先日、胸を痛めるニュースが報道された。
水泳授業中に死亡した児童 プールに入る前「怖い」と訴え |NHK 高知県のニュース
高知市の小学校が、プールが老朽化していたため、中学校のプールで水泳の授業を行っていたところ、プールが深すぎたため、4年生の男子児童が溺死した。
父親によると、男子児童は身長がおよそ1m10cm、体重16kgと小柄で、水泳の授業の前に「怖い」と学校側に訴えていたとのこと。
私はこれまでも、学校における水泳の授業が、いかに子どもたちを追い詰める危険なものであるかを訴えてきた。
そのため、このような水泳による事故が起きると、歯がゆい気持ちになる。
・水泳を教える人間はいい加減なもの
私が初めて学校の水泳の授業について触れたのはこちらの記事である。
私は小学生の時から水泳が大嫌いで、何かと理由をつけて逃げ回っていたのだが、大人になってから、ふとこんなことを考えた。
「どうして、私はあんなに水泳の授業を嫌っていたんだろう…」
決して、プールで溺れかけて死にかけた経験があるわけではない。
バタ足で8mしか泳げないことで、同級生からいじめられたわけでもない。
にもかかわらず、私が水泳の授業が嫌で嫌で堪らなかった理由は…
2年生から3年生への進級の際の引継ぎが上手く行かず、クロールの泳ぎ方を教わる機会がなかったからである。
クロールの泳ぎ方を教わる機会がなかった私は、同級生がどんどんと泳ぎを上達させる中で、「実は泳ぎ方を知らないんです…」とも言えず、ひたすら逃げ回っていたのだが、4年生になった時に、町内の水泳教室のインストラクターがやって来て泳ぎが苦手な子向けの特別指導を行うことになった。
嫌々ながらも参加することになった私は、そこで「先ずは水に慣れる練習からしよう」と言われて、ひたすら水に潜らされた。
その結果…
外耳炎を患った。
もっとも、そのおかげで、同シーズンは以降の水泳の授業は完全に免除となった。
周りから「可哀そう」と同情されたが、とんでもない。
これで堂々とサボることができるのだから。
彼は指導者としては最低でも、私にとっては救世主となった。
このように、私はたまたま死ななかったものの、引継ぎミスにせよ、外耳炎を誘発したインスタラクターにせよ、水泳を教える人間など無責任でいい加減な人たちなのである。
水泳の授業なんてくだらないものは即刻廃止にすべきだし、世の中が変わらなくても、良い子の皆が水泳の授業に出たくなければ、営業の電話を切る感覚であっけらかんとした態度で「僕はいいです」と断れば良い。
こんなことを提案すると必ず「逃げ癖が付いて、少しでも嫌なことがあると逃げ出すような弱い人間になる!!」という的外れな主張を展開するバカもいるが、甚だしい勘違いである。
大人だって、嫌なことや苦手なことから逃げ回ってきたではないか?
たとえば、私は英検2級を所持しており、その話をすると、「すごーい!!」と言われることがある。(自慢話に聞こえたら申し訳ない)
英検2級は「英語圏の国で生活可能なレベル」と言われ、このような言い方をすると、まるで英語ペラペラのような印象がある。
だが、その内容は高校卒業レベルであり、中卒の人がそう思うのであればともかく、高校を卒業している人間であれば、「出来て当たり前」なのである。
むしろ、こんなことも出来ない人が、当たり前のように高校を卒業したり、大学に進学できる社会であることの方がよっぽど問題ではないのか?
これはあくまでも英語の話だが、他の教科や科目だって似たようなものである。
つまり、大多数の大人は得意分野だけで勝負し、苦手な科目は卒業レベルに満たないまま、平気な顔で学校を卒業している。
これを「逃げ」と言わずに、何と呼ぶつもりなのだろう?
「戦略的」とか「要領がいい」とでも思っているのだろうか?
このような卒業認定偽装とも呼べる不祥事に比べたら、水泳の授業への参加ボイコットなど屁みたいなものである。
・中止できるのにあえて続ける者の責任
私が先の記事を書いたのは今から3年前の2011年である。
当時はコロナ渦だったため、日本全国で水泳の授業が中止されていたこともあり、私自身、そこまで危機感もなく、過去の出来事を冷静に振り返っていた。
そして、水泳の授業は満員電車と同様に、コロナよりも先に滅びて欲しいと思っていた。
ところが、水泳も、痛勤電車も、コロナが収束に向かうに連れて、ゾンビのように蘇り始めた。
世の中は確実に悪い方へ動いており、この流れには断固として抗わなくてはならない。
今回の高知市の事故は、小学校が水泳の授業を中学校のプールで行ったことが原因だったのだが、そもそもは小学校のプールが老朽化のために使えなかったことで、小学生には深すぎる中学校のプールを使わざるを得なくなった。
このご時世、老朽化したからと言って、どの自治体も簡単に予算を投じるわけにもいかない。
そこで、近くにある中学校や民間のプールで授業を行っている学校は多いようだが…
そもそも、水泳の授業はそんな手間をかけてまで行う価値などあるのか?
コロナ渦は2年程中止されていたが、その間は水泳の授業がなくて困ることなんて何かあったのだろうか?
少なくても、私の周りでは、
な~んにもなかった。
昨年、この記事で取り上げたように、函館市ではバスのドライバー不足により、プールがない学校の児童の送り迎えが出来ず、すべての学校で水泳の授業を中止した。
これは素晴らしい判断である。
水泳の授業など、そんな人手も時間も金もかけて断行するに値しない。
高知市は今回の事故によって、すべての市立の学校で今年の水泳の授業は中止になった。
プール小4死亡事故受け、高知市立の全60校で今季の水泳授業中止 [高知県]:朝日新聞デジタル (asahi.com)
死者が出なければ動かないのは何とも情けないが、先述の函館市の件も同様に、水泳の授業は決してお上からの押し付けで行われるものではなく、市の判断で中止できる。
というわけで、水泳を行い続ける市町村は、中止できる権限があるにもかかわらず、中止しないのだから、相応の責任を負う必要がある。
彼らにはこんなことを言いたい。
現在行われている水泳の授業で死亡事故が起きたら、お上の責任ではなく、あなたの責任です。
ついでに、水泳のトラウマが原因の不登校も。
その咎を負って、キャリアも、地位も、退職金も、老後の安心もすべて失う覚悟がある人だけが、水泳の授業を続けてください。
「最近の子どもは命の大切さを理解していない」などと嘆く大人は多いが、少なくとも、このように子どもを命の危険に晒している人間には、命の大切さなど口にする資格はない。
さて、これまで「水泳の授業には何の価値もない」と言い続けたが、それは撤回したい。
記事を書き終えたら、水泳の授業にも子どもたちにとって役に立つものがあることに気付いた。
それは、危険なことや嫌なことをはっきりと断る勇気を身に付ける機会があることである。
これはなかなか貴重な体験である。
それこそが、水泳の授業に残された唯一の価値と言えるだろう。