学生時代は英語の成績が「1」だった私が、独学で学び直すことを決意した日

今から約1年前の202012月にこんな記事を書いた。

この記事の後半では、それまで海外に全く関心がなかった私が、初めて海外に憧れた時の話を紹介したわけが、そこでは本格的に英語の勉強を始めたきっかけについては触れなかった。

今日はその時に明かさなかった詳しい話をしたい。

先の記事を投稿してから、大きく時間を置いた今頃になって、そんな話をしようと思った理由、それは・・・

その決心をした日が、ちょうど今日と同じ21日だったからである。

しかも、今年でちょうど10年という区切りを迎える。

これまで、私が「海外へ行きたい」という願望を持っていることを人に話すことはあっても、私が英語の勉強を始めた本当の理由は誰にも話したことがなかった。

私の家族も真実は知らない。

そんな門外不出の情報なのである。

あの日から10年経った今、「あの時、一体何があって、私が海外へ行くことを決意したのか?」について重い口を開こうと思う。(とんでもない機密情報のような書き方だが、ほとんどの人にとって、どうでもいい話であることは重々承知している)

・幻に終わった逃亡計画

前出の記事の通り、本格的に英語を学び直そうと思う前から、海外への漠然とした憧れを持つ時期はあった。

その度に、学生時代には読むことはおろか、買うことなど有り得なかった英語の勉強本を何冊か買ったこともあった。

それでも、私は中学校を卒業する時の英語の成績が5段階評価で1だった人間であり、「今さら英語なんて…」という思いもあり、毎回3日坊主だった。

そんな私が、本気で学び直しを決意し、10年経った今でもその習慣を続けることになったきっかけとは・・・

就職活動に失敗して絶望した

ことである。

その不採用通知が届いたのが21日で、私はその日を境に英語を学び直そうと決意したのである。

それを聞いた多くの人は「なんじゃ、そりゃ?」と呆れることは容易に想像できる。

もちろん、就職に失敗したことは最後の一押しに過ぎず、そこまでにはいくつもの過程があった。

その日までの出来事を順を追って説明していきたい。

この記事に書いた通り、20歳そこそこだった私は生活のすべてを仕事に埋没させる正社員としての働き方(社畜)への嫌悪感や、高校卒業後も付き合いがあった友人たちと会えなく理由は「そのような働き方のせいではないのか」という不信感から、正社員の仕事に就くことを拒絶し、「正社員という働き方しか認めないこんな社会では生きていけない…」と絶望することは何度もあった。

そんな悶々とした日々を送り、気付いたら友人たちと1年以上疎遠になっていた頃、私は突然仕事をクビになった。

その時はすぐに次のバイト先を探そうとしたが、上手くいかず、車の免許を取るために自動車学校へ通うことで、就職せずに実家に住み続けるためのアリバイを辛うじて作ることにした。

だが、それはあくまでも一時しのぎに過ぎない。

学校を卒業して、免許を取得したら、これ以上は正社員として就職する以外の逃げ道を失うことになる。

そのXデーを恐れた私は、免許取得と同時に、20万ぽっちの全貯金を持って沖縄へ逃亡する計画を立てていた。

逃亡先として沖縄を選んだ理由は、沖縄であれば正社員じゃなくても、人間扱いしてもらえることと、地域の仲間たちと、かつての友人たちと同じような付き合いができる気がしたからである。

これまでも「外国で暮らせば、(日本的な)正社員にならなくても生きていけるのに…」と漠然とした憧れはあったが、その時は資金を貯めたり、外国語を学ぶ時間はなく、一刻も早く逃亡先を探す必要があり、海外は無理でも、沖縄であれば現実的に可能な気がした。

