「地元暮らしには金はなくとも絆がある」という茶番①:若者の就職編

これまで地元について語る記事を何本か投稿してきた。

これらの記事はすべて私の経験と皮膚感覚で書いたわけだが、昨年の12月に投稿した記事で紹介した「日本社会のしくみ」という本の中で取り上げられていた日本社会の3つの生き方のおかげで論点がはっきりとしてきた。

・地元暮らしの良さとは何なのか?

「男性であれば年功序列・終身雇用の会社で働き、女性であればそのような男性と結婚して添い遂げる」といった日本社会の生き方は「大企業型」によって規定されているが、「地元型」には「大企業型」とは違う良さがある。

たとえば、収入はそれほどではないが、親から引き継いだ持ち家があり、「通勤地獄」や「待機児童」といった問題は存在しない。

また、人間関係が豊かで、友人や家族の助けを借りれば、介護や育児のようなケア労働を有償で購入する必要はなく、米や野菜のおすそ分けがあれば食費を抑えることもできる。

このような貨幣に換算されない社会関係資本によって、所得の低さを補うことができる。

言い方を変えれば、お金の豊かさはなくとも、心の豊かさがあると言える。

非常に耳障りのいい言葉であるが、私の地元は決してそのような社会ではない。

これまでにも地元のことは散々ディスってきたが、「大企業型」「地元型」というモデルを通して、そう考える理由を改めて2つの視点で取り上げようと思う。

逆に言えば、「地元(田舎)の暮らしには金の豊かさがなくとも、心の豊かさがある」と主張する方は今回私が提示する2つの課題をクリアしてからにしていただきたい。

・①:高校中退者を「地元の仲間」とみなすことができるのか?

「大企業型」は年功序列と終身雇用の中で働くため、学卒時に新卒一括採用で就職することになる。

それは「大企業型」などと呼ばなくとも、多くの人が「日本社会ってこんなものだよね」と想像していると思われる。

だが、一点だけ注意が必要である。

暗黙の了解というか、公然の秘密というか、ここで言う「就職」とは高卒にせよ、大卒にせよ、世間に名の通った一流企業、もしくは公務員としての職に就くことである。

私の地元である西日本の田舎町にある従業員10人程度で細々と操業をしている零細企業は間違っても、この「(まともな)就職先」という言葉には含まれない。

だから、そのようなライフコースが「大企業型」と呼ばれるのだ、と言えばそれまでなのだが…

そのような言葉遊びはともかく、「大企業型」ではない「地元型」の良い点は、そのルートから漏れた人たちに居場所を与えることであると言える。

たとえば、「○○さん家のバカ息子(娘)が高校を中退した」と聞いたら、「そう言えば、ご近所の××さんの店は最近人手が足りないって言っていたから、そこの手伝いをしたらいいんじゃない?」と就職先の斡旋をして、学歴社会から逸脱した若者を社会で面倒みる。

「大企業型」から排除された人を包摂するのが「地元型」の良さであり、「大企業型」のような学歴社会の真似事をする必要などないではないか。

・「応募条件:高卒以上」が意味するもの

そのような地域の繋がりが「地元型」の良さなのかもしれないが、私の地元にはそのような「温かい世間」など存在しない。

というよりも、全く逆に、そのような人物に対する差別意識に溢れている。

実例をいくつか挙げよう。

このブログでも頻繁に登場している元同級生で、私が20歳前後の時によく遊んでいた人物(この記事で登場した仮名:カンダ)がいる。

彼は中学卒業時に就職したため、高校へは進学していない。

私が中学卒業後に彼と初めて再会した時は19歳の時である。

当時の彼は無職で自動車学校へ通っていた。

そんな状況の彼とお互いの近況報告をするとこんなことを嘆いていた。

元同級生・カンダ:「やっぱり、中卒じゃなかなか仕事は見つからない。せめて、普通科の定時制高校だけでも出ていればよかった」

応募資格に「高卒以上」と書かれているような会社の求人はおろか、学歴不問と書かれている小規模な会社の求人でも、中卒というだけで、門前払いされることが多かったようである。

彼は料理が得意で、中学卒業後もその道を進んだ。

おそらく、それらの求人で問われている「高卒」の資格とは、工業高校や商業高校で学ぶ職業能力のことではない。

ましてや、数学の微分積分や英語の過去完了仮定法のような学問としての知識でもない。

それは「高校を卒業した」という社会的な身分である。

「大企業型」の社会(企業?)秩序にとって学歴は重要な要素だが、それは「何を学んだのか?」という専門学位ではなく、あくまでも身分として区分けされるためのものである。

それを「地元型」と思われる中小企業が求めてどうするのだろうか?

