「衣替え」という悪習は「クールビズ」と共に滅んでほしい

9月の終盤まで真夏日が続き、「この暑さは永遠に終わらないのではないか…」とさえ思っていたが、先週に入ると一気に気温が下がり、ようやく秋になった気がした。

この季節に慌ただしくなることといえば、衣替えである。

特に夏→冬の場合は、必要に応じてタンスやクローゼットから衣服を取り出すことになるため、しっかりと準備せずにぶっつけ本番で挑むと「あれが見当たらない!!」と大慌てしてしまう。

・推奨ではなく強制!?

秋の風物詩のひとつであるかのような言い方をしたが、私はこの「衣替え」という言葉が大嫌いだ。

「夏服を着るか、冬服を着るか?」の基準は、「暑いと思えば半袖を着て、寒いと思えば長袖を着る」以外にあるはずがないし、「暑いか、寒いか?」など本人以外に分かるはずがない。

にもかかわらず、全員一斉に着替える必要があるのか?

しかも、なぜか「冬服→夏服」の移行は甘く、7月になっても長袖を着ている人も珍しくないが、その逆はやたらと厳しい。

私がこの言葉を初めて知ったのは中学1年生の秋だった。

春から夏にかけても衣替え自体は存在していたのだが、入学時は(生徒全員が)長袖しか納品されておらず、ちょうど衣替えの時期に支給されたので、「やっと半袖を着ることができる!!」くらいにしか思っていなかった。

秋の衣替えであるが、時期はちょうど今頃と同じ10月半ばだった。

私が通っていた学校では、5月と10月に一週間の期間が設けられ、その間は夏服・冬服のどちらを着てもいいが、期間を過ぎたら、季節ものに合わせなければいけない。

最初にそのことを聞かされた時は、てっきり長袖を着ることを「推奨」されているのかと思った。

特に、寒くなる時期は「まだ大丈夫」と思って半袖のままでいると、気付かない内に体が冷えて、体調を崩す可能性が高い。

それに対する注意喚起として、「早めに長袖を着ましょう!!」と言っているのかと。

しかし、衣替え最終日となった金曜日のホームルームで担任教師からこんなことを言われた。

担任教師:「衣替えは今日で終わるので、まだ半袖を着ている人も月曜日は必ず長袖で登校して下さい

え!?

長袖を着ることは、推奨ではなく強制だったの!?

全く持って意味不明だった。

私は元々暑がりなので、11月の中頃までは半袖でも平気な体質なのだが、なんで、そのような個人差を無視され、長袖のシャツを着ることを強制されなくてはならないのか?

それはどう考えてもおかしいだろう!!

この制度については不服だった。

なにも私は「制服を廃して、私服で通学させろ!!」と言っているわけではない。

学校が指定した制服を着るのに、なぜ袖の長さを強制されなくてはいけないのか?

そんなもん個人の判断に任せたところで、校内の秩序が乱れるはずもない。

実際に、小学校の時は衣替えなどなくても、学級崩壊など起こっていなかったのだから。

今だったら、「長袖を着ないと学校へ来てはいけないのなら、長袖を着たくなる時期まで学校には行きません!!」と不登校宣言するか、手持ちの長袖のシャツを全部切り落として半袖と化すなどの対抗措置を取るが、当時は今よりも素直な性格(笑)だったので、制服等の校則と同じく受け入れざるを得なかった。

・名前を変えて生き延びる

そのような窮屈な学生時代を過ごしていたが、学校を卒業した後は、私服の上にエプロンやスタッフジャンパーを着る販売職や、安全や衛生という明確な目的がある作業着をまとう工場職で働くことになったので、「衣替え」などという拷問を受けずに済んだ。

こうして、その言葉は他の理不尽な校則同様に、遠い学生時代の記憶となるはずだったが、このブログでも度々名前が出てくる「モーレツパート班長」が君臨する職場で、久々にその悪名を耳にした。

