができないことの方がよっぽど恥ずかしいことではないのか?
本当の「強さ」とは自分の弱さを認めて、他人の力を借りてでも、必死に前へ進もうとすることだと私は思う。