前回は結婚の足枷になる(と判断された)友人を切り捨てた結果、理想の結婚相手どころか唯一の味方を失ってしまった女性の話をしたわけだが、そこでは、もっぱら別れを告げる側(厳密に言えば、別れるように要求したのは彼女の母親だったが)の視点で物事を見てきた。
だが、かつて私は別れを告げられた側の立場を経験したことがある。
しかも、彼とまったく同じように、相手の母親から通告された。
今日はその時の話をしよう。
・中学時代の遊び仲間
これは私が中学生の時の話である。
私にはクロダ(仮名)という同級生がいた。
彼と出会ったのは中学1年生の時で、特に部活や出身小学校が同じだったわけではないが、クラス内の立ち位置(今風の言葉では「スクールカースト」)が近かったため親しくしていた。
出会ったのが中学校に入学したばかりの頃だったこともあり、小学生の時と同じように、仲良くなったら放課後や休日に一緒に出かけたり、お互いの自宅で遊ぶという有り触れた付き合いをしていた。
この記事で紹介した通り、小学生の時の私はアウトドア派だったが、中学生になると社会から抑圧されたこともあり、引きこもるようにゲームの世界に入り込んだ。
そんな私にとって、豊富なゲームが揃っている彼の家はとても魅力的な遊び場だった。
今でも、中学時代の思い出の場のひとつは彼の家である。
ちなみに彼は私と同じく塾など一切通っていなかったのだが、テストの成績は常に(私とは比べ物にならないほど)優秀だった。
そのため、出来の悪い私とは対照的に高校は進学校へ進むことになった。
私は全くと言い程、受験勉強に取り組まなかったが、さすがに人の邪魔をするわけにはいかず、彼が受験勉強に熱を入れ始めてからは彼の家から遠ざかるようになった。
・進む道が違う?
中学卒業後、クロダは希望の高校へ進学することになった。
学校で顔を合わせることはなくなったため、彼と付き合う機会は減った。
それでも以前のように彼の家を訪れることは珍しくなかった。
そんな関係が途絶えたのは高校1年の3学期だった。
いつものように彼の自宅でゲームに興じていると彼の母親がやって来て、私へ撤退命令を告げた。
最初は彼は最近成績が落ちてきて云々かんぬんというような理由であり、それ自体は私を家から追い出す理由としては真っ当なのかもしれないが、話の流れでこんなことを言われた。
彼女が悪意を持ってこんなことを言ったのかは定かではないが、今でもこの時のことを忘れることはできない。
彼は進学校に通い、私は職業高校に通っていた。
たしかに、想定される卒業後の進路は別であり、彼女が「彼と私は進む道が違う」と思うことは妥当なのかもしれない。
だが、そのような利害関係の域を超えて付き合う関係が「友達」ではないのか?
以前から、少々口うるさい方(失礼!)だと思っていたため、彼女からも「歓迎されたい」などとは思っていなかったが、こうも露骨に敵対意識を向けられたのはショックだった。
・「友達」とは「悪友」の意味なのか?
その日以来、私がクロダの家で一緒に遊ぶことはおろか、彼に会うこともなかった。
今時の高校生は、たとえ親に反対されても、携帯で密かに連絡を取り合うことくらいはできるのかもしれないが、当時は彼も私も携帯を所有していなかったため、完全な疎遠となった。
あの時、彼の母はなぜ息子に付きまとう元同級生の私を疎ましく思ったのだろうか?
個人的に私のことを嫌っているのであればそこまでの話であるが(それはそれで辛いけど…)、彼女が私に向けた言葉からその理由を探ってみたいと思う。
当時の彼と私は別の学校に通っており、同級生だった中学生の時のような利害関係はない。
彼が私と付き合ったことで得になることは何もないし、逆も然りである。
裏を返せば、そんな損得感情などなくとも純粋に一緒にいること自体が「楽しい」と思うから付き合っていたのである。
私は今でも「友達」という関係はそのようなものだと思っているが、彼の母に限らず、そうではない考えの人も珍しくないことも分かっている。
彼らにとっての「友達」とは同じ学校に通う同級生や、仕事上のつながりがあることが前提で、そのような人たちと私生活でも付き合うことが「友達になる」という意味なのであろう。
そうでない相手と私的領域で付き合うことは、何も得になることを生まない「無駄」なことである。
要するに、利害関係者(もしくは将来の関係者)以外の友人は、何の生産性もないことに時間を費やすだけでなく、すでに獲得した地位から転落する道へ誘惑する可能性もある危険な遊び仲間、すなわち「悪友」とみなしているのだろう。
そう考えると、前回の記事でハシモト(仮名)の母が、娘の友人であるマツイ(仮名)のことを排除しようとしたことも自然である。
結婚前の娘が結婚する気がない男と付き合うことは、本人がどんなに幸せを感じても、その男の存在が「結婚として家庭を持つ」という社会的な地位を獲得することを妨げる可能性がある。
「結婚は社会的ではなく私的な領域ではないのか?」と思われる方もいるかもしれないが、彼らにとって、結婚とは好きな相手と一緒にいることではなく、経済的な基盤を築き、世間に顔向けできる立派な社会人であり続ける手段であるため、ここでは「公的領域」だとみなすことにする。
…と、今でこそ、冷静な分析をしているが、当時は、息子を大学へ行かせるつもりの母親が、高卒で働くであろう私を「君とは住む世界が違う」と見下し、寄り付かせないように企てているかのような屈辱を感じたことが、彼から遠ざかった一番の理由だった。
もしかしたら、マツイもこのような気持ちだったのかもしれない。
ただ、私とクロダが幸いだったのは、前回の二人とは違い、お互いに唯一の存在ではなかったことである。
彼は私の唯一の友人ではなかったし、私は彼にとってただ一人の友人ではなかった(たぶん)。
そのため、付き合いがなくなったとしても、(少なくとも私の場合は)精神的な拠り所を失うことはなかった。
・周囲を利害関係者で固めた結果、輝かしい未来を手にすることはできたのか?
