「もはやアルバイトは簡単な仕事ではない」と実感した年④

前回までのあらすじ

都会での生活に夢を膨らませて実家を出た私は、職探しから1ヶ月で何とか短期の派遣の仕事に就くことが出来た。

就労前は変な応募先にいくつも遭遇したため、次の職探しでは、そんな会社に遭遇しないことを祈っていたが、本当の悪夢はその後だった。

応募先がとんでもないことを言い出すクソ企業ばかりだということに加え、前回と違い、無職期間は3ヶ月を超えた。

ただでさえ仕事が見つからず、応募先の非常識な対応にイライラさせられる中、身内である母親からも、アルバイトの仕事にすら就けないことを非難された私はついに怒りが爆発した。

しかし、絶望の中でも数少ない味方に出会えた。

そして、失業前に就労していた派遣先で、全く同じ内容で求人が出されたことで、「これだったら、きっと採用されるだろう」という希望が生まれ、意気揚々と応募したのであった。

・思い当たる理由

求人は某ネット媒体に掲載されていたのだが、すでに派遣会社をしている私は、以前の就労でお世話になった営業担当に直接電話をかけることにした。

この対応が正しいのかは不明だが、勤務終了の挨拶の際に、「また、弊社で気になる求人を見かけたら、遠慮なく私へご連絡ください」と言われたので、そうすることにした。

ところが、何度かけても電話は繋がらない。

出ないのではなく、繋がらないのである。

仕方なく、事務所に電話して営業担当を呼び出してもらうことにしたが、そこで彼が休職中であることを告げられた。

それを聞いた瞬間、何となく嫌な予感がした。

その日は、私が以前お世話になったことと、同じ求人を見かけたので、また働きたい旨を告げて、返事を待つことにした。

しかし、期限を過ぎても返事はなかった。

望み薄と分かりながら、こちらから問い合わせたら、案の定、「今回は早川さんではなく、別の方をご紹介することにしましたので…」と言われた。

その回答は想定済みだったが、驚いたのは派遣会社の電話対応である。

受電の第一声は「お電話ありがとうございます。人材派遣会社○○でございます!!」というビジネスの場では常識といえる応対とはかけ離れて、ドスの効いた低い声で「はーい。○○です」と言われた。

何でこんな奴でも仕事に就けるのに、私はアルバイトにすら3ヶ月以上も受からないのだろうか…

派遣会社から期限内に返事がなかったことで、結果については察しが付いたが、それでも、わずか4ヶ月前に働いていたばかりの会社からも断られたことは少なからずショックだった。

他の候補者が、私が採用される直前まで働いており、その間の勤続年数が1年を超え、私の数倍のスピードで仕事が出来るような人であれば仕方ないことである。

だが、私にはどうも気になることがあった。

それは在職時に残業を断った時のことである。

私が定時で退勤したかったのは中国語の教室に通うためだったのだが、「教室」を「学校」と言い間違えてしまい、「え!! 学校に通っているの!?」と驚かれた。

特に訂正しなかった私の対応にも問題があったのかもしれないが、彼らは私のことを勤労学生と思ったのか、以降は仕事そのものがなくなっていったとはいえ、妙によそよそしい態度を見せるようになり、残業や休日出勤を命じられることもなくなった。

推測の域を出ないが、当初は3ヶ月と言われた契約が1ヶ月で終了になったのも、そのことが関係している気がした。

結局、彼も他の応募先と同様に、自己都合など顧みず、正社員並みに働いている人を求めていたのだろうか?

派遣社員なので、現場の社員から直接苦情を言われることはなかったが、派遣会社の方は「話が違うじゃないか!!」と苦情を入れられたのかもしれない。

契約を切られた時は、「そんなことを言っても、どうにもならないから、考えるのは止めよう」と思ったが、改めて応募して不採用になったことで、考えざるを得なくなった。

・秋の訪れと共に離れる気持ち

かつての就業先は不採用となったことはショックだったが、いつまでも落ち込んではいられず、その後もアルバイトに数社応募したが、いずれも採用には至らなかった。

そうしているうちに、あっという間に無職期間は4ヶ月を迎えて、貯金も50万を切ったことから、たまたま応募した派遣会社から紹介された日雇いの仕事に就くことにした。

日雇いの仕事は後に東京でも経験することになり、その時の体験についてはこちらの記事に書いたが、幸い、この時はそこまで悲惨な思いはしなかった。

それでも、時給は最低賃金だし、同じ境遇の日雇い労働者が体調不良になったら、現場は全く公共交通機関が通っていない僻地であるにもかかわらず問答無用で放り出して、物を補充するように、派遣会社へ代わりのスタッフを要求する光景を目の当たりにしたり、前日の夜や当日の朝に仕事紹介の連絡が入るなど人間扱いされていないと感じることが多く、結局3,4回しか入ることはなかった。

実家を出た時から半分以上減ったとはいえ、この時は貯金があって本当に良かった。

そして、ちょうどその頃、この記事で取り上げた日曜日の補講からの食事会事件が起こり、私の居場所はこの社会にないことを悟り、心の中は完全に黒く染まった。

思い返せば、希望に満ちた新生活の象徴でもあった中国語の教室に通うことが、就労の足枷となり、さらにはそこでの出来事が最後の一押しになったのだから、何という皮肉だろうか…

