3月に入ったことで、気温がどんどん暖かくなり、晴れの日も増えた。
すっかり春になったことを実感する。
この季節になると目的はなくても外に出たくなる。
というわけで、先週の休日に買い物のついでに隣の駅まで歩いて散策することにした。
(昨年の秋にも似たようなことを言っていた気がするが…)
・不安はあるが後悔はない
隣の駅へ向かう途中、公園に立ち寄って休憩することにした。
コロナの影響か、休日の昼間であっても、公園の中には誰もいなかった。
暖かい気候と静かな場所に身を置いて、ひと時の安らぎを感じていると、二人の高齢者がやって来た。
最初は何とも思わなかったが、穏やかな表情で談笑している彼女たちを眺めていると、段々とこんな不安に襲われた。
私が彼女たちと同じ年齢になった時には、同じようにのんびりと公園で談笑することができるのだろうか…
いつまで、このような平和な時を過ごすことができるのだろう…
早い話が将来の不安感に襲われたのである。
前々回の記事で触れた通り、今の私は5年前よりも成長していることは間違いない。
だが、日々の生活の中ではこのような漠然とした不安が付きまとう時がある。
理由のひとつは、これから先の人生における分かりやすい目標がないからだろう。
この記事で話した通り、数年前まではずっと海外へ行くことを目標にしていた。
そのため、仕事終わりや休日は悩みなど感じる暇がない位、英語の勉強に打ち込んだし、日常生活で嫌なことがあった時は「いずれ、こんなところは出ていくのだから」と適当に流すことができたし、友人がいなくても、「どうせここには長居しないのだから、友達なんかいても意味ないし」と思って孤独を感じることもなかった。
しかし、今ではその夢も潰えて、気付いたら東京で暮らし始めて5年が経過しようとしている。
夢が潰えた今では、希望だけではなく、心の逃げ道をも失った気がする。
その結果、今までおざなりに生きてきたツケとして、空っぽの生活を送っている自分を嫌というほど感じる。
そして、もうひとつの理由は生活の足場がないことである。
前回の記事でも少し触れたが、生活の足場とは、「定年まで安泰」と思われている大企業、もしくは公務員であれば、年功序列や終身雇用のような企業福祉(これは「大企業型」と呼ぶ)、学校卒業後も地元で生活している人であれば、親族や地域の仲間(これを「地元型」と呼ぶ)というような、居場所を与えてくれて、困った時は助けてくれる存在のことである。
地元を離れ、非正規労働者として働いている私にはそのような足場が一切ない。
目標がないことよりも、こっちの方が重い気がする。
極端な話、目標に関しては些細なきっかけから簡単に見つかることがある。
その上、実現できる・できないは別にして、持つだけでも希望を与えてくれる。
一方で、生活の足場は一日や二日で手に入れられるものではない。
しかも、私の場合は大企業型の人生も、地元型の人生も、自らの手で断った経緯があるため、逸れた末に野垂れ死ぬことになろうが「自己責任」の一言で片付けられてしまう。
だが、今の生活に不安を感じることはあっても、このような選択をしたことに一切の後悔はない。
今日は私がこの2つの生き方を拒絶することになった話をしようと思う。
・「大企業型」人生への絶望
勉強していい大学に入り、大企業に入社して、定年まで勤め上げ、その間に出世して、結婚して、ローンで持ち家を購入し、子どもを大学に通わせて、定年後は年金で悠々自適に暮らす。
私がそんな「大企業型」の生き方に絶望したのは、高校生の時である。(早過ぎだろ!)
