夢は叶わなくても、その努力が後の人生で大きく役に立っていると感じること

東京はここ数日、曇りの日が多い。

晴れの日であれば、今の時期は春のポカポカ陽気を感じることができるのに残念である。

毎年この季節になると思い出すのは、今から7年前の20153月末のことである。

・雰囲気が異なる年度末の退職

当時の私はこの記事で紹介した工場で派遣の仕事に就いていた。

その仕事は、今でこそ「いい職場だった」と思えるが、当時は嫌でたまらなかった。

だが、あらかじめ「年度末まで」という期限の定めがあったため、何とか自分を奮い立たせ、やり遂げることができた。

そのような心境だったので、契約終了数日前は毎日ウキウキしており、「残り数日で失業者になってしまう…」などいう悲壮感は微塵もなかった。

冬が明けて、毎日春の暖かい気候を感じることができるという季節的な面もあってか、あの時ほど、仕事を辞めることの喜びを感じていたことはない。

そのゴールを達成した退職記念日が今日からちょうど7年前の2015331日である。

ちなみに、前年の2014年も全く同じく331日に退職していた。

その職場では契約期間の定めこそなかったものの、働き始めた時からその日まで働くつもりだった。

工場の派遣の仕事は5ヶ月程度の勤務だったが、こちらの仕事は1年以上働いていた。

というわけで、辞めた時の爽快感はこちらの方が大きそうだが、その時の私はどことなく複雑な気持ちだった。

なぜなら、「留学費用を貯めるために働く」と割り切っていたものの、私はその職場で多くのことを学んだから。

そんなこともあり、辞める数日前は学校の卒業前よりも複雑な思いになっていた。

・留学を止めた理由

その職場では留学の費用を貯める目的で働いていたものの、結局、私が留学へ向かうことはなかった。

本題に入る前に、私が留学を取りやめた理由について簡単に説明したい。(今回紹介するのは体調不良でワーホリに行けなくなった時とは別の話)

その1年は留学の準備のために費やし、プライベートな楽しみの一切を捨てる覚悟で挑んでいた。

社員は完全週休2日の中、私は週休1日で働いたり、休日は英語の勉強や散歩、図書館での読書など少しでも貯金を増やすよう心掛けていた。

現在の私が当時と同じ生活を強いられたら耐えられる自信はない。

そこまで留学準備に情熱を注いでいたにもかかわらず、留学を取り止めた理由は3つある。

1つ目の理由は費用の問題。

私がバイトを始めた頃、ちょうど政権交代が起きたため、為替の傾向がそれまでの円高から一気に円安へと傾いた。

その結果、目標の金額を貯めることは達成できたものの、円の価値は1年間で20%近く下落していた。

あの時はニュースで耳にする為替の値動きに日々魘されていた。

その上、私が留学しようと考えていた国は新興国だったため、物価の上昇が激しく、1年間の準備期間中に授業料などの費用が一気に値上がりした。(しかも、突然50%近くの上昇だった)

2つ目の理由は英語力の問題。

留学の目的の一つは英語を話す能力を身に着けることであるため、出発前から「完璧に話せる必要がある」とは思っていなかった。

だが、この記事で紹介した通り、当時の私は1年以上勉強していたものの、会話も読み書きも全くできず、(今の物より数段性能が劣っていた)翻訳ソフトを使わなければ、生活のために必要な文の読み書きすらままならなかった。

何かを頼む時の「Would Couldyou please~?」のフレーズすら理解できなかった。

語学学校のパンフレットを見ていると、全く英語ができない人でも安心して留学ができるように、日本語が話せるスタッフが駐在している寮を完備している学校も少なくなかったが、ただでさえ円安対策で支出を抑えなければならない以上、現地でアパートを借りて一人暮らしをするつもりだった。

しかし、英検3級にすら合格できないレベルの英語力では、それができないことなど火を見るより明らかだった。

実際に、現地に下見に出かけたものの、空港でも、街中でも、全く会話ができず、現地の人から逃げ回るように時間を潰していた。

そして、3つ目はバイト先で働く自信を取り戻したことである。

そもそも、留学へ出かけたきっかけは「自分はこの社会では働けない…」という諦めからだった。

そのことは過去の記事でも何度か触れたことがある。

だが、私が働いていた職場は、バイトの私が週6日で働く傍ら、社員は当然のように完全週休2日を守り、半年仕事が続けば「ベテラン」と呼ばれるほど従業員の入れ替わりが激しく、社員がバイトから仕事を教えてもらうことが常態化するほどいい加減な会社だった。

実際に、バイトの私も働き始めて半年を過ぎた頃から、社員から頼られるようになった。

それは今までにない体験だった。

普通の人であれば「なんて会社だ!!」と呆れて敬遠するのかもしれないが、「正社員で働く以上、年功序列や終身雇用という秩序から外れることが許されない」と思い込まされていた私にとっては、「正社員でも頑張らなくていいんだ…」と勇気を与えてもらえた。

そのことで、「この国でも、こんなに自由(というか「いい加減」)に生きることが許されるなら、言葉が通じなかったり、家族から遠く離れるというリスクを冒してまで、海外へ行く必要はないはないのでは?」と考えを変えた。

