数年間、車の運転から離れたことで感じる「やっぱり車の運転って危険じゃない?」

今の私は東京23区という都心部に住んでおり、車を所有していない。

最後に車を運転したのは、もう3年以上前である。

地元に住んでいた時は車で出勤していたため、毎日のように車に乗っていた。

当時の私にとって、車は生活に不可欠なものだったが、21歳で免許を取るまでは「自分が車を運転するなどとんでもない!!」と思っていた。

そんな私が免許を取得した理由は、このブログで何度も紹介した通り、仕事をクビになった後も実家に住み続ける大義名分を確保するためである。

不本意ながら免許を取得したのだが、実際に車を運転すると、「楽しい」と思えることもあった。

今まであれば、バスや徒歩で赴いていた場所へも車で行くようになった。

買い物はすべて車で行うようになった。

仕事で通える範囲も広がった。

いつしか、車がない生活など考えられなくなった。

だが、東京へ出てきて以降、車の運転は全く行わなくなった。

保険の関係で、実家に帰った時も車の運転はできない。

それでも、特に不便は感じない。

そして、車から離れた生活に慣れた今だからこそこんなことを感じるのである。

「やっぱり、車の運転って危なくない?」

・一歩間違えたら大事故だった

今でも私は自動車免許を所有し続けているため、車の運転自体は可能だが、運転することになったら、たぶん、免許を取ったばかりの頃よりも緊張するだろう。

実は以前、派遣会社から車の運転を伴う仕事を紹介されたことがある。

採用されることはなかったが、話の進行中に担当者から仕事内容を聞かされると、自分が運転する車が事故を起こしてしまう恐怖に怯えた。

幸運なことに、私はこれまで無事故も無違反だが、事故を起こしそうになったことは何回かあった。

その時のことが頭に浮かんだのである。

今日はその時の話をしたいと思う。

・①冬の曇りガラス事件

免許を取得した数日後に早くも事故を起こしそうになった。

その日はバスで出かけていた母親を迎えに行くために、自宅から10kmほど離れた停留所に母親の車を運転して向かうことになった。

当初は私一人で出かける予定だったが、たまたま親戚が家にやって来ていたため、彼も興味半分で同行することになった。

出発の時間帯は午後7時頃だったが、12月の初旬だったこともあり、東京よりも日没が遅い西日本でもすでに真っ暗だった。

ライトを照らして運転することは初めてではなかったため、夜に運転することは特に不安を感じなかったが、出発直後に異変が発生した。

すでに12月に入っていたためか、出発後数分で、フロントガラスが曇ったのである。

すぐに視界が見えなくなり、「ヤバい!!」と感じたが、フロントガラスが曇った時の対処法は自動車学校でも教わったことはない。

焦っていると、同乗していた親戚が「こんな時はヒーターを付ければいいんだ!!」と助言してくれた。

だが、ヒーターの電源がどこにあるのか分からない。

このまま運転するのは危険だと判断し、すぐにどこか近くに車を停めることにした。

幸い、近くに大型のホームセンターがあった。

そこに車を停めようと思ったが、フロントガラスはすでに前方車両の尾灯しか識別できないほど曇っており、入口がどこなのか分からない。

結局、そこには立ち寄れず通過してしまった。

信号が赤なのだろうか、前方の車が停車した。

その際、同乗していた親戚が、「車内温度を車外と同じくらいまで下げれば、曇らないはず!!」と提案した。

私は4ヶ所の窓をすべて全開し、信号停車のわずかな時間に彼と二人で、フロントガラスの曇りをすべて拭き取った。

この作戦が功を奏して、ガラスの曇りは消滅した。

無事に危機は脱出。

もしも、彼がいなかったら、私は重大事故を引き起こしていたかもしれない。

ちなみに、私は帽子を被っていたため、外の冷たい空気が入ってきても、何とか凌げたが、同乗していた彼には辛い思いをさせてしまった。(命の恩人なのに)

・②:下り坂後退事件

次の事件はその数年後、すっかり初心者マークから卒業した頃に起きた。

私は農作業の仕事に就き、トラックを運転することになった。

そのトラックはマニュアル車だが、自動車学校を卒業して以降、オートマ車しか運転する機会がなかったため、マニュアル車の運転技術はすっかり鈍っていた。

一応、面接の際もそのことは申告していたが、「早く道を覚えるため」と称して、3日目からトラックを運転することになった。

最初こそ、ほとんど車が通らない道を走っていたため、何とか無事に進んでいたが、坂道で信号待ちをしていた際に、上手く発進できず、後ろの車からクラクションを鳴らされてしまった。

