正社員の解雇合法化は時代の流れの必然である

先日こんな記事を見た。

取引先とのプロジェクトを“勝手に”辞退 会社の信用を傷つけた“問題社員”を懲戒解雇も…裁判所が「無効」と判断した理由 | NEWSjp

  • 入社して2年半の正社員が会社から命じられた取引先とのプロジェクトの打ち合わせに参加せず、自分の判断でプロジェクトへの参加自体も断った。

  • 会社は就業規則に違反するとの理由で同社員を懲戒解雇。

  • 会社は2年半にわたる同社員の勤務態度等に不服だったが、解雇通知書には上記事実のみを記載。

  • 社員は解雇を不服として解雇無効を訴える裁判を起こす。

  • 裁判所は、非違行為として軽微なものとは言えないとしつつ、会社は同社員の行動により直ちにその存続を左右されるような巨額の損害を被った等の事情はうかがわれないとして、解雇無効の判決を出す。

  • 会社は今回の件に限らず、これまでも同社員の勤務態度には問題があったことも主張したが、裁判所は「仮に普通解雇であったとしても、本件解雇は社会通念上相当とは言えないので無効だ」という旨の判断をした。

「日本では一度正社員を雇ったら、解雇できない」と言われている。

しかし、ここまで酷い社員すら解雇できないのは、いくら何でも「労働者保護」という観点では説明できないのではないか?

記事を見ただけだが、会社と社員の主張は100:0くらいの割合で会社の言い分の方が正当性があると思う。

半年ほど前になるが、入社当初から担当業務の遂行に問題があり、異動とともに業務の難易度は下がっていったが、自身の勤務不良を周囲の指導力不足のせいにし、問題行動を繰り返す社員の解雇を認める判決が出た。

能力不足解雇が有効に 新卒入社から9年で――東京地裁 – 株式会社 労働開発研究会

一見すると、「ついに能力不足による解雇が認められた」という画期的な判決のように見えるが、裏を返すと「会社はこんな従業員を9年も雇い続けた上に、ここまで手を尽くさないと解雇は認められない」とも受け取れて、解雇規制の存在がより一層裏付けられた気がする。

・解雇問題で一番厄介な人

日本では長らく、「正社員は解雇されない、少なくとも簡単には解雇できない」という認識が共有されてきた。

判例法理によって整備されてきた解雇権濫用法理は、企業に対して厳格な要件を課し、とりわけ能力不足を理由とする解雇については、相当程度の指導や配置転換、改善機会の付与などを尽くさなければ無効とされやすい。

実際、能力不足による解雇は、理屈の上では可能でも、実務上はかなり難しいと言わざるを得ない。

一方で、企業秩序に直接関わる命令違反については、比較的厳しい判断が示されることもある。

たとえば、業務上必要性のある転勤命令を正当な理由なく拒否した場合や、合理的な範囲の残業命令を拒否した場合などについては、懲戒処分、場合によっては懲戒解雇が有効とされた裁判例も存在する。

東亜ペイント事件やケンウッド事件では、たとえ家族の事情があっても、転勤を拒否した従業員の解雇を認める判決が出された。

つまり、「能力が足りない」という理由で切ることは困難でも、「明確な命令違反」には強い制裁が及ぶ構造になっている。

この構図だけを見ると、いかにもバランスが取れているように見える。(だからこそ、冒頭の解雇無効のニュースには驚かされたのだが…)

仕事の結果を十分に出せなくても、一生懸命取り組んでいる人には優しく、会社の秩序を乱す不届き者には厳しい。

一見すると、道徳的にも妥当な制度のように思えるが、この二つの軸だけで現実の職場を捉えると、大きな落とし穴がある。

それは、「やる気がない人」をどう扱うかという問題である。

やる気がない人は、必ずしも露骨に命令違反をするわけではない。

彼らはやりたくない仕事を割り当てられた時、「嫌です、やりません」とは言わず、形式上は引き受ける。

しかし、その後で「わかりません、できません」と言い続け、実質的には同じ部署の同僚に仕事と責任を丸投げする。

指示を受けたという事実は残り、明確な拒否もしていないため、懲戒解雇の対象とするのは難しい。

けれども、周囲に与える負担は甚大であり、現場は確実に疲弊していく。

こうしたタイプは、「能力が低い」とも言い切れない場合がある。

努力すればできるはずの仕事を、努力しないことで回避しているにすぎないかもしれない。

たとえば、定型文を利用したメールを数十社の顧客に配信する業務を指示されたとする。

業務内容自体は単純でスキルも不要だが、送信先や、テンプレの宛名や顧客情報を毎回手作業で変更するのはとにかく面倒だし、もし誤送信をしてしまった場合は、情報漏洩などの責任が降りかかる。

それを避けるために、「自分には責任が重すぎるのでできません」と主張するのだ。

意欲の欠如は客観的に立証しにくく、評価や処分に結びつけるのは容易ではない。

その結果、真面目な同僚が穴埋めをし、責任を肩代わりする構図が固定化することになり、正直者が日々残業に追われ、勤務過多で生じたミスの責任を押し付けられることになる。