逆に彼のような「大企業型」のはぐれ者を、なぜ「地元の仲間」だと思うことができないのだろうか?

自分たちは「大企業型」と同等の高い給料も福利厚生も提供できないのだから。

・学歴社会からのドロップアウトは社会への背信

「中卒」という学歴社会の下位者に対する差別よりも、数倍おぞましいのは「中退」という途中でドロップアウトした人間に対する敵意である。

「地元型」の生き方に忠実であれば、彼らも「大企業型」から逸れた「地元の仲間」として救済しなければならないが、これまた全く逆に社会への背信者としての冷たい視線が向けられる。

「途中で学校を辞めるような奴は仕事も同じように投げ出すに違いない」

「履歴書に空白期間がある人間を社会が受け入れるはずがない」

と、見事なまでの「大企業型」気取りの罵詈雑言を浴びせられる。

これは決して私の想像で言っているわけではない。

このブログでよく登場する小中学校の元同級生(この記事で登場するマサル(仮名))は専門学校を中退したのだが、買い物先で偶然再会した時は明らかに私のことを避けていた。

話を重ねるうちに、彼は半年で学校を中退して地元へ戻り、就職活動を始めたが、専門学校中退の学歴がネックとなり職探しは難航したことが分かった。

「繋ぎの仕事としてアルバイトを…」と思っても、それすら上手くいかず、しばらくの間は自動車学校へ通い、時期を待つことにした。

また、この記事で登場した大学を中退した元同級生は辛うじて、親族のコネに引っかかり職に就けたものの、私たちのことを避けていた。

おそらく、彼も同様に地元で就職活動をしていて、同じようなことを言われたのではないだろうか?

まあ、それが、「大企業型」流の「社会の厳しさ」だと言えばそこまでなのだが…

自分たちはそれに見合うだけの「終身雇用」を保障できないくせに。

いずれにせよ、学校を中退して地元に舞い戻ってきた彼らに対して、「こっちに戻って来たんだ」というような歓迎のムードなどまるでない。

地縁とは無縁で「他所の世界」に存在している大学や専門学校の中退でさえこんな調子なので、地元の一部でもある高校を中退などしようものなら、包摂どころか、それこそ、人としての道を踏み外した「外道」として世間から迫害されかねない。

マスコミに大々的に報道されるような重大な事件を犯した場合、本人だけだなく、その家族も地域から様々な嫌がらせを受けて、一家諸共地域から追放される。(参考文献:日本の殺人 河合幹夫(著)

さすがに、「それと同じような制裁が待ち構えている」というのは大げさだが、「地元のつながり」から徹底的に村八分の憂き目に会い、冷たい視線で避けられることは火を見るより明らかである。

学歴社会という「大企業型」の印籠にひれ伏し、尻尾を振り、自分たちの仲間を見捨てる愚かな姿は何と滑稽でバカらしいのだろうか。

ちなみに、これは非正規労働者に対しても同じである気がする。

ただでさえ地方には正規雇用の仕事が乏しいのだから、「正社員じゃなければダメだ!!」などと、ありもしない理想像を追いかけるのではなく、正規だろうと、非正規だろうと、自営業だろうと、同じ地域で生きる仲間同士で寄り添い合って生きるべきではないのか。

にもかかわらず、頑なに正規労働者しか「社会の一員」だと認めない。

そんな人間が「地元の絆」などと口にするのはお笑いである。

自分たちはそれに見合うだけの…(以下自粛)

一応事実だけ確認しておくが、私の地元のことをボロクソに貶したが、そうでもない人情味溢れる会社、すなわち地元型の会社も存在はする。(詳しくは関連記事を参照)

だが、そのような「大企業型」ではない会社が「まともな就職先」とはみなされていないことに、「地元型」の絆など幻想でしかないことを感じるのである。(全然、フォローになっていない気がするが…)

次回へ続く

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