上京前に地元の友人と最後の食事をする

前回の記事は私が学校卒業後にかつての恩師であるS氏(仮名)と再会した時の話をした。

その中で、成人式の数日後に、タイムカプセルを回収するために彼女の勤務先を訪れる話をしたが、その連絡をしてくれたのは元同級生のマサル(仮名)だった。

彼は学校卒業も付き合いがある友人だが、この3ヶ月前に就職したため、この頃はすでに疎遠になりかけていた。

だが、この時は次に会うのが、まさかこの6年後になるとは夢にも思っていなかった。

前回の記事の主人公であるS氏は今でも恩師と慕っているが、彼女のクラスにいた時は今後の人生を決定づけるような特別なエピソードがあったわけではなく、特に彼女に憧れていたわけでもない。

そのことはこの記事でも触れた通りであるが、偶然にもその記事のもう一人の主人公はマサルだった。

そんな縁もあり、今日は彼と再会し、私の上京前に彼の自宅で最後の食事をした時の話をしたいと思う。

・再会の後日談

前出の記事では、マサルとの思い出には、絆が深まることを表す感動的なエピソードがほとんどなく、大半は何気ない日常を共に過ごしたことであると書いた。

そんな中で、今でも思い出せるようなエピソードを2つ紹介した。

ひとつは、初めてプライベートで会った小学生の時の話。

そして、もうひとつは、6年間音信不通になった後に再会した時のことである。

その再会は、この記事で紹介した通り、偶然によるものだった。

今日取り上げるのは、その時の後日談である。

再会当日は彼の母親が彼を力づくで家に引き入れたため、とりあえず、手紙だけ渡して帰宅することになった。

その数十分後、私の携帯に彼から電話が入る。

彼との会話が噛み合わずにいると、彼の母親が電話を代わり、火消しのつもりなのか、彼の状況を洗いざらい告白した。

そこで初めて、連絡が取れなくなって以降の彼の様子を知った。

どうやら数年前に統合失調症が発生し、それまで隠していた(つもりなのだろうが、周りは皆気付いていた)発達障害や知的障害の症状も抑えられなくなったらしい。

本人から直接聞いたわけではないが、彼が通っている施設は障碍者手帳を交付されなければ利用できないことから、度合はなかなかのものだと思われる。

彼の変わり様には驚いたが、とりあえず再会できたことには一安心だった。

彼への手紙には私が上京することと、その前に一度でもいいから、また食事へ出かけたいことを書いていた。

その手紙を読んだ彼の母は、彼の状況を考えると、外食は難しいが、彼も前向きであるため、私を家に招待して夕食をごちそうしてくれることになった。

・沖縄へ行きたい?

当日、私は約束の時間である夕方の6時半にマサルの家を訪れた。

以前はよくお邪魔した場所だが、この時に訪れるのは数年ぶりだったため、これまでとは違う気持ちになった。

子どもの時はよくドンちゃん騒ぎをしたため、彼の家族(特に母親)から疎まれて、外へ遊びに行くよう促されたが、今では逆に歓迎されていることを考えると不思議な気がする。

彼の家族が、彼と私が水入らずの会話を楽しめるように配慮してくれて、食堂でなく、子どもの時によく遊んでいた客室で、彼と二人で食事をすることになった。

こうして彼と食事しながら雑談をする機会は、何年も望んでいたことだが、いざとなったら何から話していいか分からなくなる。

事前に彼の母から聞いた話では、彼は先の症状を発症して以降、他人の話に興味がなくなり、所かまわず自分の頭の中で想像していることを口にするようになったため、会話が成立することが難しくなったらしい。

この日の彼は何の前触れもなく突如、「沖縄へ行きたい」と言い出して、イリオモテヤマネコや宮古島の野球場の話を始めた。

彼の母が心配していたことが早くも起こった。

といっても、彼は以前から沖縄に憧れる発言をしていたことがあり、「沖縄へ行きたい」と言うのも初めてではなかった。

以前であれば、私も彼の話を適当に聞き流していたが、彼と離れ離れになった後で、自分も真剣に沖縄行きを考えることになったことを打ち明ける。

そこから、話題は過去の仕事の話へとシフトした。

前に彼と会っていた時は親のコネで入ったアルバイトの経験しかなかったが、その後はいくつもの仕事を転々とした。

それでも、正社員として働くことはなかった。

自分の意志で選んだこととはいえ、それを同世代の人に対する後ろめたさに感じることがあった。

だが、実のところ、それは彼も同じで、最初の仕事こそ、「自営業者の手伝い」という形だったが、その後はバイトや派遣の仕事を転々としていたようである。

派遣の仕事で工場の仕事に就いた時は一日で退職したこともあったらしい。

普通の人であれば、それを聞いて呆れるかもしれないが、私はホッとした。

なぜなら、当時は彼だけでなく、もう一人の遊び仲間だったカンダ(仮名)も去ったことで、私は自分一人だけが置いて行かれた気になっていたから。

・過去の因縁も笑って流す

その後は、彼と別れて以降、私がどんな生活を送っていたのかについて話した。

彼の就職と同じ時期にカンダも去ったため、友人とは数年間あっていなかったこと。

突然、仕事をクビになったこと。

自動車学校へ通って、免許を取ったこと。

仕事を何度も辞めたこと。

ハローワークへ行って仕事を探すようになったこと。

海外を目指して英語を勉強するようになったこと。

彼は私が学生時代に英語が苦手だったことを憶えており、後に英検準1級を取得したことを驚いていた。

ちなみに、その時の反応は「凄ーい!」というよりも「何で今になって英語の勉強を?」という疑問だった。

その理由は前段の沖縄への逃亡計画とも関係するが、この記事で書いた通り、友達がいない疎外感や、海外へ行けば以前と同じ生活が送れるかもしれないという期待感からだった。

もしあの時、それまでと変わらず友人たちと楽しく過ごしていたら、海外へ目を向けることも、英語を勉強することもなかっただろう。

要するに…

お前が原因だろうが!?

ということになるのだが、さすがにこの頃になると、そんなことも笑って振り返るようになっていた。

・俺の分も頑張って

そんな楽しい話を過ごしていると、あっという間に9時近くになり、別れの時が来た。

私が東京へ出たら、実家に帰るのは1年に1回程度になるだろうから、そう簡単には会えなくなる。

だが、6年前に彼が去った時と違い、今回はしっかりと別れの挨拶を済ませることができた。

帰り際、彼が私にこんなことを言った。

マサル:「向こうへ行ったら、俺の分も頑張ってね」

それは彼が私に希望を託す言葉だった。

これまで、彼からそんな言葉を聞いたことがなかった私は戸惑い、「え、まだ死ぬわけじゃないでしょう…」と、素っ気ない言葉を返すことしかできなかった。

あの時の別れからおよそ5年が経過しようとしており、再会した後の時間も、音信不通だった期間と同じくらいまで迫ってきている。

その後、彼と会った回数は5回程度であり、直近でも1年以上は会っていない。

今では彼が私のことをどう思っているのかは分からない。

しかし、私は(ようやく昨年くらいからだが)彼があの時伝えた言葉の意味が分かるようになった。

果たして、今の私は彼が希望を託すにふさわしい人間になっているのだろうか?

最近はそんなことが気になっている。

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