どうしても結婚したい人へ贈りたい3つの言葉③:結婚への高望みは多様性を容認しない社会に過剰適応した末の悲劇である

前々回から、どうしても結婚したい人へ贈りたい3つの言葉シリーズをお送りしている。

今日はその最終編となる。

本日のテーマはこちら。

:結婚への高望みは多様性を容認しない社会に過剰適応した末の悲劇である

この記事によると、婚活女性の6割が結婚相手に対して「年収700万円以上」を希望しているらしい。

婚活女性の6割が”最低700万”という理由 – 記事詳細|Infoseekニュース

もちろん、そのような高収入の独身者は例外中の例外であり、この希望を「非現実的で高望み」だとして多くの批判がある。

だが、「年収700万円を稼ぐことがどれだけ大変か分かっているの?」という稼ぐことの大変さはこれでもかと語られる一方で、「年収700万円では一体どの程度の暮らしになるのか」についてはあまり語られない。

こちらの記事によると東京で暮らす場合は世帯年収700万円でも裕福とはいえず、住まいを埼玉に構えても、年収600万円では「人並の生活」を送ることも難しいらしい。

JJ世代が結婚相手に年収700万円を求めるのは、案外正しい│日本経済のこれから (poverty-japan.net)

埼玉で人並みの生活をするには30代で月収50万円が必要という衝撃│日本経済のこれから (poverty-japan.net)

この記事を読んだ時は驚いたが、どうも教育費に金がかかり過ぎることが原因のようである。

たしかに、日本は親が子どもの教育費を負担することが前提となっているため、家庭の支出が大きいことは容易に想像できる。

OECD、2020年版「図表でみる教育」を発行:教育とICT Online (nikkeibp.co.jp)

一応、政府も「このままではいかん」と思って、無償化制度の実施に着手している。

高等教育の修学支援新制度:文部科学省 (mext.go.jp)

・教育費の増加はもう手遅れ

だが、個人的な意見を言わせてもらうと、「教育費の増加」という問題はもう手遅れだと思う。

というのも、これまでに「親が払うべきもの」だとみなされ膨れ上がった「教育費」の中には、大学の学費のようなものだけでなく、元々は娯楽に過ぎないものが大衆化した結果、必需品となってしまったものが少なからず含まれているからである。

具体的な話をしよう。

私が東京へ出てきて驚いたことのひとつに、「中学受験は金持ちの道楽ではなく、子どもを持つ親ならば当然のように用意すべき選択肢だとみなされている」ということがある。

これが高校、大学なら分からなくもないが、中学校は義務教育であり、一部の例外的な生徒は別かもしれないが、なぜ、平凡な家庭や能力の子どもが私立の学校へ通うことを考えなくてはならないのだろうか?

上京後初めて働いた職場の上司(店長)の話は今でも印象に残っている。

彼には当時小学四年生の一人息子がいた。

その子は特に勉強が得意なわけではなく(むしろ苦手)、電車とゲームが好きなごく普通の小学生だったのだが、母親がどうしても私立の中学校へ通わせたいとのことで連日、進学塾へ通わせていた。

父親である店長は学生の時に勉強熱心だったわけではないし、大学を卒業したわけでもなく、本人の意志も尊重して、中学受験には消極的だった。

彼の妻が息子をどうしても私立の学校へ入学させたかった理由、それは…

理由:「公立の学校だと同級生からいじめられるから!!」

は!?

この人は一体、どこの国に住んでいるのでしょうか?

私にはこの国の公立中学校が、「全く問題がない」とは言わないが、今の所、生徒の過半数が登校を拒否するほど治安が悪く、多くの教員が保護者から賄賂を受け取ることで成績を改ざんするほど堕落しているとは思えないのだが…

今から10年ほど前に、近畿地方の中学校で発生したいじめ自殺をきっかけに「いじめ問題」がマスコミでクローズアップされていた。

その時も、彼女と同じように「私立の学校は公立と違っていじめがないから安心」という旨の発言をする人があった。

だが、当時は有名なお嬢様学校に通う某有名女優の娘が集団いじめの主犯者であったり、夏の高校野球の大会で奮闘していた東北地方の強豪校でのいじめ(しかも、学校側は被害者の生徒を退学させることで隠ぺいを図っていた)が報じられた。

