長年打倒を試みていた相手はただの小市民だった

今の会社に勤めて半年が経った。

働き始めてひと月も経たないうちに、コロナウィルスの影響で勤務日の半数が自宅待機となったり、他の支店で受け入れができなくなった新入社員に仕事を教えたりと、いろいろなことがあった。

彼が本来配属される予定だった支店へ旅立ってからは、以前のように一人で自分の業務をこなす日々に戻った。

今の仕事はいたってルーティーンな業務である。

その日常を一言で表すと「平和」である。

退屈だが安定した毎日である。

これは最近に限ったことではない。

コロナの影響で自宅待機を命じられた時も、一日一本掛かって来るか来ないかの業務連絡の電話を取るだけで、給料は全額支給されたし、新入社員に仕事を教える時も、片手で自分の仕事をしながら、もう一方の手で人に教えるというようなことはなく、じっくりと時間をかけて彼に接することができた。

これで時給の額は地元でフリーターをしていた時の2倍以上はある。

そして、職場には顔も見たくないほど嫌いな同僚は一人もいない。

というわけで、私は朝起きた時に「仕事に行きたくない!!」と思うことは全くない。

また、勤務地は自宅の最寄り駅から1本の電車で通える場所にあり、通勤時間は家から職場までで1時間を切る。

退勤時間は1730分前である。

このように、私は恵まれた環境で働いている。

のだが、私の心はどうも複雑な感情が入り乱れている。

そして、こんなことを思う。

こんなはずではなかった!!

いや、決して他にやりたいことがあるわけでも、刺激が欲しいわけでもない。

ただ、当初予期していたことと全く違う展開に戸惑っているのである。

・大企業は社会の鏡?

これまで何度かブログで書いた通り、私は東京の中心部にある会社で派遣社員として働いている。

その会社は全体で1万人を超える従業員を雇っていて、毎年定期人事異動や新卒採用を行っている大企業である。

私はそこで事務の仕事をしている。

これまで私は大手の保険会社で短期の仕事をしたことこそあったが、その時はあくまでも繁忙期の一時的な仕事であり、業務の内容も倉庫のような部屋で、ただ書類を整理しているだけの仕事だった。

だから、自分は「その場所で働いている」とは思っていたが、「その会社で働いている」という意識はなかった。

しかし、今回は違う。

電話や訪問客に対しては、「○○会社の早川ですけども…」と言って、堂々と会社の名前を出すことが出来る。

仕事上、会社にまつわる様々な情報が行き交う。

派遣社員といえども、巨大組織の一員を気取ることができるのだ。

このような環境で働いたことは一度もなかった。

というか、働きたいとも思わなかった。

これまで何度も書いた通り、私はこの社会で「社会人」と自称している人間が大嫌いである。

年功序列や終身雇用といった既得権を守るため、非正規労働者を搾取し、下請け企業をいじめ、子会社には「出向」と称した天下りをするなど、弱者からとことん搾取する邪悪で醜い性格。

自分たちは単純な近代社会を生きているつもりで、他人に「伝統」的な振る舞いを求め、それに反する人々を人の道を踏み外した外道とみなしながら、一方ではグローバル化や非正規労働者の増加がもたらす「自由」の恩恵は骨の髄までしゃぶり尽くすという二枚舌。

