
12月も中盤に入り、これからはクリスマスや年末年始と出費が気になる人も多いだろう。
だが、この時期は出費を気にするだけでなく、「ボーナスがもらえる」と楽しみにしている人も多いのではないだろうか。
日本で正社員として働いていると、「ボーナスがあるのは当たり前」という感覚が非常に強い。
中には、楽しみや心の拠り所を超えて、年に2回の定期ボーナスで毎月の生活費の穴埋めをすることが常態化しており、「ボーナスがないと生活が破綻する!!」と藁にも縋る思いで依存している人も居たりして…
非常にお恥ずかしい話ですが、私の身内に居ます。
毎月の給与が低くても、ボーナスさえあれば、心も財布も満たされて生きていける!!
しかし、海外に目を向けると、このような年2回の定期ボーナスが出る国はほとんどなく、ある意味では「日本の文化」とも言えるかもしれない。
今日は海外との比較や歴史的経緯を踏まえつつ、この定期ボーナスについて私が感じている話をさせてもらいたい。
・海外のボーナス事情と日本の歴史

「正社員で働いている」と言っても、日本で正社員として働くすべての人にボーナスが支給されているわけではないように、「どこの国ではこうだ!!」とは一概に言えない。
だが、ある程度の傾向は見受けられる。
ドイツ、フランス、イタリアなどのヨーロッパでは年末に1ヶ月分の給与が追加で支払われることが多い。
年末はクリスマスなどのイベント事や冬場の暖房代などで出費が増える季節ということもあり、「13ヶ月目の給与(13th-month salary)」として、多くの企業で慣例として実施されているとのこと。
ちなみに、アジアではあまりこうした表現は見られないが、フィリピンでは法律によって義務付けられている。
中国、台湾、タイ、ベトナム、インドネシア、インドなどの国も、やはり旧正月やレバラン、ディワリのようにそれぞれの国で重大なイベント事の前に1~2ヶ月分の給与額がボーナスとして支払われることが多い。
歴史や支給時期に違いはあるが、「1ヶ月分の給与が特別手当として支給される」という感覚が多くの国で見られるようである。
対照的なのは、アメリカやイギリスで、これまでに紹介した国々のような「毎年恒例の嬉しいご褒美」という牧歌的な様子は微塵もなく、主に営業職、管理職、役員が業績に応じて支払われるとのこと。
厳しいですね…
香港は「ダブルペイ」と呼ばれる1ヶ月分相当の年末手当と、基本給1~4ヶ月分が年1~2回支給される。
年2回の支給や、1回の支給額に幅があったり、割と多めの額が支給される点が、日本と比較的近いと言える。
もらえる? もらえない? 世界と比べてわかる“日本の賞与”の正体|広島転職navi
海外転職Q&A「海外のボーナス事情を知りたい」 | マイナビ転職グローバル
このような諸外国と比較すると、日本の定期ボーナスは以下の点が特徴であると言える。
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夏と冬の年に二回支給される。
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支給額が多い。
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変動の幅が広く、「今年はいくらもらえるかな~」と言った中身が分からないからこその楽しみがある。
その他にも、「職種ではなく、企業規模によって額が大きく変わる」という特徴もありそうだが、これについては確証を得られる資料が見つからなかったため、まだ仮説の域は出ていない。
では、日本ではなぜこのような形のボーナス文化が根付いたのか?
