前回のおさらい
20歳そこそこで、友人と1年以上疎遠になり、仕事もクビになった私は、実家に居候し続けるアリバイ作りのために自動車学校へ通っていた。
その間は比較的まとまった自由時間ができたので、それまでの悩みと向き合ってみることにした。
私が抱えていた悩みとは「友達が欲しいのだけれども、自分から話しかけることができない」、「誰かと一緒にいたいのだけれども、企業社会のような閉鎖的で息苦しい抑圧的な人間関係に組み込まれるのは嫌だ」という一見矛盾したものだった。
そんな悩みを抱えた私がたまたま手に取った本「『世間』と『空気』」だった。
・「世間」と「社会」
この本を読んで最初に「なるほど」と思った点は我々日本人は「世間」と「社会」という二つの世界を無意識に区別しており、それぞれの相手に対して全く別の振舞いをする傾向があるということだった。
「世間」とは会社、学校、地域などの利害関係者のいる世界。
そして「社会」とは実際に存在はしているが自分には関係ないと思う世界のことで、著者の鴻上尚史氏は阿部謹也氏の研究と自身のオリジナルの考えを用いて、世間は5つのルールで成り立っていると説明している。
①:贈与・互酬の関係:持ちつ持たれつの関係。お中元やお歳暮などお世話になっている人への贈り物。重要なのは個人に対して贈るのではなく、立場に対して贈るということ。
②:長幼の序:先輩後輩や年功序列の関係。
③:共通の時間意識:同じ時間や空間を生きているという共通の認識。ビジネスの場面でよく使う(相手は初対面の人なのに)「お世話になっております」が意味するもの。
④:差別的で排他的:世間のメンバーには気を遣うが、外の世界(社会)には無関心でいること。掟を破った者への村八分。
⑤:神秘性:効果があるのかわからない儀式の信仰。理由はないけど昔からそうしているので同じことを続けること。
このように「世間」とは自分の生活(または自分の将来)と密接に関わっている(狭い世界の)人たちのことである。
一方で「社会」とは契約、個人の平等、個々の時間、合理的な世界で、「社会の人」とはたまたま同じ場所にいるが、自分とは別の世界に属する人のことである。
電車に駆け込んで、周りの乗客を気にせずに仲間の座席を確保するおばさんの行動はこの「世間」と「社会」の使い分けが表れている。
おばさんの連れは彼女にとって「世間」に属する仲間となるので、この人たちのために自分が座席を確保しようと必死になるが、他の乗客は自分とは無関係な「社会」へ属する人なので、この人たちに迷惑だと思われようがそんな視線は全く気にならない。
これが「世間」に属する人と「社会」に属する人に対しての態度の違い。
また、これは私の意見だが、この国では「社会人」と自称している人のいう「社会」とは、この「社会」の意味ではなく、「世間」のことを指しているのだと思う。
・「社会」の人と会話をすることの難しさ
「世間」を生きる相手とは言葉を使わなくてもコミュニケーションを取ることができる(共通の時間意識)。
そのような世界で生きる限り、言葉など持たなくても生活に支障は出ない。
それに対して、「社会」を生きる相手は、自分と違うバックボーンを持つ人間なので、言葉でコミュニケーションを取らなくてはいけない。
だが、私たちはこのような、自分とは違う世界を生きている人と会話をすることが苦手である。
アメリカ人が好みそうなホームパーティーを想像してほしい。
このようなパーティーにはいろいろな立場の人が参加して、それぞれが自由に会話をしているが、私たち日本人にとっては、そこに参加することはかなりハードルが高いことである。
その理由は、日本人は別の世界(「社会」)を生きる人とコミュニケーションを取るという習慣がないので、彼らと話す言葉を持っていないからである。
だから、多くの日本人は「社会」の人を前にして何と言えばいいのかを知らない。
ここまで読んだ私は、自分が感じていた生き苦しさとは、「世間の抑圧」と「自分自身の社会を生きる能力のなさ」なのではないのかと直感した。
まず、友人たちと1年以上疎遠になった件だが、これは彼らが就職し、それぞれが所属する「世間」が生まれたことで、私たちの関係が「世間」から「社会」へと変わった。
しかし、同じ「世間」に生きる仲間として接していた私たち3人は「社会」の人と話す言葉も、関係を継続する技術も持ち合わせていなかった。
というわけで、所属する集団が変わったことで、これまでのコミュニケーションのベースが崩れ、「一緒に会ったとしても、お互いに何を話したらいいのか分からない…」ということになり、次第に会うこと自体に意味がなくなってしまったのだと思う。
また、私が自動車学校で初対面の人と上手く話をすることができなかったのも、自分とは違う世界を生きている相手、すなわち「社会」に属する人に対する言葉を持っていなかったからであった。
・なぜ我々は「世間」を恐れ敬うのか?