そのような言動不一致にもかかわらず、何の恥じらいもなく堂々と「社会人」を自称する厚かましさ。

私は、たとえ「外道」と呼ばれることになっても、このような人間を「敵」と認識して徹底的に不服従を貫くと決めた。

こんなことを考えているのは私だけかもしれないが、大企業というのは社会を映す鏡だと思っている。

中小企業は良くも悪くも多種多様なのだが、大企業は業界は違えど、組織も個人も均質化されているような気がする。

だとしたら、私が憎み続けた自称社会人はこのような会社で働く人間に違いない。

そう思って、私にとって大企業とは悪の権化のような存在で脊髄反射的に拒絶していた。

そのため、派遣会社から今の仕事を紹介された時は渋ったが、これもある意味では良い機会になるのではないかと思った。

私はフツーの生き方を拒絶するという形で抵抗を試みる道を選んだが、彼らを打倒する野望を忘れたわけではない。

「内側に潜り込むことができれば、それまで知らなかった敵の弱みを見つけることができるかもしれない」

そう思って、今の会社で働くことを決めた。

・組織の掟

これまで嫌っていた組織に潜り込んで早半年、幸いにも私が働くことになった部署では、人事関係の仕事を扱うこともあり、それなりの情報はつかめた。

先ず会社組織について言えば、いかにも日本的大企業という感じである。

正社員の大多数は新卒からの叩き上げで、一応中途採用も行っているようだが、採用するのは毎年4月入社に合わせた一度だけのようである。

そして、7月に大規模な人事異動があった。

人員配置は本社の人事の判断で行われるようである。

一応、本人の希望や所属長の要望も取り入れられるようだが、人事部の決定は絶対のようだ。

ちなみにこの会社、企業方針なのか、社内広報誌やポスターでことあるごとに「多様性」というワードを多用している。

その一方で、現場レベルの本音としては依然として旧態依然の性別分業の意識が強い。

たとえば、部署は違えど同じフロアで働いている正社員の女性は小学校就学前の子どもがいるため、元々は出世コースを進んでいた人だったが、今は「マミートラック」と呼ばれる時短勤務ではあるが単純な事務作業を行っている。

逆に(私の知る限りではあるが)男性でこのような子育てを優先する働き方をやっている人は一人もいない。

ちなみに、女性で役職がついている人は全員独身である。

これも仕事にすべての労力を投じることができなければ昇進などできないという本音が出ているのだろう。

その他にも、上司は名前ではなく役職で呼ぶ、回覧は絶対に役職順に反してはならない、社内メールを送る時は必ず指定されたテンプレートで送るなど想像していた通り、組織の掟を重んずる秩序があった。

・どんな人たちなのか?

前段で取り上げたのはあくまでも組織の在り方である。

次は今回の潜入の目的である「そこで働くのはどのような人たちなのか?」について紹介したい。

前述のとおり、私はこれまで大企業は社会の鏡であり、そこで働く人たちは「社会人」と自称する人間を具現化したような存在、すなわち自分を迫害する邪悪な敵のような生き物だと思っていた。

だが、目の当たりにして感じたのは、彼らは私がこれまで一緒に働いてきた人と同じように、いや、それ以上に己の無力感を感じ、組織の力に怯えている人たちであるということである。

たとえば、隣の課の課長は大阪の出身で、単身赴任で東京へやって来たのだが、仕事以外の話をする時は、二言目には「早く帰りたい」と言って、いかに東京が住みにくい場所であるかを嘆いている。

ちなみに彼は私が同じく地方出身で一人暮らしをしていることを知ると、私に東京批判への同調を求めたり、故郷の良さを話したがることが多々ある。(なお、私の出身は大阪よりももっと西の方であることを断っておく)

派遣社員の私にそんな話をする程、彼は会社の人事に対してやるせない不満があるのかもしれない。

また、私の向かい側の席に座っている女性は主に人事関係の仕事を担当しており、7月に人事異動があった時は異動者本人たちと直接電話で話していた。

私は少しでも情報を得るために、彼女の話に聞き耳を立てていた。

電話の内容は単純な事務処理のためだったようであるが、通話時間がやたらと長かった。

しかも、その大半は彼女は言葉を発さずに聞き役に徹して、最後に励ますような言葉をかけていた。

おそらく、先の課長と同じように異動先の部署に馴染めないから、彼女にその愚痴をこぼしているのだろう。

しかし、メンタルヘルスのホットラインがあるにもかかわらず、その話を彼女にする必要はあるのだろうか?

彼女は年配の女性でお母さんのような温かさがあるため、そのような話をしやすいのかもしれないが、自分から相談の電話をかけることができず、仕事としてかかってきた電話に密かにSOSのサインを出しているのかもしれない。

・楽天家たち

しかし、その一方で生き生きと働いている人たちもいる。

私が彼(彼女)らを見て思ったのは、えらく楽観的であるということである。

それは組織の力を笠に着るような自信ではなく、人に頼ることや迷惑をかけることを恥じだと思っていないことから生じるもののようである。

たとえば、働き盛りと呼ばれる年齢の男性社員が、毎月2回ほど「風邪を引いてお腹が痛い」「熱が出た」といって仕事を休むことがある。

私は別にそれが「悪い」とは全く思わないのだが、「こんな大きな会社で総合職として働く男性社員は出世がすべてで、風邪で休んだりしたら、そのコースから外されると怯えているものではないのか?」と思っていた。

