生きるためには「フツーの人生」を捨てるしかないと決心する①

最近、5年前である2014年の話をすることが多くなった。

その年は最悪な1年だったが、振り返ってみると、その年に今の私の基盤が作られて、生きるべき方向も決まったような気がする。

今日はその話をしたいと思う。

・真面目な青年という印象

私は「趣味は何ですか?」「休みの日は何をしているのですか?」と聞かれて、返答に困ることが多々ある。

決して隠しているわけではない。

本当にないのである。

やることと言えば、英語の勉強、読書、ブログの記事の作成の3つくらい。

しかも、ブログはこんな内容であるため、とてもではないが同僚に打ち明けられるようなものではないし、読んでいる本も大半は過去の記事の推薦書を見たら分かる通り、他人に笑顔で「こんな本を読んでいます!!」と宣言できるものではない。

それ以外の趣味は全くない。

酒は飲まない。

ギャンブルはしない。

スマホゲームもしない。

旅行にも行かない。

恋人もいない。

週末に一緒に食事をするような友人もいない。

テレビも観ない。(そもそもテレビを持っていない)

今年一年を振り返ってみても、個人的な楽しみのために行ったことと言えば、5月の連休に実家へ帰った時に学生時代の友人たちと遊びに行ったことくらい。

それも、ただ単にかつて一緒に遊んでいた場所を巡って、昔を懐かしんだだけなので、「友達と一緒に何をしたの?」と聞かれたら、どう答えたらいいのか分からない。

私はそんな生活をしている。

ちなみに、私は職場では同僚と世間話をせずに黙々と働くタイプなのだが、それは「真面目に仕事をする人間だから無駄口を叩かない」のではなく、「人に語れるようなプライベートな趣味が一切ない」ため話に入っていけないだけである。

大方の読者がそんな私に言いたいことは大体見当がつく。

「そんな生活を送って楽しいの?」

実際に対面でこう言われたこともある。

「人前で『I’m happy』と宣言できるほど楽しくはないが、『毎日が生き地獄だ』とも感じない」

これが私の答えである。

ところで、私は仕事に行く時は毎日自分で弁当を作っている。

買い食いや外食はほとんどしない。

これに先ほどの「金を使う趣味はなく、休日にやることは読書と英語の勉強」で「仕事中は一切無駄口を叩かない」という事実が合わされば、他人からはとても真面目な好青年のように見えることが珍しくない。

というわけで、私は、実際のところかなり自堕落でいい加減な人間であるにもかかわらず、どの職場でも「真面目な人」と評されていた。

だが、私がこのような質素な生活を送ることができるのは、決して健気な人間だからではなく、どす黒い闇の力によって支えられているところが大きい。

私のことを「真面目な好青年」だと思っている人が私の本性を知ったらどんなに驚くことだろうか…

・「プライベート」と「ライフ」

さて、人から見れば私の生活はつまらないものかもしれないが、別に自分では不幸だの悲しいだの思ったことはない。

なぜか?

それは「生きるためにプライベートな幸福追求を捨てる」と決めたからである。

もっとも「プライベートを捨てる」という言い方が正しいのかは分からない。

なぜなら、職場の人たちの目から離れた領域で、このようなブログを書くこともれっきとした「プライベート」な活動であるが、私はそれを捨てているわけではない。

多くの読者はご存知だと思うが英語には「life」という単語がある。

日本語では「生活」と訳されることが多いが、お金を稼いで生活を成り立たせるという意味で使われる「living」とは違い、こちらは勉強、仕事、家庭、趣味などから成り立つ「充実した人生」のような意味合いが強い。

私が捨てたのはこの「life」であるような気がするが、この言葉を使って直訳すると「生きるために人生を捨てる」という意味不明な言葉になってしまう。

そこで、先ほどの「プライベートな幸福追求を捨てる」が正しい表現となるのだが、どうも口語で使うには煩わしい感じがする。

だから、私は多少意味合いが違っても、「自分にはプライベートがない」と自称している。

こんな生活を送っているため、東京へ出てきて数年経っても友人などいない。

だが、そのことで「不安だ」とか「寂しい」と感じることもない。

最近、「スキゾイドパーソナリティ障害」という言葉を知った。

これは対人接触を好まず、感情の表出が乏しく、何事にも興味や関心が無いように見える社会的に孤立している性格を表す言葉であるが、自分でもこれに似ていると思っている。

ただし、私は無意識の内に積み重なった経験からそのような感情に行きついたわけではなく、自らそのような感情を殺して孤独に生きると決めたため、「精神的な病か?」と聞かれると、そうとは言えない。