この記事で書いた通り、私は進学校ではなく、工業高校や商業高校のような就職校に通っていた。
そこでは、進学校にありがちな(のかどうかは実際の所、分からないのだけれども)
「人生は大学受験ですべてが決まる!!」
「いい大学に入らなければ、一生負け組だ!!」
というように勉強を煽られることはなかった。
しかし、就職へ向けた指導が行われていたため、「大企業型」の秩序を毎日のようにしつこく言い聞かされた。
そこで、人生設計だけでなく、職業倫理(社畜の掟)も叩き込まれた。
「一度就職したら絶対に自分から会社を辞めてはいけない!!」
「風邪ごときで会社を休んではいけない!!」
「会社の命令は労働基準法よりも優先される!!」
「どんな仕事をするのかは年齢と性別で決まる!!」
「どんな理由があれ、少しでも離職期間がある奴は社会復帰できない!!」
そんな呪文を聞かされていた当時の私は正社員(厳密に言えば「大企業の正社員」)として就職することを本気で拒絶していた。
「学校を卒業して、正社員として働くことになったら、恐ろしい世界に足を踏み入れることになる…」
「自分はそんな場所では生きていけない…」
今にして思えば、これは「大企業型」という一部の生き方で、それを唯一絶対神と崇めている「自称社会人(※注:「大企業型」の人生と=ではない)」という一宗教の思想に過ぎなかったわけだが、彼らが信仰する「社会」とは、私には「魔界」にしか見えず、「自分は絶対にそんな世界で生きていけない」と常々思っていた。
「その世界観から逃れるには正社員ではない働き方に逃げ込むしかない」
それが「正社員=『大企業型』」と思い込まされていた当時の私の結論だった。
こうして、多くの人が将来への希望で胸を膨らませていたであろう高校生の時点で、私はすでに、いい大学へ入り、大企業に就職し、安定した生活を送りながら、結婚や子育てやマイホームの購入をするという「大企業型」のライフプランを放棄する決意をしたのであった。
もう今から15年ほど前の出来事である。
・「地元型」人生と非正規雇用への絶望
高校生という早い段階で「大企業型」の生き方に絶望した私は、この先大学へ進学したとしても、「大企業型」の人生を歩むつもりなど毛頭なかったため、高校卒業後は地元でフリーターとして生きていた。
もちろん、仕事に生きがいなどなく、私の楽しみは同じように地元に留まった友人たちと楽しく遊ぶことだった。
当時の私には「地元型」の生き方いう概念はなかったが、「たとえ、大企業の正社員という人生から逸れても、仲間同士で集まれば、企業福祉とは別の形で、お互いの生活を支え合う生き方ができるのでは?」と信じていた。(その理想を描いた記事はこちら)
今振り返ると、当時の私は、正社員として働いていないことを除いて、まさしく「地元型」の生き方をしていた。
今でも、「あの時に戻りたい」と思うほど、私の人生において素晴らしいひと時だった。
だが、その幸せは長く続かなかった。
あれだけ親しくしていた仲間たちも、就職と同時に私の前から姿を消し、私は孤独に苛まれて生きることになった。
仲間が去った寂しい想いをしただけではない。
地元には「仕事がない」ということはないが、その給料ではとてもではないが、一人の稼ぎで家族を養うことなどできない仕事ばかりである。
にもかかわらず、「大企業型」の亡霊に取りつかれたように、その規範をしつこく押し付けられ、私が望んでいた「休日に友人たちと楽しく過ごす」という静かな幸せは認められなかった。
これでは「大企業型」の秩序から逸れた自分を包摂してくれるどころか、逆に迫害されてしまう。
それに加え、非正規労働に対するご都合主義もひどかった。
これは私が都会へ出て職探しをしていた時のことである。
正社員になるつもりがなかった私は、派遣やアルバイトなどの非正規の仕事を探していた。
最初は1ヶ月程度の求職活動で、短期の派遣の仕事に就いたが、その後は5ヶ月程の間、職に就くことができなかった。
一応、数社は面接まで行くことができたが、そこで(頭がおかしい)担当者から言われたのは
「この空白期間はどうして何もしていなかったんですか?」
「どうして、若いのにガッツリ働きたいと思わないんですか?」
「こっちの都合に合わせて働ける人しか受け付けていません!!」
という勘違い甚だしい発言ばかりだった。
これが大企業の正社員を採用する場での発言であれば理解できなくもない。
職歴の空白期間を許さないのも、若い男を(残業代を払わずに)馬車馬のように働かせることも、会社の都合で勤務地や勤務時間を変えなければならないのも、「大企業型」の生き方では当然のことである。
しかし、先の妄言は何れもアルバイトや派遣社員としての面接の場で言われたことである。
そんな働き方をしたくないから、あえて非正規の仕事を探しているというのに、彼らは一体何を考えているのだろうか?
