焦って動けば確実に失敗することを実感した時

前回までマレーシア旅行の話が5本連続で続いたため、本来のテーマが薄れつつあるが、元々今回の企画は「今でも忘れることができない勤労感謝の日思い出シリーズ」である。

2012年の勤労感謝の日はバックレたバイト先に手渡しにされた給料の回収へ向かう話で、2013年は初の海外旅行(上海とクアラルンプール)から帰国し、旅行中に言葉が全く通じなかった不安も相まって、それまで当たり前だった日常の有難さを実感したというエピソードだった。

この2つは全く別の話のように思えるが、実は(直接ではないにせよ)関わりがある。

2012年にバイトをバックレた直後に書店でマレーシア留学の本が目に留まったことで、留学を計画することになったのだが、バイト先に給料の回収に向かった頃は、まさに留学に胸を高鳴らせている最中だった。

そして、それがちょうど1年後のマレーシア旅行につながり、この時は現実を思い知らされたことで、逆に今までの当たり前の日常に感謝することになった。

2014年の勤労感謝の日も、前年の出来事から因縁が生まれることになったのである。

1年前は明るい未来を想像していた

20141123日は日曜日だった。

24日月曜日が振替休日になるため、その日は三連休の中日(なかび)である。

一週間前に新しい職場で働き始めたばかりの私にとっては、初の週末が三連休だった。

だが、その日の私は連休を楽しむ気分ではなかった。

なぜなら、自分が置かれている状況に悲観していたからである。

「何でこんなことになったんだろう…」

決して、当時の職場環境が逃げ出したくなるほど劣悪だったわけではない。

私は自分自身が下した決断について大きく後悔していたのである。

話は前回の記事の後日談で取り上げた1年前に遡る。

2年前にマレーシアに憧れた私は、1年間資金集めと語学学習に精を出したものの、下見を兼ねて現地を旅行した際に、現実を思い知らされることになった。

留学を辞めにした直接の理由は資金や語学力によるものだが、バイト先の職場が大変居心地が良かったことも大きかった。

誤解がないように言っておくと、「居心地が良い」というのは決して「恵まれた福利厚生や楽しい社内行事がある」という意味ではない。

むしろ逆で、その職場はこんな様子だった。

  • 数ヶ月の短期で離職する人(パート・正社員かかわらず)が続出する。

  • 最も勤続年数が長く指導的な立場にある正社員が(定時で帰れそうにない場合を除いて)一切現場に入ってこない。

  • パートが現場を仕切り、正社員がその指示に従う。

  • 子どもがいる正社員は当然のように家庭を優先する。

普通の人なら「どこが居心地の良い職場なんだ!!」と思うだろうが、

正社員とは:

簡単に仕事を辞めてはいけない。

何があっても仕事を優先しなくてはならない。

という典型的な日本型正社員に馴染めなかった私にとっては、「正社員でも頑張らなくていいんだ」と言われている気がして勇気づけられた。

元々、「どうしても海外でやりたいことがある!!」というよりも「この国の労働環境で働くことが嫌だから」という動機で留学するつもりだった私にとって、その職場で働いたことで「日本に残って働くのも悪くない」と考え直し、留学を止めることにした。

居心地が良く、同僚からも信頼されていたため、その職場で働き続けることがベストだったのかもしれないが、時給は750円である。

当時の私は20代前半から半ばに差し掛かる年齢だった。

そろそろ親元を出たいと思っていた私は自立も兼ねて、もう少し高い給料を得るチャンスがある都会へ働きに出ることになった。

そうすることで、車の維持費も解消できると思った。

さらに、毎週月曜日の午後7時から中国語の教室に通うことにした。

中国語は前年の留学準備の際に英語と一緒に勉強しており、マレーシアへ行く途中に立ち寄った上海や中国の飛行機での苦い経験から、「どうしてもネイティブスピーカーと会話する機会が欲しい」と思って参加しようと思った。