・希望の船出

私がこのような生活を送るきっかけは冒頭に説明した通り、今から5年前の2014年の経験にある。

大まかなことは前回の記事で書いた通りだが、今回は詳細を話したい。

元々、日本で会社員として働くことに気が進まなかった私は、海外で働きたいと思って資金稼ぎのためのバイトをしていたのだが、その会社は

・数ヶ月の短期で離職する人(パート・正社員かかわらず)が続出する

・バイトが残業しているのに正社員は定時で退社する

・正社員は人手が足りない時でもしっかりと週2日休む

というようにおおよそ普通ではない職場だった。

普通の人なら「なんてひどい会社なんだ!!」と呆れたり、憤慨したりするところだが、

正社員とは:

・最低3年は続けなくてはならない。

・何があっても仕事を優先しなくてはならない。

という典型的な日本型正社員のイメージに縛られていた私にとっては「正社員でも頑張らなくていいんだ」というメッセージを与えてくれた職場だった。

その職場で「日本に残って働くのも悪くない」と考え直した私は留学を止めることにした。

そして、親元から自立する目的も兼ねて、都会へ働きに出ることにした。

都会なら、地元よりもいい仕事に就けるチャンスが多い。

それから、平日に週1日、午後7時から習い事の教室に通うことにした。

これも地元ではできない体験である。

このように2014年は明るい新生活が待っているはずだった。

・やりたい放題

のだが、仕事探しの段階でいきなり壁にぶち当たった。

先ずはバイトを探そうと思ったが、それが上手くいかなかった。

以前から、「社会は甘くない!!」的な説教への反感はあったのだが、それを言われるのはあくまでも正社員に限っての話だと思っていた。

だから、アルバイトであれば、給料が低いものの、比較的働きやすいものだと油断していた。

ところが、実際はバイトなのに勤務シフトは正社員並みに拘束とか、経験者限定とか、書類選考があったり、「それなら正社員を雇えよ!!」と言いたくなることが多々あった。

逆に「正社員になれば安泰なのか?」として言われたらそうでもなく、勤務地や勤務時間などを一方的に決められる高拘束にもかかわらず、給料はほぼ最低賃金である時給7X0円だというふざけた求人もあった。

ちなみに、その時に初めて「派遣」という働き方の存在を知ったのだが、そこでも「複数社による競合」、「派遣先による合否の判断」などの違法行為が蔓延していた。

また雇用形態にかかわらず、求人票(広告)の条件と面接で告げられた労働条件が全然違うことも横行していた。

幸い、留学するつもりで貯めていた資金のおかげで、こんな卑怯な会社に「それでもいいから働かせてください」と屈服することはなかったが、このような状況で、最初の短期の仕事に就くまで1ヶ月かかり、その後は5ヶ月間定職に就くことができなかった。

このように雇い手がやりたい放題で職に就くことに苦労していた。

そんな会社が一、二社だけなら、かつてココで働いていた時のように「たまたま運悪く、酷い経営者がいる場所に入ってしまっただけ」という意識で済んだのかもしれないが、ここまで何社も続くと、今(当時)自分がいる世界は「正社員=仕事はキツイが高給と安定がある、非正規=給料は安いが仕事は簡単」というかつての労働観の常識は崩壊しているように思えた。

・企業様がそんな悪事をなさるわけがない!!

