2013年11月18日。
前年よりマレーシアに留学することを夢見た私は1年間黙々とバイトと語学学習に打ち込み、ついに現地の下見を行うことになり、空港まで到着した。
そして、いよいよ飛行機の搭乗時刻が訪れた。
・初めて足を踏み入れる世界
ゲートを出た後は通路に沿って歩くと乗務員が立っていた。
そこが飛行機の搭乗口である。
機内に入ろうとすると乗務員が挨拶をする。
「你好」
そうだった。
ここはまだ日本の空港だし、乗務員の顔立ちも日本人と変わりなかったため、忘れていたが、私がこれから利用するのは中国の航空会社だった。
当然、乗務員は中国語で話しかけてくる。
私は英語だけでなく中国語も勉強していたが、初めて生で聞く中国語に面食らい、挨拶を返す余裕などなかった。
指定された座席に着くと、席に備え付けてあった緊急時の対応マニュアルに目を通す。
英語と中国語だけの解説だったので、中身は全く分からん。
取り敢えずイラストだけで理解する。
機内放送が始まった。
こちらも中国語と英語を使用していたが、さっぱり分からん。
あれだけ英語と中国を勉強していたにもかかわらず。
いよいよ出発の時間だ。
飛行機はゆっくりと動き出す。
離陸の直前、今まで感じたことのない轟音が鳴り、とてつもない速さのスピードになった。
私は自分が未知の世界に入り込んだことを実感した。
窓際の席だったため、飛行機の上昇中に窓の外を見てみた。
よく知っているはずの街なのだが、建物が今まで見たことのないくらい小さくなっている。
私は恐怖を感じて、外を見るのをやめた。
視界もそうだが、私が最も怖いと感じたのは、上昇する飛行機の角度だった。
この飛行機は一体どこまで上昇するのだろうか?
その日の天気は曇りだったが、急に周りが明るくなった。
機体は雲を突き抜けて太陽が見えるようになったのだろう。
機体が水平になったような気がしたため、ここで、勇気を出して窓の外を見てみる。
窓の外は雲しか見えない。
一体、どのくらいの高度を飛んでいるのだろうか?
予定では上海までの飛行時間は約2時間である。
いつもの2時間など(仕事中を除いては)あっという間だが、私はこの時間がとてつもなく長く感じた。
とにかく、この時間が早く過ぎて欲しかった。
飛行機は問題なく飛行していたが、私は「墜落するかもしれない」という恐怖に満ちていた。
1ヶ月ほど前、職場の昼休みに同僚のタケダ(仮名)と話したことを思い出した。
私たちは昼食後に屋外でたわいない話をしていたのだが、その時に飛行機が飛んでいるのが見えた。
彼は飛行機に乗ったことが一度もないらしい。
それを聞いた時は「60年近くも生きて、一度も飛行機に乗らないなんて、随分と狭い世界だけで生きているんだな」と思っていたが、空の上で墜落するかもしてない恐怖に怯えている私は「そういう生き方の方が私に適しているのではないか」と思った。
あの時の平和な時間が果てしなく尊く感じた。
そんな気持ちでいると、機内サービスが始まった。
食事はホットドッグだった。
正直言って味は全く憶えていない。
乗務員が無事に機内サービスをできるくらい、問題なく運行できていることがわかって安心した。
・あれだけ勉強したのに…
食事が終わったら、ドリンクのサービスが始まった。
乗務員が「お茶か?コーヒーか?」と訊ねる。
私はお茶もコーヒーも中国語で分かっていた。
コーヒーが欲しかったので中国語で「咖啡」と答えようとした。
こんなの朝飯前である。
だが…
「かー、かー」(文字の大きさは声の大きさだと考えてほしい)
言いたい言葉が出てこない。
やはり、一人で単語の書き取りをすることと、実際に相手がいる上でのコミュニケーションは勝手が違った。
コーヒーが言えないなら、「茶」と言ってみようと思い、お茶を注文しようとした。(「何でこんな発想になるのか?」と思う人もいるだろうが、私はたまに優柔不断になる)
「ちゃー、ちゃー」
一言だけなのだが、私は怖気づいて、こちらもハッキリと言えない。
結局、英語で(というよりも日本語で)「コーヒー、プリーズ」というのが精一杯だった。
なんという情けなさであろうか…
しかし、これが今の私の実力なのである。
墜落するかもしれない恐怖は和らいだが、自分の力のなさを痛感させられた。
そんな中、飛行機は着陸のアナウンスらしきものが放送された。
機体がどんどん下がっていく。
窓の外には海が見えた。
続いて陸地も見え始めた。
何にもない更地だった。
今まで何度も見たことのあるような土地だったが、ここはもう中国であり、日本ではない。
当然、日本とは法律が違うため、これまでの常識も通用しないかもしれない。
私は気を引き締めた。
ようやく空港が見えた。
飛行機は徐々に機体を下げ、無事に上海浦東国際空港に着陸した。
着陸して外に出た私は驚いた。
私は搭乗橋があると思っていたが、扉にはタラップがかかっているだけで、そこを降りると周りには飛行機しかいない。
そんな所に乗客が集まっているのである。
空気が冷たく、風も強い。