これも地元ではできない体験である。

ちなみに、住まいについては、都心部に住んでいた知人がちょうど引っ越しをするタイミングだったので、少し広めの部屋を借りて、私もそこに住むことになった。

もちろん、自分の部屋があり、私の家賃負担は月3万円。

こうして、2014年は明るい未来が待っているはずだった。

・非正規の仕事にすら就けない

そんな期待に満ちて2014年の4月から新生活をスタートした。

だが、その期待は大きく裏切られた。

当時のことはこのブログでも過去に何度か取り上げたが、改めて説明する。

引っ越して1ヶ月程求職活動をした末に、1ヶ月の短期の派遣に就くことはできたが、その後は日雇いの仕事に細々と入るだけで、5ヶ月もの間定職に付けなかった。

もちろん、正社員だけでなく派遣やアルバイトの仕事にも応募していたが、一向に先が見えなかった。

面接時の感触としては、毎週月曜日に中国語教室に参加するために、残業ができないことがネックになっている気がした。

一度、面と向かって、こんなことを言われたこともある。

面接担当者:「あなたのような若い男性は会社優先で長時間働くことを期待されているから、自分からそんな制限を設ける人は雇えない」

それから、最低賃金に毛の生えた程度の時給しか支払わないのに書類選考を行うずうずうしい会社というのもあった。

「だったら、正社員を雇え!!」

と叫びたくなったのは一度や二度ではない。

これらはすべてパートやアルバイトといった非正規の仕事である。

「正社員ならともかく、非正規の仕事でそんなことあるのか?」と思われる方もいるかもしれないが、これらは紛れもない事実である。

昨年働いていた職場は正社員ですら、かなり自由(というよりもいい加減)な会社だったのにえらい違いである。

もはや、この社会は「非正規=気楽な仕事」という状況ではない。

それが当時の私の実感だった。

昨年、「留学のために」と貯めた貯金があったため、経済苦に陥ることはなかったが、将来の不安や周囲からの無理解には苦しんだ。

そして、皮肉にも就労を妨げていた感のある中国語教室で起きたことがきっかけで、私はこの社会に居場所がないことを悟った。(詳しくはこちら

やっぱり、1年前の決断は間違いだった。

そう思った私は周囲に心を閉ざして、再びこの国から出ていくことだけを考えるようになった。

・次から次へと起こる因縁

その後すぐに、求人誌で見かけた工場の派遣の仕事に応募するために派遣会社でスタッフ登録をすることになった。

登録時はすでにその仕事の募集が締め切られていたが、担当者と雑談で私の地元の話をしたところ、彼がたまたま私の地元にあり、なおかつ応募した仕事と近い条件の案件を持っていることが判明し、実家に戻って、そこで働くことになった。(その職場の詳しい様子はこちら

余談だが、都会へ出るための引っ越しの際は2年契約だったため、私は翌月の3月まで毎月3万円の家賃の支払いと、翌年度は引っ越し前の住居との家賃の差額である月1万円を1年分前払いで支払うことになった。

こうして、改めて「この国から出て行こう」と決意した私は2014年の11月半ばに地元の工場で再スタートを切ることになった。

派遣の仕事であるため、バイトだった前年の仕事よりも時給は150円ほど高い。

留学資金の損失を少しでも埋め合わせするためには最適だが、当時の私は働き始めて一週間が経過した時点(勤労感謝の日)でも、「さあ、再出発!!」という前向き気分にはなれなかった。

どうしても1年前の決断への後悔が頭から離れなかったから。

「いつまで過去を引きずっているんだ!!」と喝を入れたくなるかもしれないが、この時の職場は1年前のマレーシア旅行のことを「これでもか!」と思い出させる環境だったのである。

先ず就業開始日が1117日であること。

私は前年のまさにその日、希望を胸にマレーシアへ出発したのである。

しかも、その職場は恒久的に1時間の残業があるのだが、その残業を終えて職場を出ると、すぐ目の前にある駅には、その日私が利用したダイヤの列車が毎日停車していたのである。

日々、そんな光景を見せられたら、否が応でも前年マレーシアへ行った(そして、留学しないという決断をした)ことを思い出してしまう。

さらに、私は毎朝徒歩で職場に通っており、途中の交差点では小学生が信号を横断する際に旗を持つ男性が立っていたのだが、赤信号で停止していると、よく彼から「今は車が来ていないから渡ってもいいよ」と言われて、赤信号での横断を促され、それに従ったことが何度もあった。

私が赤信号で通行(信号無視)するのは、前年のマレーシア訪問時以来である。

このように、1年前のマレーシア旅行を思い出させる事態が次から次へと起きたため、私は1年前に下した「日本に留まる」という決断への後悔で胸が張り裂けそうだった。

私が「留学を取り止めて、都会へ働きに出る」と選択したことで失ったのはざっとこんなもの。

・居心地が良い職場

・多額の貯金(かろうじて半分は残っていてが…)