当面の生活費は確保していたため、単に仕事に就けないだけなら、私もそこまで思い悩む必要はなかったのかもしれない。

私が今に至るまで当時のことを忘れないのは、仕事に就けなかったことよりも、周囲の無理解の方に原因があった。

私は先ほどのような「雇い手のやりたい放題」について抗議したり、不満を言ったりしたのだが、派遣会社も、元同僚も、家族も誰も味方はいなかった。

「フツー、バイトに職歴なんて求めないよ?」

「バイトに落ち続けるなんてフツー有り得ないよ!?」

「いくら条件が悪くても今は正社員で雇ってもらえるだけで有難いよ」

そんな言葉ばかりでうんざりだった。

ちなみに唯一、私の言い分をまともに取り合ってくれたのがハローワークの職員のおばさんだった。

ハローワークの職員:「最近はアルバイトでも経験や勤続年数を求めるところが多いので、少なくとも『いつまで続けるつもり』だとはこちらからは絶対に言わないことです」

そんなことはすでに知っているため、何の助言にもならなかったが、私の言い分を聞いてくれただけでも、まだ味方が残っている気がした。

だが、その応募先は私から何度電話をかけても「本社の採用担当者から折り返します」の連発で、1ヶ月経ってもまともな返事が来ることはなかった。

「企業が悪いことをするはずがない」

彼らはそう信じて疑わないが、彼らの崇拝する偉大な企業様のモラルなど実際はこの程度なのである。

にもかかわらず、彼らは自分たちの信仰を守るために、それに反する私の主張を頑なに受け入れず、すべてを私個人のせいにしてきた。

…って、そもそも彼らは本当に「信者」と呼べるのだろうか?

彼らが本当に「日本の会社は社員(従業員)を大切にするものだ!!」と信じているのなら、そうしない会社には怒りを表すのが、本当の信者というものではなのか?

高度経済成長期に広がったと言われている日本型雇用を好み、アメリカのような競争社会の働き方を否定する人間のことを「保守派」と呼ぶ人がいる。

しかし、私は彼ら日本型雇用信者は「保守」と呼ぶに値しないと感じた。

その理由は、彼らが自分たちは正社員の長期雇用を核とした日本型雇用を支持しているつもりでいながら、非正規雇用者が基幹労働となっていたり、年功序列や終身雇用のような保障がない劣悪な条件で働く正社員によって提供が可能な安くて早くて便利なサービスは平気な顔で受け取っているからである。

このような従業員の犠牲の上に成り立つ商品やサービスは、彼らの崇拝する安定を真っ向から否定するものである。

だが、彼らはこのような会社に抗議し、不買運動でも展開しているのだろうか?

私の地元ではそのような抗議活動など全く起こっていなかった。

「正社員として一つの会社で安定して働き続けて、結婚して家庭を築くことこそが唯一絶対の普遍的な社会人の姿だ!!」などと口では言いながら、従業員から自分たちが支持している(つもりの)「伝統」に反する安定を奪う会社が提供する素晴らしい(皮肉)サービスには迎合して、「貰えるものは貰っとく」とばかりに、それを当然のように受け取る。

この矛盾は何なのだろうか?

・「ニューエコノミー」というキーワード

私が彼ら自称フツーの社会人の行動を理解することができたのは、数年後にたまたまこの本を読んだことがきっかけだった。

働きすぎの時代

森岡 孝二 (著) 岩波出版

その中に「ニューエコノミー」という言葉が出てきた。

ニューエコノミーとは元々は「景気循環が消滅し成長が持続する経済」の意味だったが、今ではテクノロジーの進歩によって、それまでの生活が一変する社会経済のことである。

通信、輸送、情報のテクノロジーの発展やグローバル化により、目をくらむスピードで売り手の間の厳しい競争が引き起こされる。

すると、すべての企業は生き残るために、より良い、より速い、そしてより安いサービスを生み出す。

その結果、消費者は世界のどこからでも品質と価格においてもっとも望ましい商品を速やかに購入することができるようになる。

しかし、これは労働者の安定した生活をも一変させる。

これまでの経済は「予想可能な賃金上昇を伴う安定雇用」「限られた労働強度」「賃金格差の縮小と中産階級の拡大」が特徴だった。

従業員の長期雇用や性別役割分業の家庭で豊かな社会を築くことは「近代社会モデル」と呼ばれて、日本に限らず、社会が近代化して豊かになる過程ではどの国でも見られたモデルである。

だが、ニューエコノミーの台頭で、より良い商品を手にするために、労働時間はより長く、仕事はよりきつくなり、給料はより低下して、誰もがかつてのような「近代社会型の安定した暮らし」を送ることができなくなる。