そのため、「私立の学校にはいじめがない」という主張は全く事実ではない。

これは私の推測だが、彼女は「自分の息子を私立の中学へ通わせる」ことに大した目的はなく、通わせること自体にステータスを感じているのだろう。

「ウチの子は私立の学校に通うようなエリートであり、それが母親である自分の成果なのだ!!」と。

もしくは、自身が果たせなかった、一流大学に合格し、大企業へ就職するという夢を子どもに実現させることで、自分も疑似的に階級移動した気分になりたいとか。

このような目的で費やされるお金は、名目こそ「教育費」であるが、実質は「(親の)娯楽費」である。

中学校の学費だけではない。

その学校の入試対策のために通う塾にも莫大な費用がかかる。

ちなみに、先ほど紹介した元上司は夏のボーナスが夏期講習のために全額飛んだらしい。

また、金さえ払えばフリーパスで、おおよそ「高等教育」と呼ぶに値しないFランク大学や、卒業後に学費の回収が見込めない専門学校の学費も同じようなものである。

これらのすべてを「教育費」とみなしていたら、金などいくらあっても足りるはずがない。

それらの出費をすべて公的支援で賄うことは当然無理だが、元々は親の自己負担であったことや、「子どもの教育のため」という大義名分がある以上、不公正な競争を防止するために廃止することもできない。

アメリカに「軍産複合体」という言葉がある。

軍事とは本来、政治によってコントロールされなければならないのだが、アメリカでは軍が膨大化したことで、経済的に多くの利害関係者が生まれることになった。

その結果、戦争を避けたり、終わらせようと考えても、政治の力だけではコントロールできなくなってしまった。

日本における教育費の莫大な家計支出も同じようなものである。

「子どもの教育費は親が負担するもの」という前提の下、そこに群がる教育産業は肥大化を続け、「親が負担すべき当然のもの」はいつの間にかとんでもない額になり、もはや教育行政が変わったところで解決できる問題ではなくなってしまったのである。

・無責任な「共働きすればいいじゃないか」論

少々話が脱線したが、話を戻そう。

この社会では教育費(多くが「教育費」と呼ぶべきが疑問だが)を家庭が負担しなくてはならない以上、結婚相手に高収入を求めることが譲れないのは必然である気がする。

ただし、一点だけ注意が必要である。

先ほど取り上げた、「ギリギリの暮らしである年収700万円」という数字はあくまでも「世帯年収」である。

つまり、共働きであれば、相手へ期待する年収もそんなに高くなる必要はないのでは?

この期に及んで、男一人ですべての世帯収入を得ることは現実的ではないのだから、その方が賢明である。

はい。その通り。

それは正論です。

以前の私もそう考えていました。

しかし、それは見事なまでの机上の空論だった。

この記事で指摘したことだが、かつての上司が、夫一人がすべての生活費を稼ぐのではなく、夫婦二人で力を合わせて家計を支える共働き家庭を支持する発言をしていたことがあった。

その発言自体は賛成なのだが、問題は彼が男性正社員の部下に対しては、妻がいることを前提にした長時間労働を課し、女性の正社員に対しては「家庭のことばかり優先する人は要らない」と暴言を吐いて、部署への受け入れ拒否する人物だったことである。

いや、あんたがさっきまで見せていたリベラルで進歩的な態度はどこへ行った?

その姿勢はおおよそ仕事と家庭を両立できる共働きを認めているとは言い難かった。

そんな人間が「これからは男の収入に依存するのではなく、女性も家計を支えるべきだ!!」とほざいても何の説得力もない。

だが、これは一人の人間の身勝手さではなく、社会全体の空気を代弁している気がする。

これは労働環境だけではない。

今の日本社会は

「親が!! 親が!!」

の大合唱で、過剰なまでに親(とくに母親)にケアを求め、それができなければ「無責任に子どもを作るな!!」と罵倒される。

それはとてもではないが、フルタイムで正社員として働きながらできる水準ではない。

そうすると、たとえ現実的に困難であると分かっていても、結婚相手にすべての収入を期待して、自分は家庭に留まりたいという結論に行き着くのは自然である気がする。

・本当に妥協できないのは誰でしょう?

今のシステムを前提にしている限り、「年収700万円を稼ぐ相手じゃないと結婚できない」というのは高望みであっても、わがままとは言えない。

このような傾向は収入面以外にも見られる。

「結婚相手は絶対に20代の女の子じゃなきゃ嫌だ!!」という男の主張も、自分に自信が持てず、プライドを絶対に脅かさない相手を求めるキモいロリコンは別かもしれないが、出産や子育てを任せる相手を求めているのだから、体力のある若い人が好まれることは自然である。

親がすべての子育ての責任を負う社会でなかったり、そもそも、子どもを産まない家庭を容認する社会であれば、若い女性に執着する必要はない。

また、「結婚は一生の誓い」などと言って、結婚生活が上手く行かなかった場合も、離婚することが(法律だけでなく、社会規範として)認められないのであれば、結婚相手に慎重になることは当然である。

つまり、「結婚相手への高望み」とは、経済性も親密性も同時に満たさなければならない「近代家族」という特定の家族像しか認めない社会への過剰適応した結果なのではないのか?