しかも、同乗していた先輩社員からも怒鳴られることになった。

その後も、心臓がドキドキしながら無事に進んでいたものの、坂道で対向車とすれ違うために停車した後に、信号の時と同じく上手く発進できずにいた。

そこはかなりの山道であり、幸運にも後ろは走る車はなかった。

だが、なかなか発進させられないばかりか、逆に坂道を後退してしまった。

すると、一人の老婆がトラックの後ろを横断していた。

私はパニックになったが、夢中でサイドブレーキを引いた。

辛うじて、車の後退は止まった。

先輩社員が老婆の無事を確認すると、その後の私は彼から散々怒鳴られて、結局彼が運転を替わることになった。

今振り返っても、この時が自分でも最も危険な事故を起こしてしまう可能性があったと思っている。

自動車学校で「マニュアル車の後退を防ぐには、とにかくサイドブレーキを引くこと」と教わったことを覚えていなかったら、あの時、一人の命を奪っていたかもしれない。

なお、私がその日限りで退職を決意したのは言うまでもない。

・③:パトカー正面衝突未遂事件からの…

次の事件は前2件のように「危機一髪」というものではないが、一歩間違えると大事故になっていた可能性があった。

当時20代半ばの私は、免許を取得してすでに5年近くが経過していたため、運転に関して、ある程度の知識や経験はあった。

仕事へ向かう途中の交差点で信号待ちをしていた。

信号が青に変わると、私は直進しようとした。

すると、左折しようとした対向車が歩行者の横断を待つために一時停止していたのだが、(対向車の)後続車が、左折待ちをしている前方車両を追い越すために、私が直進していた車線に進入してきた。

ちなみにその車とはパトカーであった。(もちろん、サイレンは鳴らしていない)

私はとっさにハンドルを左に切って回避した。

こうして対向車のパトカーは無事に(?)通過した。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わずに。

何とか正面衝突は回避できたのだが、ここで重要なのは「私の的確な判断が事故を防いだ」ということではない。

よくよく考えると、私はポリ車を回避するために、左にハンドルを切って歩道に入り込んだわけだが、もしも、その時に歩行者が横断していたら、彼らを轢き殺していたかもしれない。

警察の不祥事によって、犯罪者が生まれてしまうとはまさにこのことである。

過去2件は車の運転に慣れていないが故に起こしてしまった事件だが、今回はとっさのできごとであり、たとえ何十年も安全運転を続けたとしても、ある日突然起こしてしまう危険性がある。

しかも、回避できた理由は歩行者がいなかったという幸運に過ぎない。

・すべては運が良かったから

以上の3つが、今でも「あの時は危なかったなあ…」と思うできごとである。

その他にも、小さいながら、危なかったできごとはいくつもある。

走行中にフロントガラスの汚れが気になり、ウォッシャーを噴射したが、その日は真冬日だったため、液体が固まってフロントガラスに張り付いて、前が見えなくなったことがあった。

その時は周囲に車が走っておらず、すぐ近くに市役所の駐車場もあったため、何とかそこまで辿り着き、暖房で氷を溶かすことにした。

また、夜中に初めて通る片道2車線の道路を走行中に、気が付いたら、1車線になっており、「もしも右側車線を走行していたら…」と思い「ヒヤッ!」としたこともある。

交差点で右折待ちをしていると対向車のバスがパッシングをした道を譲ってくれたため、「早く行かなきゃ」と焦り、後方確認を怠って右折してしまったこともある。

あの時も、後で冷静になって、「歩行者も自転車もいなくてよかった」と安堵した。

対向車との間隔を見て、自分で「行ける」と判断する時は、余裕を持って、歩行者を確認するが、対向車がパッシングした場合は、こちらも準備ができていないことや、「相手を停車させてはいけない」とプレッシャーを感じて、確認を怠ってしまうことが珍しくない。

これらが大事故に至らなかった理由はすべて「運が良かったから」である。

少しでも運命の歯車が狂ったら、私は一生かけても償えない程の大事故を引き起こしていたかもしれない。

そう思うと、今は車を運転することが怖くてたまらない。

だが、免許を取得する前はそれが当たり前の感覚だった。

むしろ、「便利だから」、「車がないと生活できないから」と理由をつけて納得していた時の方が、感覚が麻痺していたのだろうか。

私が再び車を運転する日は来るのか?

それは分からないが、あの時と同じ気持ちで運転できる自信は全くない。

スポンサーリンク