話は私たちが20歳になった数年後まで飛ぶ。
当時の私はクロダのことをほとんど忘れて、高校卒業後も地元に残った(もしくは一度離れた後に帰還した)仲間たちと楽しく過ごしていた。
そんな中、仲間たちの会話で彼のことが話題に挙がると、この記事に登場した元同級生マサル(仮名)がこんなことを言った。
私はこの発言に驚き、彼にクロダの詳細を尋ねた。
彼によると、クロダは第一希望だった大学へ入学できなかったため、滑り止めで受けた別の大学へ入学したものの、1年の秋に退学して、今は実家に戻って親戚の家業の手伝いをしているらしい。
ちなみに彼はクロダと同じ学校に通っていたため、高校の時の話も教えてくれた。
クロダは高校でも、受験勉強に専念するために部活を辞めており、(彼が知る限り)高校時代から付き合いがある友人もいないようである。
その話を聞いた私は唖然とした。
部活も悪友も切り捨てて、周囲を利害関係者のみで固めた結果がこれなのか?
望んでいた未来を手にすることができなかったあげく、友人が一人もいなくなったとは何とも皮肉である。
だが、私は彼の家を訪れたくなった。
あの時は立場の違いによって隔絶されたが、今の彼の社会的な地位は私と相違ないはずだ。
それが嬉しかった。
別に恵まれた地位の人間が自分と同じ場所まで没落したことの喜びではない。
遠くへ旅立った人が地元へ戻ってきたような安心感と、純粋に「昔と同じような関係に戻ることができるのでは…」とささやかな期待があった。
そう思って、一度彼の家を訪問したのだが、応答はなかった。
家の中からは灯りが漏れていたのだが…
ひょっとすると居留守を使われたのかもしれない。
私がよほど嫌われていたのか、もしくは彼が大学を中退して、親元へ戻ってきたことを恥じて、そんな姿を見られたくないと思ったのかは分からないが…
半年後、私たちが出席する成人式が執り行われたが、そこにも彼は姿を現さなかった。(といっても、私も式には出席しなかったため、この情報もマサルの報告によるものである)
彼とは10年以上会っていないため、今どこで何をやっているのかは一切分からない。
・求めていた人は利害関係者ですらなかった
今日も前回に続き、母親によって友人から引き裂かれた人物の話をした。
本文の中で、彼女たちは「自分に利益をもたらさない相手と付き合うことは無駄」だと考え、友人を排除したのだと推測したが、別の考えも思い浮かんだ。
前回の彼女のように結婚を例にすると分かりやすいのだが、たとえ全面的に養ってくれる相手でなくても、彼と付き合いを続けていれば、経済的に行き詰った時に助けてくれる可能性もあったため、彼は彼女にとっては経済的な利害関係者だったのかもしれない。
だが、彼女の母親はそんな相手でも「足枷」だと判断した。
2年ほど前に「相手はいないけど結婚はしたい!!」と願う人たちの記事を書き、その中で、「一人では経済的に自立した生活が送れないから」と「既婚というステータスが欲しいから」という2つの理由を紹介した。
「娘の将来を心配している」と言って結婚相手を求めていたが、彼女の行動は限りなく後者に近かったのではないか?
つまり、「少しでも経済的に支えてくれる相手などではなく、世間に顔向けしても恥ずかしくない『ちゃんとした』家庭を築ける相手でなければならない」のだと。
「自分の娘はこんな位の低い相手と付き合うような人間ではない!!」
彼女の中にこのような階層による差別意識があったのであれば、それは進学高校に通うクロダの母が職業高校という低偏差値の学校に通う私を遠ざけようとした行動とも一致する。
要するに「見栄」なのだが、その結果、彼女らは自分の子どもに一体何を残せたのだろうか?
子どもの友達をブランド品であるかのように選別し、足枷であると勝手に判断した相手を容赦なく切り捨てたことで、本人たちにとっていい影響を与える相手が見つかったのだろうか?
人生を着飾るためではなく、上手くいかない時に支え合ううための相手が友達なのではないか?
もしも、あなたがこの話を聞いて何か思うことがあるのなら、たとえ何の利益ももたらさず、社会的な評価が芳しくない人物であっても、「絶対に自分の味方でいてくれる」と信じることができる人を大切にしてもらいたい。