変な話だが、この社会への三行半を突き付ける資金を稼ぐために働いていた職場のおかげで、この社会で生きていく自信を取り戻すことになった。

こうして、私の留学計画は実現することはなかった。(翌年、その決断は間違いだったと大いに後悔したのだが…

3つの財産

さて、私が留学することはなかったものの、留学という目標のために努力した経験が「今でも役に立っている」と思っていることが3つある。

それをひとつひとつ説明していきたい。

・①:初めて仕事に対する自発性が生まれた

ほとんど人も同じかもしれないが、留学費用を貯める前の私は、アルバイト(というか仕事全般)の時間は

「退勤時間まで会社にいるだけの時間潰し」

「上司に言われたことだけやればいい」

「とにかく早く時間が過ぎて欲しい」

と感じていた。

感じるだけではなく、実際にそうしていた。

留学費用を貯めるためのバイト先でも、当初はそうするつもりだった。

だが、そぐにそれでは通用しないことを痛感した。

別に上司が厳しかったわけではない。

問題だったのは、その会社のパート、アルバイトは所定の勤務時間が16時間だったことである。

当時は今よりも最低賃金が低かったため、時給もそれ相応だった。

それで16時間勤務では、1年間働いても目標の金額に遠く及ばない。

というわけで、工場長に頼んで毎日1時間から1時間半の残業をさせてもらったのだが、その時間は何とか自分で仕事を見つけなければいけない。

少しでもサボったり、やる気がない姿を目撃されれば、「あ、今日はもう帰っていいよ」と言われてしまう。

それだけは絶対に避けなければならない。

このことがきっかけで、初めて仕事に対して自発性が生まれた。

・②:後の人生の資本金

留学へ行かなかったことで、私の手元には費用として使うはずだった100万円が残った。

この貯金は後の人生で大きく役に立った。

その翌年は親元を離れて暮らしていたのだが、職探しが上手くいかず、1ヶ月の短期の仕事を除いて、計6ヶ月の間、職ナシの状態だった。

そんな状況だったので、貯金の100万円はとても心強かった。

そのお金があったからこそ、無職の時も精神的な安定を保つことができたし、悪質な求人詐欺を行う腐れ企業に「その条件でもいいから雇ってください!!」とプライドを捨てて土下座する必要もなかった。

「もしも、あの時、留学費用として貯めた100万円がなかったら…」と思うと、今でもゾッとする。

その数年後、東京へ出てきた時も貯金額はおよそ100万円だった。

上京までの数年間は仕事を休んでいたり、フィリピンに短期留学へ行ったりしていたから、ほとんど貯金はできなかった。

つまり、上京の際の原資は留学費用がそのまま持ち越されていたのである。

この時も、最初に仕事に就くまでに4ヶ月費やし、最初の給料が振り込まれる頃には通帳の残高が30万円に迫っていた。

もしも、100万円の資本金がなく上京していたら、私はすでに東京を去っていただろう。

今の私がこうして当たり前の生活を送れているのは、あの時、必死に働き貯めた留学費用のおかげなのである。

・③:弁当を作る習慣

留学費用を貯めていた私は少しでも支出を抑えるために、仕事の日は自分で弁当を作ることにした。

もちろん、自分で弁当を作ることなど学生の時もなかった。

それまでの私はコンビニでの買い食いが基本だったが、この期に及んでそんな食生活を続けていたらお金など一向に貯まらないことは明らかである。

しかし、普段から料理をする習慣がなかった私に手の込んだ弁当を作れるはずがない。

冷凍食品を購入すればそれなりに調理できるが、それではコンビニ買い程ではないにせよ、支出も大きい。

というわけで、昼食にはおにぎりを作ることにした。

ちなみに具材はシーチキン一択である。

その理由は2つある。

ひとつ目は一缶空ければ1週間保つためコストの面で優れていること。

そして、もう一つは炊飯器でご飯を炊いた時に生じる茶色の焦げを上手い具合に隠すことができるからである。

そんなわけで、特に好きなわけではないもの、毎日シーチキンおにぎりを作っていたのだが、ご想像通り、シーチキンの缶を開ける時は大量の油を切らなければならず、それが堪らなく嫌だった。

それでも、「留学費用のため」という一心で何とか乗り切った。

もっとも、コンビニ弁当を避けた理由は金銭的な問題だけでなく、「職場の近くに唯一あったコンビニのオーナーがこの店と同じ人物だった」という他人には隠したい事情もあったが…

勤務最終日の弁当を作る時は「ようやくこれで終わる」と安堵したことを今でも思い出す。

退職後に引っ越すことになった先の同居人の一人が、シーチキン嫌いを公言していたため、そこでは同じ弁当を作れないことは分かっていた。

「これからは、毎日弁当を作る必要はない」

そう思っていたが、私はその後も仕事へ向かう時は弁当を作り続けている。

別に好き好んでやっているわけではない。

弁当を作ることが完全に習慣となって、今ではそれをやらないことの方が気持ち悪くなっている。

というよりも、今になって振り返ると、それ以前は「よくもあんな自堕落な生活を送っていたな」と大いに呆れる。

・肩の荷が下りた一方で…

以上の3つが、留学の夢こそ叶えられなかったものの、その過程で経験した努力が後の人生で役立っていると感じていることである。

バイト先の最終出勤日()だった2014331日は今からちょうど8年前になる。

退職前に工場長と有給休暇消化の密約を結んだため退職日ではない)

有難いことに、勤務終了後には上司や同僚から送別会を開いてもらった。

そんな思い出もあってか、留学という当初の目的は達成できなかったが、その職場ではやり遂げた感があった。

だからこそ、辞める時は肩の荷が下りた気分でホッとしたものの、どことなく寂しい思いもあった。

それは、そこで働くことで自分が成長したことを実感していたからだろう。

その職場は「卒業」と言っていい程、円満に退職できたものの、その後の進路でひどい目に遭い、その時の決断を大きく後悔することになったためか、2014年の3月は数年経った後でもあまり思い出す気にはなれなかった。

だが、あの日から8年が過ぎたことで、そんなことも懐かしい思い出として感じることができるようになってきた。

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