気付いたら、もう10月になっており、希望に満ちた新生活をスタートさせてから半年が経過していた。

まさか、半年の内、仕事に就けたのはわずか1ヶ月だけで、大半の時間を職探しに費やすことになるとは思いもよらなかった。

こんなことになるのなら、どうして仕事を辞めて実家を出たのやら…

暑い夏も過ぎ去り、涼しい風を浴びる季節になると、前年のことを思い出した。

前年の9月末、当時の就業先で働き始めた時からお世話になっていた正社員のキモト(仮名)の退職を皮切りに、11月中頃までの1ヶ月半の間に多くの人が来ては去っていった。

当然、残った者は仕事がバタバタして大変だったが、それでもいろんな人と出会えて、いろんな話も出来て充実していた。

そして、留学の下見を間近に控えていたこともあり、その日のことをワクワクしながら待っていた。

去年の今頃はあんなに楽しかったのに…

わずか1年前のこととはいえ、懐かしい日々を思い出していると、もはや、自分がこの場所に住み続けることに意味を見出せず、去ることにも未練はなくなった。

まさにそんなタイミングの時、派遣の求人に目を通していると、実家から車で20分程の場所にある工場の求人を見つけた。

勤務時間は8:0017:00で未経験者歓迎。

まだ貯金は残っていたが、今の生活は経済的にも精神的にも限界だと悟り、地元に帰るつもりで、その求人に応募することにした。

・またウソですか…

地元の求人に応募すると早速登録会に参加して欲しいと言われた私は、派遣会社へ向かった。

登録場所は自宅と実家のちょうど間くらいの場所にあり、料金は往復で1,500円程かかった。

無職の身としては、決して安くはない出費だが、今の生活を一刻も早く終わらせたいのでそんなことも言っていられない。

ここ半年で何度経験したか分からないが、例によって派遣という制度の説明、エントリーシートの記入を終えると、担当者から応募した仕事の説明を受けた。

だが、勤務地、派遣先企業名を聞いた後で、早速希望は潰えた。

なぜなら、求人広告に記載されていた「勤務時間:8:0017:00」がウソで、実際は「5:3014:3014:0023:00」の2交代制だと告げられたから。

しかも、勤務地や仕事内容は事前の告知と全く同じだったため、派遣会社にありがちな架空の求人で登録者を釣って、不人気の案件を紹介するという表に出ずらいセコイ手口ではなく、最初から堂々とウソをついて募集していたのだ。

当然、そんなことをする会社とは関りになりたくなかったので、勤務時間が希望と合わないことを理由に辞退した。

それに対して、先方の反応は…

「工場で夜勤がない案件なんて滅多にないから、こちらの会社は恵まれていますよ!!」と逆ギレされた。

ふざけるな!!

とても、ウソの求人で人をペテンにかけた人間とは思えない開き直りである。

本当の勤務条件を知っていたら、応募なんかしなかったし、当然登録会へも参加しなかった。

「交通費を返せ!!」と言いたい気分である。

懐かしさに誘われて地元に帰るという願いは、例によってモラルの欠片もない派遣会社によって、一瞬で打ち崩された。

派遣会社が求人広告を出す際は、最低でも一ヶ所はウソをつかないといけないルールでもあるのか?

・意外な形でついに求職活動が終わる

地元に帰って平和に働くという希望も絶たれたことで、再びこの地で仕事を探さざるを得なくなった私は、自宅から徒歩15分の場所にあるピッキングの派遣の仕事に応募することになった。

「どうせまたウソの求人なんだろうな…」と諦め半分で登録会へ向かうと案の定、「そちらの案件は募集を締め切りまして…」と言われた。

もしかすると、それは本当なのかもしれないが、ここまでお馴染みのパターンが続くと、怒る気力もなくなる。

さらに、近場では他に似た案件もないとのこと。

こうして、進展もないまま帰宅するところだったが、面談担当者にこんなことを言われた。

担当者:「昨年は○○市で働いていたようですが、ここからだとかなり遠くないですか?」

たしかに当時住んでいた場所からだと車でも片道2時間くらいかかりそうだが、そこで働いていた時は実家住まいだったので、20分くらいで通うことが出来た。

そこから、私の出身地の話になり、翌年の3月までの期間限定であるが、彼はそこにある工場の案件を担当していることを告げられた。

その場所は偶然にも私の実家から徒歩15分で通える位置だったのである。

地元に帰ることを諦めていた矢先に思いもよらぬ朗報だった。

すぐに現地で面談をすることになり、無事に採用された。

こうして、最後はあっけなく仕事が決まったが、今振り返ると、「失業期間が5ヶ月もあったのに、よくそこをつつかれなかったな…」と思う。

仕事については、この記事に詳しく書いた通り、慣れない業務に加え、恒久的な残業や土曜出勤などつらいこともあったが、とにかく求人内容通りの条件だったのでホッとした。

ちなみに、地元に帰ることになったので、中国語の教室にも通えなくなったが、何とか最後の1ヶ月だけは仕事終わりに通うことにした。

もちろん、残業をしたら間に合わないので、「虫歯の治療をしたいので…」とウソの報告をして定時上がりで向かったのだが、それでも30分は遅れた。

なお、1ヶ月の交通費は2万円を超えた。

実家に戻ることになったことで生じた出費は他にもある。

同居していた親戚には、急な転居による家賃収入の減少を補うために、翌年の3月までは以前と同様に毎月3万円を支払うことになり、翌4月からは毎月の家賃と、引っ越し前の住まいの家賃の差額である1万円を1年分前払いすることになった。

