「社畜」という言葉の使い所

「社畜」という言葉は会社の言うがままに、休日出勤、転勤、職種替えなどを受け入れ、時には「サービス残業」と誤称されている不払い労働のような違法行為であっても、何の疑いもなく従うという会社に飼いならされた人々への蔑称である。

この言葉に対して、

「正社員として働く人たち全員をバカにしている!!」

「『ダサい』『カッコ悪い』『情けない』『甲斐性がない』とイメージを煽って、会社を辞めることを無責任に助長している!!」

と批判的な意見を持つ人もいる。

私は「社畜」的な働き方を死んでも拒否するが、それを好む人がいたとしても、別にそれは当人の自由である。

そして、批判的な意見を持つ人の主張もそれなりに真っ当であることから、このブログでも「社畜」という言葉をなるべく控えるようにしてきた。(余談だが、私はこのブログを始めるまでは、今でこそ「自称社会人」と軽蔑している人たちのことを「社畜連隊の獣共」と呼んでいた)

しかし、「この人を表現するには『社畜』という言葉以外に見当たらない」と感じることも多々ある。

今日は私がそのように感じる時の話をさせてもらいたい。

・「社畜」とはどのような人たちなのか?

私は社畜の特徴は次の4点に集約されると思っている。

:会社という神の啓示がなければ何もやろうとしない時

私が「あ、この人は筋金入りの『社畜』だ」と感じるのは主に彼らの精神面についてである。

別にその人の地位が会社員なのか、経営者なのか、無職なのかは一切関係ない。

学生や非正規労働者にも社畜はいるし、会社員でも社畜ではない人もいる。

先ほども言った通り、私は別にすべての人が会社から経済的な自立をする必要はないと考えている。

会社勤めの良い所の一つは頑張らなくても毎月一定の給料を得られることである。

社畜の本質とは、文字通り、会社に飼われている家畜のことであり、自分では何もできない人のことだと私は思っている。

要するに、彼らは個人で人生の目標を立てたり、努力したりすることが全くできず、会社に所属して役割や立場を与えられて、初めて人としての存在意義を感じるのである。

もっと言えば、神の啓示(さらにえげつない言葉を使えば「ご主人様の犬笛」)である会社の命令がなければ何もできないのである。

これは大げさに言っているわけではない。

このような彼らにとっての「当たり前」がよく表れているエピソードを紹介する。

これは私が派遣社員として働いていた職場でのやり取りである。

社畜:「いつまでも、こんな仕事してないで早く正社員になりなよ!! 他に何かやっているわけでもないんだろ?」

早川:「学校には通っているわけではないけど、自主的に英語の勉強はしています」

社畜:「勉強ってwww、どうせ本を読んでいるだけで、別に大学の英語学部を出たわけじゃないんでしょう?」

早川:「はい。確かに英語学部を卒業したわけではありませんが、独学で英検準1級までは取りました」

社畜:「え!! だったら、何でこんな仕事をしているんだよ…」←文字の大きさは声の大きさを示す

いかがだろうか。

この社畜にとって勉強とは、学校や会社のような神に命じられることで、初めて行うものである。

このように、組織に所属せず、自分を高めるために自主的に勉強するという発想が欠如している。

きっと彼は、仕事以外のプライベートの場では、酒の飲むか、テレビを見ることしかできないのであろう。

他人から見れば実にバカバカしいのだが、本人はそのことに無自覚で、職場の指示待ち人間を偉そうな顔で批判している。

ちょっと事情は違うが、以前の職場でパートとして働く同僚女性が自分の夫に対してこんな不満を言っていたのを思い出した。

元同僚女性:「ウチの旦那は本当に料理ができない!! それは『包丁やフライパンを扱えない』というレベルではなく、家に食べるものがないから『お店に買いに行こう』とか『外食をしよう』という発想すら出てこないの!!」