この現象は日本以外の先進国でも起こっているようであり、そのこと自体は取り立てて珍しいことではない。

たとえそうなっても、そのような社会でも安心して暮らせるように制度を変えばいいだけである。

会社が従業員の生活を守れないなら、代わりに国が保障するとか。

というよりも、変わらなければ、社会は維持できないし、人間の尊厳を守ることはできない。

どれだけ

「規制緩和反対!!」

「外国の真似ばかりしないで日本の伝統を守れ!!」

などと、叫んだところで、私たちは消費者としての利便性は手放せないし、非正規雇用者の存在なしには職場が成り立たない。(ちなみにこの本では、そのような経済状況で非正規労働者が基幹労働者となり正社員を置き換える社会を「フリーター資本主義」と呼んでいる)

新しい酒を古い革袋に入れる

問題なのはニューエコノミーのもたらす自由にどっぷりと浸りながら、自分は「伝統」的な規範に従っているつもりで、他人にもその生き方を求める人たちである。

実に矛盾した考えなのだが、本人はその矛盾に一切気づいていない。

最近、読んだ本で面白い話を見つけた。

社会を変えるには

小熊英二(著) 講談社

この本で著者は、そのような相手には「伝統的」な行動を要求するのに、自分は「自由」にふるまおうとする(自称)保守主義者たちのことを「『単純な近代化』の時代の特権層でいる感覚」という言葉で説明している。

かつての「近代社会」なら、男は18歳か22歳まで学校へ行って、新卒で就職して、定年まで勤めて、女性なら24歳までに結婚して、30歳までに子どもを2人産み、35歳になったらパートで働きに出るというようなサイクルが決まっていたが、自由がもたらされた現代は「雇用者」「農民」「主婦」といった個体のカテゴリーに区分けることで物事を判断できる「単純な近代化」の時代ではない。

その自由を得ているのは保守主義者たちも同じである。

にもかかわらず、「女は結婚して家に帰れ」「今の若者は我慢が足りん」と唱え、頑なに旧来の(近代社会的な)カテゴリーに入れようとする。

このように新しい酒を古い革袋に入れようとすると、対立と暴力が生まれる。

たとえるなら、ある経営者が「すぐに仕事を辞める若者はわがままだ!」と発言して、旧来の「若者」のカテゴリーに彼らを押し込める保守的な立場を表明する。

しかし、彼はその舌の根も乾かぬうちに、下請けの業者を選ぶ時は、従来のような人情に基いた付き合いに縛られず、世界中から自由に価格と品質のみを追求して選ぼうとしている。

こんな人も自分の妻から「何で『女だから』って理由で私がすべての家事をやらないといけないの? だけどあんたは『男だから』女の私が働かなくてもいいように稼ぎなさい」と言われたら怒るだろうから、自分が何を言っているのかが分かっていないと思われる。

当時、私が感じていた社会の矛盾はこれとよく似ていた。

経済や社会の状況が変化して、自分もその恩恵が手放せなくなっているにもかかわらず、他人には「(返せる当てもないのに)ローンを組んでマイホームを買え!!」とか「何でもいいからとにかく正社員として勤めろ(もしくはそういう人と結婚しろ)!!」と頑なに「伝統」的な行動を求める

自分一人が、かつての社会モデルにしがみついて生活を破綻させるだけであれば、それはあくまでも「自己責任」で済むのかもしれない。

だが、存在しない(もしくは達成困難な)旧時代のモデルがあたかも存在するかのような妄想を抱き、それをしつこく強要して、他人の人生を狂わせるのは宗教の暴走以外の何ものでもない。

彼らが「ニューエコノミーの恩恵を捨ててでも、全員がかつてのような安定した暮らしを手にできる社会を目指したい」というのであれば、その思想や行動は「保守」と呼ぶことができるだろう。

しかし、彼らは自分たちが支持している(つもりの)「伝統」を破壊するものでも享受して、それなしには生きられない体質になっているにも関わらず、頑なにその事実を否認して、自分たちの理想とする「伝統」以外の生き方を認めようとしない。

その結果、彼らの欲望を満たすために、以前のような安定したも、それに代わる別の保障も受けられない人が現れるわけだが、そんな彼らを、自称フツーの社会人は自分を守ってくれる(はずの)「伝統」の論理を振りかざして「それができないのは自己責任!!」だと切り捨てる浅ましい行動に走るのである。

このように冷静に考えれば両立不可能である、旧時代の安定したモデルと「素晴らしい取引の時代」のもたらす快楽の両方を追い求めた結果、身勝手な価値感に染まって他人を傷つける浅ましい獣、それが「自称フツーの社会人(過激派)」なのである。

次回へ続く

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