・夢や希望

・他人を信頼する心

「逆に何か得られたものがあったか?」と聞かれたら何も思い浮かばない。

もっとも、その決断を下したのが自分自身であることは重々承知しているが…

当時の私のたった一つの願いは「1年前に戻りたい!!」という何とも情けない有様だった。

・焦りは禁物

1年前に日本に留まることを決意したことは後悔したが、今でも留学の取り止め自体は間違いだとは思っていない。

あの時点での語学力では、強行したとしても、留学エージェントや語学学校の有料サービスを使わなければ生きていけなかっただろうし、ただでさえ円安やインフレで資金が目減りしている中でそんなことをしたら、滞在期間は多分半年も持たなかっただろう。

だが、無職期間が長引いたことで、目減りした留学資金を再度稼ぐことになったことで、こんなことを考えるようになった。

「語学力やお金の問題があるのなら、留学を1年程先送りにすればよかったじゃないか…」

しかも、資金集めのために働いていたバイト先の環境は悪くなかったのだから。

そうしていたら、貯金が減ることはなく、仲間から頼られる居心地の良さは失うことはなかったのに…

工場で働き始めた直後はずっと「どうして、私は就職先のあてがあるわけでもないのに、都会へ行こうなんて思ったのか?」を考えた。

その理由は先ほども書いた通り、「親元から自立したかったから」である。

では、なぜ私は「実家を出たい」と思ったのだろう?

別に実家の家族と仲が悪いわけではないのに…

思い返せば、1年前に限らず、英語の勉強を始めた頃から、常に私の心にあったのは根拠のない焦燥感だった。

「居場所が欲しい!!」

「早く他人から認められなくちゃ!!」

そんな漠然とした焦りから「(ろくに英語ができないのに)海外へ行こう!!」、「(仕事のあてがあるわけではないのに)親元を離れて都会へ行こう!!」などと安易な行動を起こしたわけだが、その結果陥ったのがこの時の状況である。

当時の私はまだ20代前半で、決して一人前と認められなければ恥かしい年齢ではなかった。

どこかで冷静に立ち止まって、「もう少し時間をかけてもいいから、じっくりと将来のことを見据えよう」と余裕を持ていれば、こんな行き当たりばったりなことにはならなかったのかもしれない。

この記事で取り上げた通り、追い込まれた時こそ「焦らずにチャンスを待つ」姿勢が大事なのである。

実際に、前年の2013年は「この年に成果を出そう!!」とは意気込まずに、「翌年のために頑張ろう」という姿勢で臨んだことで、素晴らしい年を送ることができたのだから。

ちなみに、1年前に留学を取り止めてからも語学学習は継続していた。

しかし、全く上達しなかった。

この年が3年目だというのに、英検3級と準2級の試験に落ちた。(共に2年ぶり二度目)

それでも、翌月の201412月に入ると、ついに進展し始めた。(詳しくはこちら

私はそのことでようやく「再出発」という気になれたのである。

・編集後記

「今でも忘れることができない勤労感謝の日シリーズ」は今日でようやく終了となる。

本記事の冒頭で説明した通り、これらのことはすべて独立した出来事というよりも、それぞれ前年の出来事から派生した結果、生じたことである。

10年経過した今ではほとんどが笑い話だと思っていたが、こうして記事にしてみると、当時の私の心境を改めて思い出し、すべてが今の自分にとって欠かせない出来事だったと思うようになった。

今回は合計で計7本という過去最長のシリーズとなったが、最初は3年間の出来事を一つの記事にまとめて、1123日に投稿するつもりだった。

だが、2012年編の原稿を書く段階で、当時の状況を詳しく説明しようとすると、とてもではないが、同じ記事に翌年、翌々年もまとめることは不可能だったため計画を変更する運びとなった。

2013年編はかなりの長編となってしまったが、これはブログを開設するかなり前の2015年に書き留めていたものが原文となっている。

衝撃的なことの連続だったが、さすがに9年経った現在では、記憶を辿るだけではそこまで詳細に記事を書くことはできない。

ちなみに、こちらも当初は2013年の出来事を一つの記事として投稿する予定だったが、「今後はこの時のことを記事にする機会はないだろう」と思い、「この際だから…」と(ほぼ)すべてを公開することにした。

そのため、全体のバランスがかなりいびつになってしまったことは、この場でお詫び申し上げたい。

ちなみに、2013年編の原文の作成日時は2015年の11月だった。

日付は23日より前である。

その時のことは全く憶えていないが、もしかしたら、2015年の勤労感謝の日も、前年のことに想いを張り巡らせながらその文章を書いていたのかもしれない。

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