ここからは、少しこの本の解説をさせてもらいたい。
この本で扱う「世間」とは江戸時代の農村共同体がルーツとなっており、その当時は「世間」の力が強力に作動していた。
当時の農業は集団農業が主だったため、個人がバラバラなことをやっていては生活が成り立たない。
だからこそ、世間は個人を強く抑制して共同体を守っていた。
個人の抑制と集団への献身は共同体を守るためだけでなく個人の生活を守る手段でもあった。
たとえば、収穫の時期に一人の労働者が病気で倒れて働けなくなったら、その仕事は他の構成員が多く働くことで働き手の不足をカバーしていた。
これは収穫が遅れたら食料が減って村の死活問題になるという共同体のため理由からだけでなく、個人は無理をしてでも働くことが、自分が倒れた時に守ってもらえることにつながるからでもあった。
また、結婚適齢期になっても独身でいる構成員の縁結びに熱心な「世話焼きおばさん」も決して個人のおせっかいで行っていたわけではなく、跡継ぎがいないと村が滅びてしまうから(当時は移動の自由がなかった)という打算があったからであった。
このように当時の「世間の掟」は大部分が「経済的安定」を保つためのものであった。
個人は「共同体(世間)に忠実である限り世間のメンバーから守られる」という「精神的安定」を得られた。
明治以後、部落共同体は解体されて、世間の持っていた経済的安定は崩壊したが、精神的安定の記憶は残っていたため、それが地域共同体へ引き継がれた。
だが、地域共同体はかつての農村共同体のように経済的な理由に基づくものではない。
地域の集まりが悪かろうが、お隣の家のバカ息子(娘)が結婚もせずにプラプラしていようが、農作業ができずに地域が衰退するということはない。
地域共同体が衰退することはある意味では必然である。
一方で「経済的安定」は戦後の企業共同体という形で発展した。
「終身雇用」は「共通の時間意識」と「贈与・互酬の関係」、「年功序列」は「長幼の序」がベースになっている。
このように戦後は会社共同体が「世間」の代表になり経済的にも精神的にも個人を支えるようになった。
しかし、近年は(といっても90年代からのことだが)企業共同体も大きく衰退し、どれだけ企業(=世間)に尽くしても、個人を支えることはできなってきている。
・「世間」は中途半端に壊れている
かつての「世間」は個人を徹底的に抑圧し、個人は共同体の掟に従う限り、身の安全を保障されていたため、当時の人は「世間」は何よりも恐れ敬っていた。
ある意味、「世間」とは神のような存在だった。
ここで疑問が生まれる。
それでは、地域共同体も企業共同体も衰退し「世間」も瀕死状態となった現在は、我々は世間の抑圧から解放されたと言えるのか?
鴻上氏は今の状況は「世間は中途半端に壊れている」と表現している。
かつての個人を支える力は失っているけど、抑圧する力は残っている。
どの共同体でもそうだが、景気の良い時は共同体が個人を守ることを信じて疑わないため、内部の縛りも緩くなる。
ところが、景気が悪くなると、「実は共同体は自分たちを守ってはくれないのではないか?」という不安が生まれる。
しかし、人間は不安になればなるほど原理原則に戻り、自分が安心できる懐かしい世界や自分を守ってくれる大きな存在に縋ろうとする。
その結果、自分が所属する共同体の和を乱す個人を徹底的に迫害する。
そうすることで精神的な安定が保てる。
そんなことをしても、同調圧力が激しくなるだけで、最初の生き苦しさが拡大再生産される結果のだが…
これは過激な宗教活動に走るアメリカ人も同じ。
生活に苦しんでいる人たちほど、進化論を否定して人工中絶や同性婚に反対する「差別的で排他的な強い宗教」に助けを求めて、かつての「古き良きアメリカ」を取り戻すことを夢見ている。
ちなみに、鴻上氏はかつての強固な「世間」は5つのルールが厳格に作用していたが、そのうちの何かが欠けて流動化し、部分的に表れているものが「空気」だと考えている。
そのため、人々は「空気」を恐れ、同時にかつての「世間」と同じように「自分を守ってくれるのではないか?」と期待している。
「空気」はかつての「世間」のように個人を経済的に支える力はないが「共同体の匂い」を出して、精神的な安定を感じさせることはできる。
「世間」というセーフティーネットを失った今でも、「共同体の匂い」に支えられるということは選択可能。
本当は好きでもない仲間と一緒に行動する女子高生がその代表例。
好きでもない人と一緒にいることは苦痛だけど、一人になるのはもっと嫌だから、消去法として生き苦しさを我慢してでも仲良しグループと一緒に行動することを選ぶ。
今日はここまでにして、次回は生き苦しさの正体が分かった上での対処法と、本を読み終えた後で私が変わったことについてお伝えする。