しかし、結果として、私が沖縄へ向かうことはなかった。

・暗闇の中に差し込んだ希望

私が沖縄へ行くことを断念した理由は臆病風に吹かれたからでも、誰かに妨害されたからでもない。

その理由とは、この社会でも生きていけるチャンスが突然舞い込んできたからである。

免許取得(Xデー)まで残り一週間に迫った日、学校から帰宅した私は家の中で市の広報誌を眺めていた。

普段はそんなものに目を通すことなどないが、「もうすぐここを去るのだから、このような冊子を目にするのもこれが最後だろう」という思いで読んでいた。

すると、ページの中盤で来年度の市の嘱託職員を募集するコーナーを見つけた。

その仕事とは

  • 18時間、週40時間勤務。(残業は基本なし)

  • 月給は16万円、そこから厚生年金と健康保険料が控除される。

  • 応募条件:車の免許(AT限定可)

  • 業務内容:市内の小中学校の用務員、必要によっては教員の補助。

  • 契約期間は1年で、更新の可能性はあり

これだ!

それを目にした私は閃いた。

学校用務員の仕事なら、転勤も長時間残業の可能性もなく安心して働くことができる。

しかも、社会的に意義がある仕事というイメージがあるから、非正規雇用であってもフリーター扱いされない。

福利厚生もしっかりしているが、1年契約の更新制なので、好き好んで付きたがる人も少なく、倍率も低そう。

その上、私にはかつてこの業界でボランティア活動に参加していた実績がある。

これはあくまでも私のイメージだったが、学校の用務員という仕事は業務の範囲が広く、様々な人と関わることになるので、毎日の生活に変化があって楽しそうである。

この数年後に、派遣先の工場で同僚となったヤマモト(仮名)は、かつて小学校の用務員として勤務していた経験があり、休憩中にはその時のことを楽しそうに話してくれて、当時の私の想像は間違っていなかったことを実感した。

もしも、来年、この仕事に就くことができたら、ここから脱出する必要はないのではないか?

そう確信した。

というわけで、この求人を申し込んだところ、書類選考は無事に通過して翌年の1月に面接を受けることになった。

このことを家族にも告げ、「それまでの繋ぎの仕事だから」という口実で、正社員ではなくアルバイトの仕事に就くことを正当化できた。(そうして働くことになったのがこの仕事である)

もちろん、自ら進んで「非正規の仕事に就職したい」という私に対する家族の反応は冷ややかだった。

だが、当時の私は「来年はこの仕事で働くんだ!!」という夢と目標に満ち溢れていた。

この記事で、私が21歳を迎えた年は苦しい年だったが、最後は暖かい年末を迎えることができたと書いた。

その理由は12月から働き出したバイト先に恵まれていたからだけではなく、「来年の今頃はきっと…」という(根拠がないものの)翌年への希望があったからである。

・突き付けられた現実

このように一人で舞い上がって、無事、面接まで進んだのだが、結果は先ほど述べた通りである。

今になって振り返ると、大学や専門学校で専門知識を学んだわけでもなく、工具を使って何かを修理するような仕事をしていた経験もない私が、採用されなかったことは何も不思議ではない。

だが、当時の私は「自分が『本来であれば正社員としての職を目指すような若い男』だから落とされたんだ!」と感じた。

「結局、正社員として生きる以外の道がない!!」

「こんなことになるなら、最初から夢なんて見るんじゃなかった!!」

周囲に怒りを表すことはなかったが、心の中ではそんな自棄を起こしていた。

そして、もうひとつの懸念は

「これから、一体どうしよう…」

という進路の問題である。

千載一遇のチャンスを逃した今、同じ機会が来ることなどないことは分かっていた。

バイト先には、他に本命の就職希望先があることも、ここはそれまでの繋ぎの仕事のつもりでいることも伝えていなかったため、仕事に関してはこれまでと変わらない生活を続けることはできる。