その職場は小売店であり、エプロンを支給されただけで制服はなかったが、部門毎に同じ色のシャツを着用することになっていた。

私が働き始めたのは6月だったため、当然のように半袖を着て働き始めた。

その仕事のために、わざわざ指定された色のシャツを買ったため、余計な出費になったものの特に不満はなかった。

しかし、10月の中頃、朝礼で店長から突然こんなことを言われた。

店長:「来週は衣替え期間なので、〇日からは全員ビシッと長袖で勤務開始しましょう」

うぇぇ…

頭がクラクラしてきた。

何年ぶりかは憶えていないが、久しぶりにその反吐が出る言葉を聞いた。

過去にこちらの記事で取り上げた通り、そこは規則だらけの息苦しい職場だった。

その上、「こんな所もしつこく口出しされるのか…」とうんざりした。

改めて振り返ると、私が職場で「衣替え」という言葉を聞いたのは、ここが最後であり、東京に出てきてからは一度もない。

だが、決して、その悪習そのものがなくなったわけではない。

上京後の私は事務職で働くことが多いのだが、これらの職種では「クールビズ」という名の服装規定が設けられている会社が多い。

細かい規定は会社によって違うが、6月から9月までの期間は冷房の設定温度を下げ過ぎないように軽装で働くことを推奨し、その間は背広やネクタイの着用は免除される。

と、言えば聞こえはいいが、裏を返せば、「その期間外は長袖やネクタイの着用を義務化されている」という意味になる。

普段から服装規定が厳しくなければ、わざわざこんな言葉を使う必要はない。

Wikipediaによると、「クールビズ」という言葉は環境省主導のもと2005年に生まれたそうだが、実態は「衣替え」と同じであり、看板を掛け変えただけのような気がしてならない。

・クールビズ救世主論は的外れ

私は「クールビズ」そのものは反対しないのだが、その言葉が嫌いだ。

理由は二つあり、一つは前段で述べた通り、それは「衣替え」という悪習の延長に過ぎないから。

もう一つは、その名前によって、逆に夏季以外の背広やネクタイの義務化を正当化されるからである。

「クールビズのおかげで、男性会社員は夏場のネクタイと背広から解放されているのだ」

という理屈を展開する人もいる。

この主張は「クールビズがなければ、夏場でもネクタイと背広着用が義務付けられている」という前提で話をしている。

だが、その前提は正しいのだろうか?

少し前にYouTubeで高度経済成長期の新宿駅の通勤ラッシュの光景を撮影した動画を見たのだが、撮影時期が夏場だったのか、ノーネクタイで白い半袖のワイシャツを着ている男性が大半だったため驚いた。

それまでは、私も恥ずかしながら「昔の人は夏の暑い日でも、会社へ行く時はスーツを着なくてはいけなかった」と思い込んでいたから。

「クールビズ」などという言葉が存在していない昭和時代ですら、サラリーマンは全員(という表現が大げさなら「大多数」)が真夏でも長袖とネクタイを強制されていたわけではなかったようであり、「クールビズ=真夏のサラリーマンの救世主」という論調は誤りだと言える。

逆に、クールビズ期間という区切りが設定されているからこそ、「今はクールビズじゃないのだから、スーツを着なさいよ!!」という強引な主張がまかり通りのではないか?

地球環境、並びに人道への配慮からノーネクタイ・ノージャケットキャンペーンを展開するのであれば、先ずは「クールビズ」という言葉を廃して、軽装(ついでに髪型自由)を社会の標準としなければならない。

そして、それに反して(たとえ夏季は免除したとしても)長袖とネクタイの着用を強制することを「ゼロトレランス・ビズ」と名付けるべきである。

こちらの方がより実態に近いのではないか?

この社会には、組織内の規律維持や業務遂行のために、どうしても軽装を認めず、スーツ着用を要求せざるを得ない組織が存在することは、私も十分認識しているつもりだ。

たとえば、暴力団とか。

自分の勤め先をそのような組織に近づけたいと思うのであれば、「どうぞ、スーツ着用を義務付けてください」と言いたいが、その覚悟がなければ、袖の長さくらい個人の好きにさせるべきである。

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