ボーナスのルーツは江戸時代に商人がお盆と年末に奉公人に夏は氷代、冬は餅代を配ったことであり、「賞与」としては明治時代に確立したものらしい。
それが、戦後の復興期から高度成長期にかけて、景気が良い時に利益の一部を労働者に還元する「季節的な一時金」が慣例化し、いつしか「終身雇用」、「年功序列」、「企業内組合」と共に日本独自の雇用慣行として確立した。
…と言われているが、戦後のいつ頃から完全に定着したのかを示す資料は確認できなかった。
もっとも、これもあくまで大企業に限った話であり、それが生き渡らなかった中小企業もあったわけだが…
企業側としては毎月の固定費を抑え、業績次第でボーナスを調整できるため、景気変動のリスクを社員に分散させる手段としても使われた。
・ボーナスが馴染まない業界と生活費の当てにする危険性

しかし、いくら日本で独自の文化を築いたとはいえ、どの産業でもボーナス文化がしっくりくるわけではない。
昨年、こちらの記事で取り上げた内容と重複するところも多くあるが、大事なことなので、改めて説明したい。
たとえば、医療や福祉業界は、「バリバリ働いて、効率化して、生産性を上げて、会社の利益を上げて、事業を拡大して…」という仕事ではないため、「今年は会社が潤ったから、頑張った皆にボーナスを支給します!!」というボーナス払いは向かない。
以前、こちらの記事で、私の元同僚が骨折した時の話をした。
彼女が大学病院で診察を受けた時は、どれだけ痛みを訴えても、医者は彼女の腕に触りもせずに「それはきっと打撲ですね」と一言で済ませて、湿布を処方しただけだった。
診察時間はわずか数十秒で、すぐに次の患者への診察へと移った。
その後、彼女が訪れた病院では、医者が詳しく話を聞いて、痛みが感じる場所をじっくりと触ったり、後日改めて精密検査を実施することにした。
この2人の医者を比較した場合、患者の回転率が高い前者の方が、生産性が高くて、おそらくお金も多く稼げると思う。
だが、患者として接した場合、「どちらの医者の世話になりたいか?」と問われたら、疑う余地なく後者である。
昨今、地方では廃園となる保育園が増えている。
原因は過疎化や少子化という外的要因であり、保育士がどんなに優秀で子どもや保護者に信頼される人だったとしても「この先生に我が子を預けたいから、毎日通える場所へ引っ越します!!」と他の地域から顧客を引っ張って利益が増えるとは考え難い。
このように、医療や福祉の世界では「優秀な人=生産性が高い人、お金を稼ぐことが出来る人」だとは限らない。
こうした業界では、ボーナスの原資そのものが不安定であり、「努力の報い」として高額のボーナスを支給することは必ずしも合理的ではない。
誤解がないように言っておくが、私は「医療や福祉の仕事では金を稼げないから、ボーナスなしで我慢しろ!!」と言っているわけではない。
むしろ、逆に「当てにならない景気や経営者の気まぐれに左右されるボーナスがなくて生活できるように、基本給だけで生活できるような給与水準にすべきだ」と言いたいのだ。
そもそも、日本のボーナスには2つの支給根拠がある。
①:利益が出たので従業員に還元する。(利益の還元)
②:頑張った社員への報いとして支給する。(頑張った報い)
多くの人が「ボーナスとはこういうもの」という無意識の前提を共有しているが、この2つは全くイコールではない。
会社の都合で意味づけがコロコロ変わるという、非常に曖昧な制度とも言える。
利益が出た時は②の原理を前面に出して、退職されたら困る一部のエリートを除いて、「あんたは頑張りが足りなかったから、ボーナスは据え置き」と出し渋り、馬車馬のように働かせた人には①の理屈を主張して「ボーナスを払いたくても、そんな金がない」と出し渋る。
医療や福祉の世界では②が横行しているのだろう。
コロナが猛威を振るっていた2020~2022年は医療従事者が例年では考えられないほどの激務をこなすことになり、彼らの貢献を称える声がいたる所で聞かれた。
しかし、その頑張りに対して、ボーナスは例年の3倍というような大盤振る舞いがあったという話は聞いたことがない。
「いつもは1万だったけど、コロナ渦では3万円になった」というように元値が低すぎる場合は別として…
この曖昧さ、というか都合よく解釈できる幅の広さこそが、ボーナス文化の最大のリスクと言える。
このような企業の気まぐれで変動する不確実なものを生活費として期待して「基本給は低くても、ボーナスが出るから何とか生活できる」と考えることは個人にとっても、社会にとっても危険極まりない。
・貯金ではなくギャンブルの掛け金

日本のボーナス制度を「日本人の民族性・気質」と結びつける意見が時折聞かれる。
具体例を挙げて考えてみよう。
・年収600万円で働くことになって、給与の支払い方について下記の2パターンを提示された。
①:月収50万円 × 12ヶ月 + ボーナス0円 = 年収600万円
②:月収35万円 × 12ヶ月 +(ボーナス90万円 × 2)= 年収600万円
どちらもトータルの年収は同じ600万円で、会社からは「好きな方を選んで良いよ」と言われたとしよう。
私はこの条件であれば迷うことなく①を選ぶ。
理由は、たとえ「ボーナスは定額」と宣言されたとしても、「会社の一方的な都合で減額できるからボーナスなんて信用できない」という企業への警戒感と、退職する時はボーナスが支給された直後でなければ、働き損になるという経済合理性からである。
ところが、こうした考えを表明する人間には「即金を求める卑しい拝金主義」であるかのような反感を持ち、対する②を「コツコツ頑張って、後からご褒美を得る努力家」のようにみなして、あたかも「日本人らしい奥ゆかしさ」のごとく評価する風潮がある気がする。
しかし、ここで立ち止まって考えたい。
②は「奥ゆかしい努力家」と言えるのか?
