中学生の時に無遅刻・無欠席だった私が皆勤賞を廃止すべきだと考える理由

前回の記事では不登校について少し触れた。

今日は逆に皆勤賞の話をしたいと思う。

少し前のことだが、こんな記事を読んだ。

【こちら編集局です】「皆勤賞」割れる是非 「体調悪くても登園」「頑張り認めてあげたい」 コロナ禍、廃止拡大も 中国新聞デジタル

広島県にある認定こども園の職員が、皆勤賞は本当に必要なのかと疑問を呈している。

たしかに、このご時世に一日の休みもなく学校等に通い続けることが無条件に称賛されることなのかは疑問であり、実際に今年度から表彰を廃止した自治体もある。

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0211tayori.pdf (funabashi.lg.jp)

私の意見を述べさせてもらうと、私は皆勤賞の廃止に賛成である。

ちなみに、私自身は中学生の時に3年間通して無遅刻・無欠席・無早退を達成した経験がある。

言っていることと、やっていることが矛盾しているではないかと思われるかもしれないが、今日はその辺の話をさせてもらいたい。

・欲しかった皆勤賞

今はどうだか知らないが、私が学生の時は、義務教育である中学校に公式な表彰はなかった。

しかし、12年の時は修了式後に担任教師からクラス内でささやかに「〇年〇組特別賞」という形で表彰された。

ちなみに、このフル出場は偶然の結果ではなく、自分の意志で狙いに行ったものである。

だから、私には周囲からの承認も、名誉も必要ではなかった。

学年終了時の成績表にある「授業日数」と「出席日数」が完全に一致して、「欠席・遅刻・早退」の数がすべて0であることを一人で眺めるだけで十分満足だった。

1年生の時は必死というか何も考えずに勢いで突っ走った感じだった。

2年生の時は前年の自信があったため、比較的気持ちに余裕があった。

もともとは「3年間のうち1年だけでも出来ればいいかな」と思っていたが、1年目で達成できたため、そのまま継続することにした。

余談だが、2年生の時に家族が不在にしていたにもかかわらず、いつも通り目覚ましをセットせずに寝たため、寝坊をしてしまい、開始時間ギリギリで滑り込んだことがある。

それ以来、学校や仕事に行く前日は必ず目覚ましをセットするようになった。

このように、記録が途絶える危機もあったが、12年の時は大きな障害もなく継続できた。

だが、3年生の中旬から、欠席することが急に怖くなった。

ここまで2年半の間継続してきたのだから、残りの半年なんて大したことないような気がするし、そもそも最初の「3年間のうち1年だけでも」という目標はすでにクリアしている。

しかし、ここまで継続してきたのだから、不用意なことで連続記録が途絶えることが何よりも怖かった。

真面目な話だが、当時は学校を休んでしまうことの方が、受験に失敗することよりも怖かった。

学校に遅刻する悪夢に魘されたことも何度かあった。

というわけで、卒業式の時は同級生や学校関係者との別れを惜しむ気持ちよりも、無事に記録を達成できた安堵感の方が大きかった。

・皆勤賞達成によって得られたもの

さて、ここで改めて当時を振り返ってみるが、個人的に打ち立てた目標を達成した満足感のようなものを除くと、3年間の皆勤で得られたものは…

特にない。

すべての授業にもれなく出席したわけだが、特に勉強ができたわけではないし、今でも付き合いがある程の友達も一人しかできなかった。(しかも、彼とは小学生の時から友人だった)

大人になった今でも、よく体調を崩したり、嫌な仕事はすぐに辞めるくらいだから、体調管理法を身に着けたわけでもないし、忍耐力など全く身についていない。

関係ありそうなことと言えば、風邪を引いても仕事を休まないことだが、それは時給制で働いているが故の事情であり、学生時代の経験が基になっているわけではない。

もしも、月給が固定額で支給され、病欠の控除もない会社であれば、微熱であっても喜んで休みを取る。

こんなことから、多くの人が想像しているであろう「皆勤賞とは雨の日も、風の日も、人間関係でつらいことがある日も、歯を食いしばって会社に行く屈強な精神を涵養する」などというのは妄想であると断言できる。