ちなみにこの方は特段の事情がない限り毎日定時で退社している。

彼は小学生の子どもがいて、東京近郊にマンションを購入しているようだが、そんな人でも風邪で会社を休むことを屁とも思わなかったり、毎日のように定時で退社するのかと衝撃を受けた。

また、別の社員は私がExcelで行っている支払処理で、「ここに、VLOOKUPで数式を組めば、入力を簡略化できて、ミスも防げるから」と言ってフォーマットの変更許可を願い出たところ、「VLOOKUP」という関数を知らずに「え!? そんなことができるの!?」とえらく驚いていた。

そして、私にその理屈と使い方の説明求め、自分のやっている業務でも同じことができないかと言って、私に協力を求めた。

ちなみにその方、私の所属する課の副長である。

部下の見ている前で、派遣社員に教えを乞う姿を晒すことに抵抗はないのか?

そして、課長は新入社員に仕事を教える記事でも書いた通り、派遣社員の私に新卒社員の教育を完全に丸投げするような人である。

私のような部外者を信じるほど器が大きいのか、ただの間抜けなのかは知らないが、究極の楽天家である。

この会社には他にもいい加減な人が多くいる。

人事異動で配属先が変わった後も同じ携帯を継続して使用しているにもかかわらず、電話の使用料金は以前の部署に払わせ続けていたり、数年前に事務所が移転したものの、備品を納品している業者には未だに住所変更の届出を出さずに、郵便局の転送サービスを利用し続けるなど面倒なことは見て見ぬフリをするかその場しのぎで済ませることがいたるところで見られた。

・感じるのは喜びではなく寂しさ

これが私が嫌っていた大企業で半年間働き、内部から覗いた感想である。

これまで鬼か魔王のような存在だと思っていた相手は、実は自分の所属する組織に怯えたり、いい加減な楽天家という小市民に過ぎなかった。

だが、それを知った時に感じたのは、意外に簡単に瓦解できるのではないかという喜びではなく、一抹の寂しさである。

私は今までこんな人たちを敵だと思って生きてきたのか…

たしかに、自称社会人のようなゲス野郎は、彼らへの復讐を誓ってからも度々目にしてきた。

しかし、この社会の鏡とも言うべきこの大企業の中にはそのような人間は存在しなかった。

ここで、これまで想像してきた「カイシャ」の一端を見たことは事実である。

永年勤続表彰のような行事(休日に行う)に社員を強制的に参加させるとか、企業からの一方的な配置転換とか、性別役割分業とか。

それでも、個人レベルで私が予期していたような悪行に手を染めている人間はいなかった。

私に対しても「派遣社員だから」という理由でロッカーや食堂の使用を制限したり、休憩時間に仲間外れにするということも一切なかった。

仕事に対する態度を見ていても、毎日の業務を淡々と行っているだけで、取引先に強引な値下げを要求したり、宅配業者に無理を言って、指定時間以外の集荷配達を依頼するということも目撃したことはない。

その理由はこの会社が「売り上げ!! 売り上げ!!」「数字!! 数字!!」と他社を蹴落としてでも業績を上げなければいけないような会社ではないことも影響しているのかもしれないが…

以前、このブログの読者が弟子入りを志願した時に、彼にこんなことを伝えたことがある。

大企業の正社員として働き、非正規労働者と比べ物にならないほどの雇用の安定と福利厚生の恩恵を受けていても、貧困問題に関心を持って、休日にボランティア活動をする人もいれば、自分が非正規労働者であるにもかかわらず、自分の置かれているみじめな状況を否認するために、より弱い存在を叩くことで自分を慰めようとする腹の底まで腐っている奴もいる。

それゆえ、その人の属性や社会的地位だけで、敵か味方かを判断することはできない。

他人にそう説教しておきながら、私も同じような癖に陥っていたようである。

さて、問題はこれからのことである。

もちろん、この会社で働いている人がそうだからと言って、私が恨んできた存在がこの社会に実在しなかったというわけではない。

だから、これまでの生活や考え方をすべて改めるわけにもいかない。

しかし、このまま今の道を突き進んでも、得られるものがないことも分かっているつもりである。

その答えはまだ見つかっていない。

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