今こそ始めよう「絆再発見」キャンペーン

2ヶ月ほど前の2月中頃に福島県沖を震源地とする地震が起きた。

私が住んでいる東京でも、震度4程度の揺れがあった。

その日以降も、(規模は小さいが)立て続けに地震が起きた。

今年は2021年であり、2011年の東日本大震災から10年の節目を迎えた。

当時の震災復興のスローガンは「絆」だった。

そして、全くの偶然だが、前回のテーマも「絆」であり、その構成を練っている際に本日のテーマが頭に浮かんだ。

・今こそ「絆」の大切さを知ろう

東日本大震災の直後は次のような言葉をよく耳にした。

311を境に日本は変わった!!」

「あの日から日本人の価値観が一変した!!」

「あの震災で絆の大切さを再認識したことで、これからは経済的な豊かさではなく、心の豊かさを大切さにする社会になった!!」

だが、私自身そのようなことは全く感じなかったし(理由については最後に触れる)、10年経った今でも、この社会には「金の切れ目が縁の切れ目」であるような人間関係ばかりで、お金よりも「絆」を大切にする社会になったとは思えない。

ただ、誤解しないでほしい。

私はそのような考え方自体に冷ややかな態度を取っているわけではない。

むしろ、できることなら、ぜひともそうなってほしいと思っている。

というわけで、私もその潮流に微力ながら協力させてもらうべく、絆の大切さを実感するためのキャンペーンを2つほど考えてみた。

・①:過剰にへりくだるビジネスマナーをやめにしよう

「絆」とは何か?

これについては各々によって考えが異なるが、震災絡みのことでは「助け合い」のことではないだろうか。

たとえば、寄付金を送ったり、被災した避難者を受け入れたり。

震災に限らず、人は無力な状態で他人の助けを借りる時は、たとえ善意で行っているものであっても「こんな自分が人様に恵んでもらうなんて申し訳ない」、「迷惑ばかりかけて申し訳ない」と卑屈になってしまう。

だが、「お互い様」という言葉があるように、困った時に助け合うことは当たり前なのだから、人の施しに対して「迷惑をかける」とか「申し訳ない」と思うことはやめにすべきである。

というわけで、この考えを日々の生活で実感するための「絆」キャンペーンを行おう。

私がそのキャンペーンの展開に最もふさわしいと考えているのが「過剰なビジネスマナー」を取りやめることである。

先ほど取り上げたような人の助けに対する卑屈な感情を表す「申し訳ない…」「迷惑をかけてしまった…」という言葉はビジネスシーンでよく耳にする。

「お時間をいただき申し訳ございません…」

「お忙しい所ご迷惑をおかけしました…」

だが、山に籠って正真正銘「一人で」仕事をやっている人はともかく、ほとんどの人は誰かの助けがなければ仕事をすることなどできない。

だから、「人の助けを借りて当たり前」であり、それを「迷惑」などと考えることの方が誤りである。

というわけで、「申し訳ございません」「ご迷惑をおかけしました」などと過剰にへりくだる(卑屈になる)ビジネスマナーをやめにしてみよう。

そのような無駄を排することで、生産性向上へもつながるはずである。

私自身はそのような考えであるため、職場では「ありがとうございました」と感謝の意を表することはあっても、よほど自分に非があると思った時以外は「迷惑」とか「申し訳ございません」というような卑屈語は一切口にしないことにしている。

もちろん、この考えに反対する人もいるだろう。

だが、そのような人が考えそうな理屈は

「お前の為にわざわざ時間を割いてやったんだぞ!!」

「時給換算でいくらの仕事をしている俺は、その時間でいくらの儲けを失った!!」

などという金儲けのことばかりであり、そんな「心の豊かさよりもお金の豊かさを選んだ」人間が、「絆」という言葉を口にする資格はない。

・②:見返りがない友達を大切にしよう

「友達」とは損得勘定で付き合うものではない。

友人から食事会に誘われて

「そこで何を議論するの?」

「それに参加することで私に何のメリットがあるの?」

などと言ったら、金輪際「友達」とは思われないだろう。

一緒にいること自体を「楽しい」と感じて付き合う相手を「友達」と呼ぶのであって、そこに目的やメリットなど必要ない。

逆に「友達」だからこそ、得になることがなくても、困った時は助けるものである。

この考えにはほとんどの人が同意するはずである。

しかし、そう思っている人でも、よくよく考えてみると実際には利害関係者としか付き合いがないことが珍しくない。

もちろん、利害関係を通して知り合った人と次第に友情を育む可能性があるのだから、「同僚や同級生とは真の友達にはなれない」というわけではない。

だが、仕事や学校の繋がりが消滅した後も、彼らと付き合う姿を想像できるだろうか?

別に「路上で出くわした見ず知らずの人を自宅で主催するホームパーティーに誘え」と言っているわけではない。

たとえ、離職や卒業した後も、以前と同じようにプライベートで付き合うだけだから、何も難しいことではない。

それができないというのであれば、そこには「絆」など存在していない。

だが、そのような関係は決して珍しいことではない。

以前、林修氏が三浦崇宏氏の考えを引用して、

「人脈なんて言葉を使っているやつはクソ!」

「社会で人脈を作る=人を“金儲けの道具”としか見ていない」

と言っていたが、全くその通りだと思う。

だが、それに気づくのは経済的なつながりを失い、「友達」だと思っていた相手が全員去った後なのかもしれない。

「友達の価値」とは「自分にどれだけの利益をもたらすか」ではなく「存在するだけで無条件に尊い」ものである。

そのことを肝に銘じて、「今の友達とは利害関係が消滅した後も付き合えるのか?」を改めて考えてみよう。

・蚊帳の外だった「絆祭り」

最後に少しだけ震災当時の私の話をさせていただきたい。

これまでも何度か紹介したことがあるが、20歳前後だった頃の私は高校卒業後に地元の友人たちと楽しく暮らしていたのだが、彼らが立て続けに就職して以降、一気に疎遠となり、孤独を感じて過ごしていた。

2011年の東日本大震災はそんな時に起きたのである。

震災直後だけではなく、その後も数年に渡り「絆」というスローガンを耳にすることになったわけだが、当時の私は友人がいないことに悩んでいた。

その上、家でも職場でも「正社員になれ!」としつこく言われ、それはいつしか「正社員でなければ人間じゃない」という言葉に変換されて、この社会には自分の居場所がないという疎外感が付きまとっていた。

復興キャンペーンのCMはそんな状況で目にする機会が多かったのだが、そこで耳にする「絆」という言葉が憎らしくてしょうがなかった。

「就職を機に一切会えなくなる」とか「正社員じゃなきゃ、人間じゃない」みたいな経済の理論にドップリと浸かっておきながら、なにが「絆」だよ…

マザーテレサが家族や友人のような身近な人を大切にできない人間に世界を平和にすることなどできないということを言っていたように、身の回りでは冷たい関係しか築けない人間には「絆」という言葉を口にする権利も、被災者への心温まる支援を考えることもできるはずがない。

私が「絆」という言葉を聞いて脊髄反射的に眉を顰めてしまうのは前回の歪んだ地元の暮らしだけでなく、この時の経験があるからである。

もちろん、あの震災では見ず知らずの被災者に支援をしていた人もいただろう。

だが、「日本人の価値観が変わった」とか「お金よりも人との絆を重視する社会になった」などというのは全くの考え違いであり、私がこんな記事を書いている時点で、結局のところは今まで通り「金の切れ目が縁の切れ目」である社会からほとんど変わっていないのだろう。