しばらくすると、迎えのバスが到着した。
だが、乗客数に比べてバスが小さく、すぐに満員になった。
東京の通勤ラッシュ帯の電車並みに。
てっきりバスがもう一台来るのかと思ったが、乗務員らしき女性が車内の乗客にもっと詰めろと指示してきた。(それもかなり高圧的な態度で)
建物に着いた私は入国審査の列に並んだ。
上海に来たのは乗り換えのためで、通常、トランジットのみの利用なら入国審査は不要だが、待ち時間が9時間近くあったため、その間に市内を探検したくて入国することにした。
審査係は中国語で質問してきたが、例によって何を言っているのかさっぱり分からない。
適当に相槌を打っていたら、あっさりとパスポートにハンコを押してくれて、入国許可が下りた。
中国は良くも悪くもいい加減な国のようだった。(注:2013年時点の話です)
・リニアと地下鉄に乗る
私は空港の中を一回りした後、外に出てみた。
車が走っているのを見たが、中国は日本とは違い右側通行だ。
「ここは外国なのだ」と改めて感じた。
私が空港の外に出たいと思った理由の一つはリニアモーターカーに乗ってみたかったからだった。
乗り場を探していた時に私が違和感を持ったのは案内表記が英語と中国語の2か国語だけで、日本語の表記がなかったこと。
私が上海に来る前に利用した日本の空港は日本語、英語、中国語、韓国語の4か国語が表記されていたため、「国際都市(のイメージを私は持っていた)上海の空港もこれくらいあるだろう」と思っていたが、その予想が外れた。
しかし、それ以上に期待外れだったのは私の英語と中国語の使えなさだった。
私はリニアの切符売り場らしき窓口は見つけ、ここで切符を買う時のために中国語のフレーズも暗記していた。
だが、私は機内や入管で中国語が理解できなかった体験から、対面の窓口で切符を買うのが怖くなった。
切符を買いたいけど、怖くて窓口に並べない。
だからといって、もしボーっと立っていたら、空港の職員に「何をお探しですか?」というように話しかけられるかもしれない。
そうしたら、また中国語が話せない私は立ち往生してしまう。
そんなことを考えていた私はリニアに乗ることをあきらめようと思った。
しかし、幸運にもリニアの切符を売る自動販売機を見つけ、何とか切符を購入できた。
リニアに乗った時は「意外にも閑散としているな」という印象を受けた。
行先が竜陽路(龙阳路)という上海の中心部ではない場所だったこともあるのかもしれないが、私が乗車した車両の乗客は10人もいなかった。
出発した列車はどんどんスピードを上げた。
最高時速は400km程度と飛行機の半分程度だが、飛行機と違い地上を走っているため、周りの建物や車が見たことも無いスピードで視界から消えていき、高速で走っていることを実感する。
列車はすぐに終点に着いた。
駅を出た後は何か買ったり、食べたりということはせずに適当に散歩して、地下鉄で空港に帰ることにした。
切符を買った私は駅に入る前に、しばらく人の動きを観察していた。
驚いたのは駅の中から出てくる人が開かない改札のゲートでも、それを飛び越えて通り抜けていたことだった。(それも自然な流れで)
無銭乗車なのか、しょっちゅう機械が壊れているので壊れたゲートでも当たり前のように通行しているのか分からないが「これが中国という国なんだなあ」と思った。
私は上海の地下鉄2号線(東西線)という路線に乗る。
空港に行くためには途中の広蘭路という駅で乗り換えなくてはならない。(現在は直通運転をしており、乗り換え不要)
日本の地下鉄なら何のことはない乗り換えだが、私は乗換駅を間違えないように、何度も次の停車駅の案内を注視していた。
日本を訪れる外国人もこんな気持ちなのか…
無事に乗り換えを終え、列車が終点近くになると地上を走っていた。
対向列車を眺めていて思ったのは中国の列車は車と同じ右側通行だということ。
電車の中は日本と同じような感じだったが、やはりここは外国である。
今の私は外国にいて、言葉が全く通じず、案内の看板もほとんど読めない。
この時、私は不安で押しつぶされそうになっており、日本に居た時に感じていた「海外行くぞ!」というワクワク感は完全に消失していた。
空港に戻った私はひたすら空港内をうろつきながら時間を潰した。
・心の底からホッとしたのもつかの間
日も暮れた頃、空港の連絡通路の真ん中あたりで、外を走っている車を眺めていた。
大型の道路とはいえ、車が物凄いスピードで飛ばしている。
ウィンカーを出さない走路の変更など危険な運転も目立った。
「やっぱり外国は怖いなあ」と思ったが、次の日にこんな光景が大人しく見えるほどの世界に行くことになる。
搭乗時間の2時間前に私は利用する航空会社のカウンターで手続きをしようとした。(ちなみに、KL行きも同じ中国系の航空会社を利用する)
だが、案内の文字が読めない。
そもそも、上海から乗る乗客と、私のように一度、別の空港で搭乗手続きを済ませた乗客は同じカウンターに並んでいいものなのか?