しかし、「将来の目標」も、大義名分も失った現状では、あえてアルバイトの仕事を続けることは誰も納得しないだろう。

となると、先の求人を目撃する前に抱いていた「もうここでは生きていけない」という恐怖が再来することは自然の成生だった。

ここに来てようやく「自分の居場所はこの社会にない」と気付いて、「生きるためにはこの外国へ行くしかない」と決心した。

不採用通知を受け取った201221日の夜、私は以前購入したものの、ほとんど使用せずに本棚の奥へ収納していた単語帳を取り出して、内容をノートに書き写すことにした。

結局、勝手に期待して、勝手に裏切られた感に満ちただけなのだが、この時から今に至るまで10年続く英語の独学が始まったのだった。

・復讐の願望は半年で叶う

その後はバイトを続けながら、帰宅後に毎日数時間、英語の勉強に取り組んだ。

加えて、「留学準備」という名目があれば、正社員ではなく、あえてバイトを続けることも正当化できると思った。

だが、時期が悪いことに、ちょうどその頃からテナント先であるスーパーに同じ業種の他店が参入した。(その時の詳しい話はこちら

その結果、私たちの職場は売り上げが激減、店長は些細な事で周囲に当たることが増え、職場の雰囲気は一気に険悪になった。

私の方も、表向きは冷静に振る舞うことを心掛けたが、あの日以来、職場ではどこか気持ちが切れていた。

そして間もなく、人件費削減のため、勤務時間の短縮を打診されたことで退職を決意し、私はその職場を去ることにした。

ここまでは悪い話ばかりが続いたが、いいニュースもあった。

同年の7月頃、同じ広報誌に目を通したら、再び同じ求人が出ていた。

私は教育行政のことなど素人だが、学校のような公的機関が年度中に人員を増員することなどあるのだろうか?

そんな疑問を感じていると、こんな仮説が思い浮かんだ。

「はは~ん。さては私を落として採用した人財(笑)に早くも逃げられたのかなあ??」

もしそうだとしたら、それは何て痛快で気持ちいいことだろう。

ざまぁみろぉ~♪

不採用通知を受け取り、英語の勉強に打ち込むことを決意した日、私は自分を落とした連中に後悔させてやることを誓ったが、その願いはおよそ半年で実現したようである。

もちろん、私がその求人に再度応募することはなかった。

私が羽ばたこうとしている先は、こんなチンケな連中のいる「世間」ではなく、広い「世界」なのだから。

・人生において最高の幸運

今回紹介した出来事により、私は学生時代に大の苦手だった英語を学び直して、海外へ行くことを決意したのである。

「もし、学生時代に真面目に勉強して、大企業の正社員として働いていたら…」

「もし、バイト先や派遣先の『正社員にならないか?』と誘われた時に、オファーを受けたら…」

と考えたことは一度もない。

だが、「もし、あの時、学校用務員として採用されていたら、今はどんな人生だったんだろう?」という思いに耽ることは今でもある。

もっとも、今回の一件で英語を学び直す決心がついたのは事実だが、根本の原因はそれまでの流れとは全く変わっていなかった。

経験者のヤマモトによると、嘱託職員としての用務員の仕事は長くても3年程度で契約更新終了となるらしい。

ということは、その時は「やっぱり、英語なんて…」と先送りにしても、その後の再就職が上手くいかないことで、数年遅れで同じ道を歩むことになっていたことだろう。

そう考えると、少しでも若いうちに決意を固める機会を与えてくれたことには感謝すべきなのかもしれない。

あの時、希望していた職と引き替えに身に着けた英語のおかげで、後々、高時給の仕事に就けるようになった。

なお、当時は「どうせ採用されないんだったら、最初から求人情報を見つけなければよかった…」と考えていた。

それも、今ではそれは間違いだったと思っている。

たしかに、あの時、何気なく市の広報誌に目を通して、あの求人を目撃しなければ、私が夢を見ることも、夢を絶たれて傷つくこともなかっただろう。

しかし、あの求人が一時的にでも、夢と希望を与えてくれたおかげで、私は夜逃げを考えるほどの苦悩から解放され、地に足を付けてアルバイトの仕事に就くこともできた。

もし、満足な資金もなく勇み足で沖縄へ旅立っても、良い結果に結びついたかどうかは定かではない。

あの時、希望していた職に就けなかったことは私の人生にとって最高の幸運だった。

これはこのブログでも度々名前を出しているキム・ナンド氏の言葉を借用したものだが、あの時から10年経った今、そう思えるようになってきた。

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