年末年始の定番であるオードブルが大嫌いなのは私だけなのだろうか?

先の年末年始は帰省しており、その期間の食事は近所のスーパーで総菜や冷凍食品を購入していた。

上京して10年近くなるが、今でも地元のスーパーへ行くと、若い頃に馴染みがあった食品を購入したくなる。

ところが、それが難しくなるのが年末年始なのである。

その理由は…

総菜コーナーがあるものに占領されるからである。

・お正月料理の定番

かつて私が働いていた頃もそうだったが、年末年始の総菜コーナーはある種の「非日常空間」になる。

普段であれば煮物や焼き魚、地元の味付けの惣菜が並んでいる売り場に、年末が近づくと突如として巨大な容器に詰め込まれた料理が現れる。

唐揚げ、エビフライ、ローストビーフ、ポテトサラダ、焼きそばetc…

和洋中が雑多に詰め込まれたそれらは「オードブル」という名前で売られている。

おそらくこのような人を購入者に想定ているのだろう

正月に親戚が集まるから、皆で取り分けて食べるための料理を用意しておきたい」

大皿に盛られ、見た目はそれなりに豪華で、調理の手間はかからない

年末年始の食卓にこの料理が並ぶ姿は風物詩といってもよいほど、当たり前の光景になっている。

しかし、このオードブル中心の年末年始の食卓は、実はそれほど古い習慣ではない。

かつての正月料理の中心は、家庭で作るおせちや煮しめだった。

保存が利き、正月三が日は火を使わずに済むよう工夫された料理が、各家庭や地域ごとに受け継がれてきた。

少なくとも、「正月のごちそうはスーパーで買うもの」という発想は、戦後しばらく存在していなかった。

この流れが変わり始めたのは、1980年代後半から1990年代にかけてだと考えられる。

核家族化、共働き世帯の増加、冷蔵・冷凍技術の発達、そしてスーパーやコンビニの総菜部門の拡充。

これらが重なり、「正月くらいは楽をしてもいい」「全部手作りでなくても構わない」という価値観が広がった。

その受け皿として、オードブルは非常に都合のよい商品だった。

こうしてオードブルは、「正月に人が集まる家のための料理」として定着していった。

特に、親戚が集まりやすい地方では、その存在感は大きいようだ

・有り難くない構成

だが、個人的には、私はこのオードブルという料理があまり好きではない。

理由はいくつかあるが、まず一つ目は、私自身がかなりの偏食家だという点だ。

オードブルの特徴は「少量多種」である。

誰か一人の好みに寄せるのではなく、無難な料理を少しずつ詰め込むことで、誰かが何かしらは食べられるだろう、という設計になっている。

しかし、好き嫌いが激しい人間にとっては、この構成が逆に厳しい。

確かに好物が一品くらい入っていることはあるが、それは全体のごく一部でしかない。

結果として、大半は箸を付けずに終わる。

二つ目の理由は、食べ残しが多すぎることだ。

オードブルは基本的に量が多い。

人が集まることを前提にしているため、どうしても余裕を持った量になる。

その結果、正月が終わった後、実家の冷蔵庫には、手つかず、あるいは中途半端に残ったパックがいくつも入ることになる。

時間が経って味も落ち、結局誰も手を出さず、最終的には処分される。

その光景を見るたびに、胸が痛む。

食べ物を粗末にしているという感覚が、どうしても拭えない。

正月だから仕方がない、という理屈は頭では理解できても、感情が追いつかない。

それでもこれまでは、「年に一度のことだから」「正月くらいは」と自分に言い聞かせ、我慢してきた。

年末年始は特別な期間であり、多少の無駄や不合理には目をつぶるべきだ、という空気があるのも事実だ。

・いつまで売り場を占領するつもりなのか?

だが、今年はその我慢が限界に達した。

今年は13日になっても、近所のスーパーの総菜コーナーは相変わらずオードブルで占領されていた。

三が日も終盤に差し掛かっているにもかかわらず、普段であれば並んでいるはずの惣菜や食品は姿を消したままだった。

ふざけんなよ!!!

私にとって帰省とは、単に実家に戻ることではない。

上京する前、地元で暮らしていた頃に慣れ親しんだ味を食べることでもある。

あの店の惣菜、この地域特有の味付け。

そうしたものを口にすることで、自分がどこから来た人間なのかを再確認するような感覚がある。

それが、オードブル一色の売り場によって奪われてしまった。

この日は実家に滞在する最後の日だったため、上京前に慣れ親しんだ総菜を食べたかったが、選択肢がない以上、その日の夕食は冷凍食品で済ませるしかなかった。

冷凍食品でも十分おいしいのだが、「食べたいものを選べなかった」ことへの苛立ちが強く残った。

なお、私は年越し蕎麦も食べない。

しかし、蕎麦はここまで周囲へ害を与えることはないので、当然敵意も一切ない。

この状況を前にして、ふと思う。

この「年末年始の食卓にはオードブルが必須」という空気は、一体いつまで続くのだろうか

家族の形は変わり、集まる人数は減り、食の好みは細分化している。

フードロスへの意識も高まっている。そうした現実と、「大人数向け・大量前提・無難さ重視」のオードブル文化は、少しずつ噛み合わなくなっているように見える。

オードブルそのものを否定したいわけではない。

ただ、それが唯一の正解であるかのように扱われ、他の選択肢を押しのけてしまう状況には、疑問を感じずにはいられない。

年末年始の食卓は、本来もっと自由で、多様であっていいはずだ。

この違和感は、きっと私一人のものではないだろう。

「年に一度だから」という言葉で覆い隠されてきた小さな不満が、静かに積み重なっている気がしてならない。

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