「①を選ぶ」と高らかに宣言した私がこんなことを言っても、自画自賛しているようにしか思われないだろうが、①の方が毎月の収入だけで十分生活できるほど安定しており、どんな状況でも生活がブレない。
これはまさに「日々の積み重ね」を大切にするコツコツした働き方ではないか?
一方の②はどうだろう。
こちらを肯定する人は「毎月給与の一部を会社に貯金して、ボーナスとして後からまとめて受け取っている」という認識でいるのかもしれない。
しかし、うがった見方だが、「トータルの年収は同じ」だと分かっていても、絶対にボーナスという手段を手放せない人の情熱は、「パチンコや宝くじで大当たりを出した人が、一気に大金を手にした快感を忘れられず、『このままではダメだ』と分かっても止められない中毒症状に近いのでは?」と感じてしまう。
「年に2回の『特別な日』を待ちわびる」
「大金が手に入ると瞬間にテンションが上がる」
「これを機に大きな買い物をしたくなる」
毎月定額払いの月収との差額である毎月15万円も貯金などではなく、まとまった大金を手に入れるための掛け金と言えよう。
上記の例は年収が同じという条件だが、多くの企業でボーナスの額は幅があり、「今年はもしかしたら…」と不確実性の期待が生じてしまうことも、ギャンブルと同じように依存してしまうのだろう。
どこが日本人らしい奥ゆかしさやねん?
これはもはや「刺激に依存しやすい仕組み」と言ったほうが近い。
「日本人はそういう民族です」と言われたらそこまでだが、このように「ボーナスは毎月の給与は低くてもコツコツ頑張って、後からボーナスという形で報われるものであり、勤勉な日本人にマッチしている」という日本人論を持ち出すのは見当違いと言えるだろう。
・結局は長年の習慣と企業に都合が良いだけ

「基本給は低くても、ボーナスが高い働き方」は日本人の特性に合った文化ではなく、単に過去の習慣と企業側のメリットによって延命されている制度だと言える。
そして、それに慣らされてきただけの私たちは時にボーナスを「自分の努力の象徴」のように錯覚してしまう。
しかし、ここまで見てきたように、基本給が低く、ボーナスが高い形の給与制度は、歴史の中で根付いただけであり、日本人の気質に合っているから続いているわけではない。
むしろ…
・企業が固定費を抑えられる
・景気の上下に合わせて調整できる
・労務管理がしやすい
という企業側の都合で維持されてきた側面の方が強い。
そして、何よりもボーナスを餌にすれば、私と違って、絶対に組織を裏切らない人間を養成しやすい。
もちろん、ボーナス文化が完全に悪だと言うつもりはない。
年に2回の楽しみが働くモチベーションになる人も多いだろう。
しかし、構造的に見れば、企業が社員の生殺与奪権を握り、社員がリスクを負い、企業が安全圏に立つための仕組みとして長年機能してきたことは否定できない。