当時担任だったN氏、O氏、手作りの賞状を作ってくれて、粗品まで用意してくれたのにこんなことを言って本当に申し訳ない。

このように、私は中学生時代の無欠席記録など大した意味はなく、むしろ逆に、休まないことにこだわったことの弊害の方が大きかったと感じている。

そう思うきっかけは3年生の時のできごとである。

・こんなことになるのならサボれば良かった

当時私が通っていた学校では9月の終わり頃に体育祭(運動会)が開催されていたため、2学期が開始して1ヶ月の間は授業は午前中のみで、午後からは毎日練習があった。

私自身、体育が好きではないし、勝ち負けのある競技でなくとも、まるで共産主義(社会主義)国のマスゲームや某宗教団体の集会を思わせるような、大勢で一糸乱れぬ動きを取る歌や踊りもいい気はしなかった。

それは12年の時から同じだったが、当時は同じブロックの先輩から言われた通りのことをこなしただけだったため、今でも根に持つほどの恨みは一切ない。

このようなくだらない行事に心の底から嫌悪感を持つようになったのは3年生の時である。

夏休みの中頃に最初の登校日があり、その時に夏休みの残り期間は体育祭へ向けた「自主的な練習」という名の強制労働のために平日は毎朝登校しなければならないことを告げられた。

あくまでも「自主的な」という名目があるため、この強制労働に参加しないことが欠席として扱われることはないが、これに参加しなければ、夏休み明けに浦島太郎(最悪、村八分)になることを怖れた私は参加せざるを得なかった。

それだけでも、大変迷惑な話だが、私が所属させられていたグループは、人のことを奴隷のようにコキ使いながら、自分は「家庭教師の時間だから」という理由で早退するゲス野郎がリーダーだった。

ちなみに、このゲスリーダーは、かつて登場したこの記事でも「自転車置き場が狭くなる」という理由で、生徒全員の自転車通学を許可する法案に反対するなど、自己中心的な振る舞いは筋金入りと言ってもよい。

こんな経緯から、夏休みの強制労働期間だけでなく、2学期が始まってからの練習も毎日が苦痛だった。

もちろん、全員が彼のようなゲス野郎ではなく、そうではない人の方が大多数だったが、あの忌まわしい催事のおかげで嫌いな同級生が多数生まれたことも事実である。

奴らには他にもはらわた煮えくりかえることをたくさんやられたが、すべては無欠席記録のために我慢していた。

そんな時、帰宅前に元クラスメートのイガラシ(仮名)とばったり会った。

彼は、以前から「不登校」と呼ぶ程の長期欠席をしていたわけじゃないが、週2日ほど定期的に休んでいた。

彼がどんな外見だとは言わないが、見た目通り運動は得意ではなかったため、私と同様につらい思いをしているに違いない。

そう悟った私は彼とお互いの近況を報告していた。(もっとも、私の方が愚痴を聞いてもらいたいという動機もあったが…)

すると彼は夏休みの自主練(強制労働)はすべて不参加だったという。

そして、こんな説明をした。

イガラシ:「参加は『強制じゃない』って言われたし、面倒くさいし、どうせ『足を引っ張っている扱い』されるだけだし…」

彼は夏休み期間中だけでなく、2学期になってからも、放課後の練習はほとんど(もしかして、「すべて」か?)参加せずに定時で下校しているらしい。

そして、大会本番も見事にバックレた。

彼の名誉のために言っておくが、彼は練習開始前から大会そのものへの不参加を宣言していた。

しかし、「全員参加しないとダメだから、最初は練習だけでも」と言われたため、いやいやながら参加したが、結局は当初の表明通り大会当日は欠席した。

今になって思うと、私も皆勤賞などという下らないこだわりやプライドを捨てて、彼のように要領よくサボれば良かった。

これは嫌味でも、皮肉でも、奴隷の鎖自慢でもなく大真面目な話である。

そうしたら、嫌いにならなかった同級生もたくさんいたことだろう。

(ついでに、クズ団長、もとい、ゲスリーダーにはお礼参りとして、進学予定の高校へ奴の暴挙を告発する文章を送るべきだったと後悔している)

私が中学生の時は体育祭の練習という名の奴隷労働だけでなく、他にも嫌な経験はたくさんあったが、この時の出来事が決定打となったことは間違いない。

中学校の3年間は皆勤だったが、結局、卒業後は今に至るまで同窓会や成人式のような公式の集まりには一切参加していない。

顔も見たくない人間がたくさんいるから。

前回は学生時代に不登校だったがゆえに後々後悔することとなった人の話を紹介したが、そうでない道を選択しても後悔することはあるということを知ってもらえたら幸いである。

・今回登場したゲスリーダーが高校卒業時に選択した進路が判明して呆れる。

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