何とも呆れる話だが、もしかしたら、読者の方の職場がそのような環境なのかもしれない()

私は、この種の問題を放置したまま現在の解雇規制を維持することは、いずれ限界を迎え、遅かれ早かれ、能力や適格性に関する解雇のハードルは、何らかの形で緩和されるのではないかと思っている。

・「昔は解雇しなかった」=「労働者に優しかった」ではない

よく、「昔はどんなに出来が悪い労働者でも、企業は絶対に解雇なんかしなかった」と語られることがある。

これは「昔はよかった」という文脈で持ち出されることが多い。

たしかに、形式的な解雇は少なかったかもしれない。

しかし、その実態は決して甘い話ではない。

仕事が出来ない人や、やる気がない人は、上司や先輩から徹底的に怒鳴られたり、ぶん殴られたり、長時間労働で徹底的に叩き直されていた。

「この仕事は私には無理です」→『無理じゃなくて、出来るまでやれ!!』

「私には他の人が定時までに終える作業が終わりません」→『人よりも遅いんだったら、居残りしてでも終わらせろ!!』

気の緩みでイージーミスが起きる→『何やってんだ、バカヤロー!! ボカーン!(鉄拳制裁)』

このように精神的にも肉体的にも追い詰められ、結果として仕事を覚えるしかない状況に置かれていた。

現在の基準から見れば、こうした指導の多くはパワハラとみなされ、絶対に出来ない。

私も、そうした指導が絶対的に正しいとは思わないし、無制限に容認すべきだとも考えない。

ただ、そうした厳しい指導が可能だったからこそ、企業側も「出来の悪い労働者であっても、根気強く教えれば戦力になる」と信じて、安易に解雇せずに雇い続ける余地があったことは否定できない。

制度を支えていた前提を完全に否定しながら、「一度雇ったら絶対に解雇してはいけない」という結果だけを維持しようとするのは無理な話である。

それは制度設計として整合的ではない。

厳しく育てることが出来ないのであれば、組織の質をどう担保するのかという問いに答えなければならない。

近年は「年功序列も終身雇用も崩れたのだから、労働者は企業への忠誠心を持たなくていい」と言われることが多い。

それは間違いだと思わないが、逆もまた然りである。

労働者が企業に無条件の忠誠を誓わないのと同様、企業もまた、見込みがないと判断した労働者を抱え続ける義理も義務もない。

昔のような厳しい指導ができないのであれば、見込みがないと判断された労働者は、企業側も何も言わずに黙って見捨てる以外の方法でしか組織の質は保てない。

パワハラや長時間労働といった昔の労働環境の負の側面は是正されるべきだが、終身雇用だけは永遠に続くと考えるのは、物事を都合よく見すぎている。

・解雇規制死守の主張に必要な覚悟

「昔のような厳しい指導もやらないけど、何が何でも解雇規制は守る」という路線を徹底すれば、社員の質に歯止めがかからず、それに合わせて雇用の質そのものが劣化する可能性がある。

その時、企業は別の方法でバランスを取ろうとするだろう。

たとえば、それまで「正社員だから」という理由だけで支給されていた扶養手当や住宅手当、特別休暇などを一定の等級以上の社員にしか認めないとか。

社員3級以上、グレードC以上といった明確な基準を設け、成果や役割に応じて待遇を差別化する方向へと進む可能性は高い。

また、これまで懲戒処分に準じる場合を除きタブー視されがちだった降格や賃金引下げも、より広く認められ、そのための人事査定は一層厳格化するだろう。

そうなった時、最も負担を背負うのは誰か?

多くの場合、真面目に働いている人である。

やる気のない人の穴埋めをしつつ、評価制度の厳格化によってより高い成果を求められる。

責任は重くなり、余裕は削られる。

結果として、誠実な人ほど疲弊しやすい構図が生まれる。

だからこそ、「解雇規制緩和は絶対に反対だ」と主張するのであれば、自分がその立場になるリスクを背負う覚悟があるかどうかを考える必要がある。

自らが真面目に働きながら、他者の無責任の尻拭いを続ける未来を引き受ける覚悟があるのか?

足を引っ張るのが、「真面目だけれど能力が足りない人」であれば、まだ我慢できるという人は多いだろう。

努力している姿が見えれば、支えようという気持ちも生まれる。

しかし、その対象が、やる気がなく、責任も負わず、巧妙に義務だけを回避する人であったならば、多くの人は納得できないはずである。

解雇規制の是非は、単なる「弱者保護」か「冷酷な市場原理」かという二項対立では語れない。

どのような行動をどこまで許容し、どのような責任をどこまで求めるのか。

その設計を誤れば、守るはずだった人々を、別の形で傷つけることになる。

移民受け入れなど他のテーマでも繰り返しているが、制度を語る時には、その影で誰がどのような負担を引き受けるのかを、冷静に見据える必要がある。

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