それを聞いた時はその場にいた全員が大笑いしていたが、仕事人間が会社から離れたら何もできなくなるのは何も料理だけではないようである。

:銃後の守りを当然だと考えている時

タイミングよく夫の家事の出来なさを嘆く女性の話が出てきたところで、次は家事にまつわる話をさせてもらいたい。

「社畜」というのはモーレツサラリーマンとイメージが重ねられることが多い。

以前結婚に関する記事に書いたことであるが、そのような会社に尽くす働き方が可能なのは、「昭和の人」が現代人よりも体力的に強かったからだとか、企業に忠誠心を持っていたからではなく、すべての家事・育児・その他プライベートな面倒ごとの後始末をすべて引き受けてくれる専業主婦がいたからである。

そのため、社畜は全く家事ができない。

できないだけならマシである。

悪質なのは「誰もがこのような銃後の守りがあるものだ」と考え、無神経な発言をして人を傷つけることである。

以前、男手一つで子どもを育てている男性と一緒に仕事をしたことがある。

私は休憩中の雑談で彼が父子家庭であると知った。

その際、私は無意識に「大変じゃないですか?」と言った。

すると彼はこんなこと言った。

元同僚男性:「よく父子家庭では、『家事をやってくれる人がいないから大変だ』と考えている人がいるけど、少なくともウチは子どもも協力してくれているから、そこまで不自由を感じない。それよりも職場の理解を得ることの方が大変なんだ」

彼の考える「職場の無理解」とはどういうことか?

たとえば、同じ正社員でも、女性は家事や子どもの世話があるから定時で退社できるが、同じように家事や子どもの面倒を見なければならない彼は他の男性社員と同じように長時間労働に晒される。

それから、子どもが中学生になるまでは、子どもの体調が悪化したため、病院へ連れて行ってから出社することが何度かあり、よく同僚から陰口を叩かれることがあったらしい。

そして、毎回のように「親の助けは借りられないのか?」「早く再婚した方がいいんじゃないか?」などと遠まわしに「お前の家は欠損家庭だ!!」と言いたげな不満をぶつけられた。

彼はそのようなことが原因で会社に居づらくなり二度ほど転職した。

だが、彼が子どもの世話をするために定時で退社したり、会社に遅刻するのは親として、もっと言えば社会人として当然のことである。

それを「甘えだ!!」「わがままだ!!」と非難できるのは、決して彼らが仕事に責任感がある人間だからではなく、自分たちは妻やママから無償で家事労働を提供してもらって何不自由なく生活できているからなのである。

:人間らしい生活を営む権利は強者の特権だと考えている時

社畜という生き物は立場に敏感である。

それも単に強い相手には卑屈な態度でひれ伏すというわけだけではなく、強者の横暴や蹂躙に対しては何の怒りも感じないほど心の底から従順なのである。

随分と前のことなので、内容ははっきりと覚えていないが、英語の会話形式の例文で以下のようなやり取りがあった。

A「聞いたかい? ウチの社長は来週からバカンスでグアムへ行くらしいよ」

B「いいなあ。そういえば、僕はしばらくバカンスを取ってないなあ」

A「重役の中には、休日は完全にプライベートの時間を楽しむ人もいれば、今の僕たちのように休日返上で仕事に打ち込む人もいる。もしも、君がこの会社の重役になったらどっちを選ぶかい?」

B「もちろん、仕事から離れて家族との時間を大切にするよ。休日まで仕事をやっていたら、頑張って役員になる意味がないじゃないか」

A「そうだよね。以前外国の首相が育児休暇を取得したというニュースを聞いたことがある。日本でも彼のような社会的地位が高い人が家族との時間を大切にする手本を見せてもらいたいものだね」

B「賛成。そうしたら僕たちも益々仕事を頑張って、出世しようと思えるようになるだろうね」

アホか、お前らは!?

架空の物語にツッコミを入れても仕方がないのだが、思わずこう言いたくなった。

彼らが言いたいのはこういうことである。

「休暇とはそれなりの地位を得て初めて手にすることができる特権である」

「下っ端は休まずに仕事をしろ!」

「休暇を楽しみたいのなら、早く偉くなれ!」

見事なまでの社畜思想であるが、それは逆だろ?