空港内の地図は事前に印刷したものを持っていたため、空港内で迷子になるということはなかったが、トランジットのやり方は事前に調べていなかった。
カウンターの近くに案内係らしき男性の職員がいた。
私は勇気を出して彼に英語で話しかけることにした。
「Excuse me. Can I check in…」
彼は私に中国語で話してきたが、私がたまたま手に持っていたパスポートを見て、私が日本人だと気づいたようだった。
「あなた、どの飛行機に乗るの?」
彼は日本語を話すことができた。
私は心の底から安堵した。
私は上海からクアラルンプールまでの航空券を彼に見せた。
早川:「私、この飛行機に乗りたい。チェックインは、このカウンターで出来ますか?」
空港職員:「あなた、航空券もう持っているから、チェックインいらないよ。このままこの道をまっすぐ進んで出国審査できるよ」
どうやら私はここでチェックインをする必要はなかった。
私は彼にお礼を言い、出国審査に向かった。
あー、助かった。
私にとって、彼はまさに救世主である。
出国審査も無事通り抜けた私は売店で出発前の食事を買い込んだ。
利用した売店は「大家」。
中国の「ファミリーマート」である。
店に並んでいる商品もほとんど日本と同じ。
「何のために海外に来てまで日本のコンビニを利用しているのか?」と思うが、もはや私は今までの経験で対処できるものに縋るしかなかったのである。
私はここで、サンドイッチとポカリスエット、ポテトチップスを買い込む。
会計の仕方も日本と同じだった。
ただし、店員は日本の店員とかなり違った。
私よりも年下と思われる年齢、たぶん大学生、もしくは高校生くらいの女性だったが、とにかく無愛想で、ボソボソと中国語で話しかけてくる。
たぶん「サンドイッチを温めるのか?」ということを聞いているのだろう。
私は適当に「No」と答え、会計を済ませた。
私が感じたのは不快感というよりも「言葉も通じない外国人にこんな態度で接して怖くないのか?」という驚きだった。
買い物を終えた私はロビーで食事を済ませた。
登場案内を示す掲示板に私が乗る便が点灯したため、乗り場に向かう。
しかし、予定時間の10分前になっても一向に案内がない。
私は焦った。
もしここが日本の空港で、私が乗り遅れそうになったのなら、放送で自分の名前が呼ばれるだろうから、それに注意すればいい。
だが、ここは中国である。
中国語で放送されてもそれを聞き取るのは限りなく不可能に近いし、下手したらその呼び出しすらなく、「もう飛行機は出発したから、あんたはクアラルンプールに行けないよ」と突き放されるかもしれない。
私は恐る恐る案内係に尋ねることにした。
「Excuse me. I’m going to get on…」
と言ってチケットを見せた。
その係員は一言。
「Late」と答えた。
私は飛行機が遅れているんだろうと推測し、一瞬安心した。
しかし、よくよく考えてみれば「late」とは飛行機の遅れなのか、それとも私が遅れてしまってもう乗れないという意味なのか分からない。
「遅れているのはどっちだ?」と聞きたかったが、言葉が出てこない。
しばらくの沈黙があった後、彼女は私に「Understand?」と尋ねた。
私はなぜか日本語で「うん」と言って頷いた。
彼女は笑いながら同僚と何かを話していた。
私のことを笑っていたのかは分からない。
それでも、私は「あぁ。また外国で失敗が一つ増えた」と思い落ち込んだ。
・これが「文化の違い」ということなのか?