ここで、前提を変えてみよう。

もしも、結婚した後も、親から独立したり、自分たちで家を買う必要がなかったら?

もしも、親がすべての教育費を負担する必要がなかったら?

もしも、フルタイムで働きながら子育てができたら?

もしも、子どもを産まない家庭を容認できたら?

もしも、一度結婚した相手と一生添い遂げる必要などなかったら?

このような、自由で多様な家族を認めていれば、結婚相手にあれもこれもと高望みすることなく、もっと気軽に付き合えて、単純に「好きだから一緒にいたい」とか、「お互いに一緒に暮らした方が経済的に安上がりだし、生活が楽だから」といった理由で結婚ができる人は増えるのかもしれない。

逆に言えば、そのような結婚を容認できない人間に未婚や少子化を嘆く権利などない。

結婚への高望みの結果、未婚者が増えることは、個人のわがままではなく、そのような多様性を認めない社会の成れの果てなのである。

婚活に力を入れているものの、高望みがやめられず、結果的に結婚ができなくなる人たち、通称:「婚活廃人」(こんな言葉があるのかどうかは知らないが)を強欲なモンスターのように軽蔑し嘲笑う人は珍しくないが、彼(彼女)らは多様性を認めない社会が生んだ被害者なのである。

・大事なのは生きること

今日まで3回に渡って、「どうしても結婚したいけど、できない!!」と嘆いている人へ贈りたい3つの言葉をお送りしてきた。

今回の企画で、私が一貫して言いたかったことは「絶対に自分を守ってくれるような美しい家族」というのは、実態ではなく作為的なイメージであり、それに過度に期待することは大変危険であるということ。

近代家族という呪縛から逃れずして、先に進むことはできない。

だが、誤解してほしくないのは、それは「完璧な家族という幻想を捨てて、妥協した結婚をしろ」という意味ではない。

なぜなら、各々が理想の親密な関係を築くことができれば、「結婚」や「家族」という形にこだわる必要はないからである。

結婚したり、家族を持つことは手段であって、目的ではない。

過去に推薦書として紹介した「結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ 筒井淳也(著)光文社」という本がある。

その中で頻繁に「食べていくこと」という表現が登場する。

古今東西どの社会においても、結婚や家族のベースはその社会で「食べていくこと」であり、裏を返せば「食べていくこと」ができるのであれば、結婚という形にこだわる必要は全くないのである。

私はこれを「生きていくこと」という言い方に置き換えて使用したいと思う。

結婚とは、人生を経済的や精神的に豊かにするためであり、その理由や事情は人それぞれであるし、結婚という手段を取らなくても、頼れる仲間がいて、豊かな人生を送れるのであればその必要はない。

あくまでも大事なのは「立派な家族を作ること」ではなく、「生きること」なのである。

・空っぽの器のことを「絆」とは言わない

この意見に対して、

「結婚をしないような半端者は本気で人を愛していない!!」

「責任を取る証として家族になることが必要だ!!」

と食いついてくる人間がいるだろう。

そんな人たちへの反論としては

「空っぽの器のことを絆とは言わない」

と言っておこう。

「結婚相手が欲しい!!」

「家族がいればいつも自分の味方でいてくれるはずだ!!」

彼らはそう信じて疑わないのだが、彼らにとって重要なのは「夫(父)・妻(母)・子」という社会的な役割、つまり「家族」という名の「器」であり、それは人と人の間にあり、「どうしてもこの人じゃなければダメ」という「絆」ではない。

立場を超えても付き合いが続く関係が「絆」ではないのか?

当然、絆の形も多種多様である。

「結婚!! 結婚!!」と言っている人にはその視点が欠如している。

彼らは社会的な立場を与えてくれる器さえあれば、中身は空っぽでもいいのである。

また、「責任」などと大層なことを宣っているが、逆に言えば、彼らは扶養義務のような法的な鎖で繋がれ、制度として強制されなければ、家族のために行動することがないのだろうか?

自分の意志で行動できないくせに何が「家族の絆」なのだろう?

結局、私が今回のまとめとして言えそうなことは「『理想の夫や妻』を見つけるのではなく、目の前の人を大切にして生きていきましょう」という当たり前のことでしかなさそうである。

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