もちろん、人には正社員並みの拘束を要求する一方で、給料や福利厚生のような待遇面は従来の非正規雇用と何ら変わらない。
そのご都合主義だけでも腹立たしいのだが、私が絶望したのは「たとえコースの外に居ても、しつこく『大企業型』の論理を押し付けられる」ということだった。
ここまで来ると、もはや、「正社員にさえならなければ、安心して暮らせる」という幻想は完全に消失した。
結局、地元で生きようが、非正規だろうが、この社会は「大企業型」の生き方しか認めないのだ。
そうして、私は「大企業型」から逸れた自分を包摂することを期待していた「地元型」への生き方と、安全圏であると思っていた非正規労働者としての生き方にも絶望することになった。
「大企業型」の人生に絶望した時は、将来を悲観したり、ショックは受けることはなかった。
せいぜい「進路の問題」程度の認識であり、他に逃げ道があったから。
そもそも、歩む前からコースに乗ることを拒否したのだから、「絶望」する段階にすらなかったのかもしれない。
一方で、「地元型」や非正規労働に関しては、「大企業型」から逃れた自分の受け皿となってくれることを期待していたため、なかなか現実を受け入れられなかった。
そして、「味方」だと思い込んでいた分、絶望した時の憎しみも大きかった。
・「一人じゃない」と分かったからこそ孤独が辛い
「地元型」の生き方と非正規労働に絶望した私は完全に社会に心を閉ざし、誰にも心を許すことなく、孤独に生きるようになった。
そのように自我を保たなければ、この社会に殺される気がした。
当然、プライベートな幸福追求も一切捨てることになったが、そのような暮らしも全く苦ではなかった。
その考えが変わったのは今から2年ほど前である。
それ以降、「大企業型」の生き方を絶対神と崇める「自称社会人」が人類にとって普遍と考えている生き方は、日本の伝統でもなければ、昔から多数派だったわけではないことも知った。
自分のような人間は決して社会の少数派ではなく、同じ苦しみを抱えている人はたくさんいたのだ。
そのことで私の心は晴れ、(以前に比べると多少は)他人のことも信用できるようになった。
それ自体はいいことなのだが、同時に別の課題も浮き彫りになった。
「これから、私は何を目標に生きればいいのだろう…」
気持ちは変わっても、この2年間で生活が変わったとは言えない。
生活は不安定だし、信頼できる仲間どころか、休日に気軽に会える友人もいない。
「大企業型」の人生を送るつもりはないが、それに代わる生き方は未だに見つけられていない。
むしろ、「私は一人じゃない」と分かったからこそ、一人でいる時間を辛く感じるようになった。
以前のように、世の中を恨んで生きていた時の方がずっと楽だった気がする。
「大企業型」の人生が昔から多数派ではなかったことと、そこから逸れた人を包摂する「地元型」という生き方を知った時、地域に根差した生き方に一瞬夢を見た。
しかし、その生き方を知ったからこそ、そうなっていない現実により絶望した。
地元にあるものは、朽ち果てていくだけの錆びれた街並みと、そうなっていないにもかかわらず、自分たちを守ってくれると信じている(「大企業型」社会の)亡霊に取りつかれた廃人だけである。
もちろん、今の生活では、手厚い福利厚生や明確なキャリアビジョンで安定や安心感を与えてくれる勤め先も、困った時は家族の垣根を越えて助けてくれる地域の絆もないことは明白である。
だが、裏を返せば、「助けてくれる人がいない」ということは、「自由である」ということになる。
つまり、しがらみがなく、自分が正しいと思うことを堂々と行うことができる。
このように少しでも良い面の有難さを感じながら、前を向いて生きていくことが、これからの私がやるべきことだと思っている。