数十分すると案内放送があり、ゲートに列ができた。
私はMalaysiaという文字が書かれた本を持っていた西洋人に尋ねた。
早川:「Excuse me. Is this gate for Kuala Lumpur?」
旅人:「No, Probably next」
早川:「Are you going to Kuala Lumpur?」
旅人:「Yeah!」
英語を発することが怖くて、震えながら絞り出した言葉だったが、彼は私に笑顔で答えてくれた。
とにかく、彼と一緒に行動すれば、クアラルンプール行きの飛行機に乗ることができる。
ついにクアラルンプール行きの搭乗時間が訪れた。
ゲートを抜けると飛行機までの連絡バスが待っていた。
到着時に利用したバスと同じ型である。
また、あの時のような混雑になるのかと思ったが、今回はバスが2台以上あったようで、到着時のような混雑にはならず、私も座ることができた。
バスの中で驚いたのは、座席に座っていた中国の若者(中国人以外のアジア人の可能性もあるが)が目の前に高齢者がいるとすぐに座席を譲ること。
それも一人だけでなく、次々と。
私も自分が高齢者の前で座席に座っていることが恥ずかしくなり、前に立っていた老婆に席を譲った。
日本ではこんなことは絶対にないのだが…
その老婆は私に対して、「そんなに気を使いなさんな」というようなことを言っていたのだが、中国語だったので何と言っていたのかはもちろん分からない。
だが、不思議に思ったのは、空港で目撃したウィンカーを出さずに猛スピードで走る車や、客を屁とも思わない接客態度の店員を見た時は「中国の人はマナーが悪い」という印象を受けたが、一方で、目の前に高齢者が立っているとすぐに席を譲るという行為は日本では滅多にお目にかかれない。
この差は一体何なのだろうか?
これはマナーの良し悪しではなく文化の違いなのかもしれない。
飛行機に乗ると私の隣に中国人らしき男女が座っていた。
私は指定された席についたが、飛行機が離陸する直前、彼らは別の席に移動して乗務員と何か話していた。
おそらく、「ここが空いているのなら席を変えてくれ」と言っていたのだろう。
どうやらその希望は受け入れられたようだった。
中国人自由過ぎだろ!!
まあ、そのおかげで、私はかなり楽に過ごせたのだが…
・機内食とドリンクの注文
予定より2時間近く遅れていたため、上海を発ったのは現地時間の午後10時前だった。
日本から上海までのフライトは初体験だったこともあり恐怖しかなかったが、今回は幸いにも時間が夜間ということもあり、眠って過ごすことができる。
しかし、離陸して1時間も経たずに、機内食のサービスが始まった。
こんな時間に食事など取りたくないのだが…
しかも、今回は食事のメニューが2種類あるようで、食べたい方を選ばなければならないらしい。
私は窓側の席だったため、例の2人が隣に居てくれれば、先に提供されている2人の食事を見て判断できるのだが、その手は使えない。
恐る恐る自分の番が来るのを待った。
必死に周りを見渡すが、私の席からではどんな食事なのかは判断できない。
ついに私の番が来た。
乗務員は中国語で話しかけてくる。
私は食事が乗せられているカートを覗こうとして席を立った。
その時、通路を挟んだ隣の席の食事が目に入った。
私はとっさに「这个(これ)」と答えた。
乗務員は「これのことか?」と聞いてきたが、私はそれが何なのかもわからず、「うんうん」と頷いた。
ちなみに、中国語には日本語の「うん」に似た発音の「嗯」という単語があり、意味や使い方も同じだから、頷きながら日本語で「うん」と言ったら通じるらしい。
食事の注文という難局を乗り切ったら、今度はドリンクサービスがある。
前回、私は中国語でコーヒーを注文しようとして失敗した経験があるため、最初から英語でcoffeeと頼むことを決めていた。
早川:「Coffee please」
乗務員:「Coffee? OK.」
無事、一発で通じた。
私はお礼を言う。
早川:「Thank you」
乗務員:「You are welcome」
何のことはない普通の会話だが、私は乗務員のこの言葉を聞いて、一瞬不思議に思った。
英語の「You are welcome」が日本語の「どういたしまして」になることは知っていたのだが、私は幼稚園の時以来「どういたしまして」という言葉を聞いたことがなかったため、この言葉を耳にすることはないと思い込んでいた。
なるほど。
「Thank you」と言われたら「You are welcome」と返さないといけないのか…
本だけの勉強では決して身に着くことのない経験を少し学習した。
飛行機は安定して飛行していたが、結局、私は一睡もすることはできなかった。
そして、いよいよ飛行機はマレーシアに到着することになった。