こうして、希望に満ち溢れてスタートした都会での生活はわずか7ヶ月半で終了した。

・その後の話

さて、5ヶ月にも及ぶ無職期間を経てようやく職に就くことができたが、壮絶な日雇い生活の末にようやく仕事を見つけたクボ(仮名)と違って、私の場合は晴れた気持ちにはなれなかった。

それは、単に「なかなか仕事に就けなかった」こと以上に、雇用主企業の間で、あまりにも有り得ないことが横行していたからである。

  • 正社員は責任が重くて拘束もきついが、それに見合った生活は保障される。

  • アルバイト等の非正規労働は保障はないが、自由で責任も軽い働き方。

そんな常識を信じていたが、もはやそんな世界はどこにも存在していなかった。

待遇や社会的な地位は低いままで、正社員同様の基幹労働を押し付けられるとはまさに奴隷である。

こうして、私は非正規の仕事に絶望したわけだが、「フリーターから足を洗って、正社員になろう!」とは思えなかった。

なぜなら、基幹労働を非正規に担わせるのであれば、企業がわざわざ高コストの正社員を雇う理由などなくなり、正社員をなくすか、待遇を非正規並に引き下げることは明白だからである。

実際に、前回の記事の前半に登場した総菜屋の正社員はまさにそれではないか?

そうなった場合、真っ先に被害を被るのは、非正規を正社員並みの拘束で利用しようと企てている連中(=私が応募した会社)だろう。

もっとも、自分自身が「正規ー非正規」の秩序に背いて、非正規労働者を搾取しようとしたのだから自業自得だが…

もしかしたら、当人は能天気に「自分は正社員という選ばれた人間だから、単純な仕事をバイトにやらせて、もっと高度な仕事を出来るはず」という根拠のない選民思想を持っているのかもしれない。

そんな人間は、すべてを失うことになるまで気づかない筋金入りのバカである。

労働環境への絶望はもちろんだが、現状への周囲の無理解もつらかった。

彼らは、先ほどの「正規ー非正規」の図式を信じ切っており、私がどんなに「こんな会社はおかしい!!」と主張しても、「アルバイトの仕事を見つけるのがそんなに大変なわけない」と訴えを退け、すべては私の甘えだと非難した。

むしろ、仕事に就けないことよりも、そうした無理解の方が耐え難かった。

まあ、そのおかげで奴らの信じる「フツー」を信じたら、いかに危険であるかが身に染みて、そんな生き方とは完全に決別しようと思えたのだが…

就業期間はわずか1ヶ月で、残りの5ヶ月半を職探しに費やした計7ヶ月半の生活で私は一体何を得たのだろう?

中国語教室のように、実家に住んでいた時は味わえなかった楽しみもわずかながら体験出来たが、残ったのは怒りと憎しみと前年の自分が下した決断への後悔だけだった。

だが、人間の邪悪な面ばかりでなく、僅かながら善の面も見ることが出来た。

ハローワークの思い出はたくさんあるが、アルバイトの職探しが上手く行かないことを信じてもらえた時ほど感動したことはなかった。

身内からも理解されずに苦しい思いをしていた直後だったので、あの時の彼女の優しさは今でも忘れられない。

それから、毎月家賃を支払っていたとはいえ、同居していた親戚が、毎日家に居る私に悪態をついたり、「早くアルバイトくらいやったら」と非難することが一切なかったことにも感謝している。

高校生の時にアルバイトを始めてから15年以上が経過したが、その期間を振り返っても、あの年が最悪だった。

地元でも、東京でも、ヤバい会社はたくさんあったが、ここまで立て続けにろくでもない会社に遭遇したことはなかった。

この経験があるから、地元に戻りたくないのだ。

曲がりなりにも、県庁所在地であり、地元では一番栄えている都市のはずだが、まるであそこだけ就職氷河期のようだった…

場所だから、氷河期ではなく、北極と呼ぶべきだろうか?

そのラベリングは自然界に失礼だから、このように邪悪な人間の薄汚さが漂う街こそ「修羅の国」と呼ぶべきである。

あれから10年経つが、あの街、そして街の人は少しはマシになったのだろうか?

今でもたまに、当時登録していた派遣会社から営業メールが送られてくることもあるが、条件に目を通すと、ほとんど変わっていないのが気になる。

もっとも、それすら本当に守られているのかは疑問だが…

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