責任のある立場の人間だからこそ、昼夜を問わず会社のため、社会のために身を捧げるべきであり、上役にプライベートなど必要ない。

逆に雑兵(ぞうひょう)は会社のことなど気にせずに自分の生活を大切にすればいいのである。

おそらく、先の文章を考えたのは筋金入りの社畜なのだろう。

どこまで強者に対して従順に飼いならされているのだろうか…

:契約よりも集団の和が大事だと主張する時

先ほどのケースで紹介した通り、社畜は立場の違いに敏感である。

そして、強い立場の人間がやりたい放題やっていても全く無批判、無抵抗に受け入れる一方で、立場の弱い(もしくは自分と同等の)相手が人間らしい生活を謳歌することには歯ぎしりをせずにはいられない。

彼らの論理では弱者は強者に対して、決して対等な立場で取引をしようと考えてはならず、常に顔色を窺わなければならない。

こんなケースを想像してみよう。

ある職場で上司が部下に契約外の仕事をやるように命じたとする。

それに対して、部下は「それは私の仕事ではありません」と答えて、仕事を断ったとする。

このような契約を盾にして、仕事を断ることは社畜にとっては極刑に値するタブーである。

そもそも部下に対してお願いするように指示を出すことにさえ嫌悪感を持つだろう。

以前、非正規外道論という言葉を提唱したことがあるが、彼らが非正規の仕事を「外道の仕事」とみなす原因の一つは、このように人と人の気持ちのつながりである聖なる職場を「契約」などという個人の権利を保護するための道具で汚すことへの怒りがあるのだろう。 

ちなみ、受け入れた場合であっても少しでも嫌な顔をしたり、妥協案を交渉しようとしただけでも、それは彼らにとって裏切りだと映る。

たとえ契約に反した一方的な要求であっても、「はい!! 言われたことは何でもやります!!」と強者のわがままに笑顔で応えることが彼らにとっての望ましい社会人の精神である。

「契約よりも協調性と集団の和」

一見もっともらしいが、私はこれを聞く度に何かに似ていると感じる。

長年都会で暮らした人が地方へ移住することに否定的な人の意見でこんなことを聞いたことはないだろうか?

地方移住否定論者:「田舎では契約よりも情緒的な人間関係や場の空気が優先されるから、身を護るためには有力者に媚びへつらって生きていくしかない。あなたはそんな屈辱に耐えられるだろうか?」

契約よりも集団の和を尊重すること。

これが地方生活の掟である。

なるほど。

これこそ、まさに社畜が理想とする関係ではないか!

というわけで、契約を盾にして集団の和を乱す社員のことを自分勝手な不満分子とみなす社畜の皆様は今すぐ都会の生活を捨てて、田舎(それも町の住人全員が顔なじみである辺境の地)へ移住しましょう!!

そこにはあなたたちの理想とする美しいユートピア、地上の楽園がありますから。

・日本型雇用は中途半端に壊れている

以上の4つが、私が「あ、この人は『社畜』だ!」と感じる時である。

このように私は「社畜」という言葉に対して、長時間労働に晒されたり、住宅ローンを返すために嫌な仕事を辞めることもできず、奴隷のように苦しんでいるというイメージはあまり持っていない。

どんな働き方をしているのかよりも、自分の考えや信念を持たず、常に誰かに依存して、相手の目に怯えているという精神面に特徴を感じる。

しかし、その依存の対象は会社に限らず、学校や(「共に生活する」という意味ではなく「法的に位置づけられた枠組みとしての」)家族のような社会的に認められた組織ということもあり得る。

彼らは一にも二にも、これらの組織に所属して、役割を与えられなければ一人で何もできないのである。

そして、所属する共同体を絶対視して、自分の人生をも委ねるのである。

ということは、必ずしも「社畜=サラリーマン」とは言えないのかもしれない。

さて、これまで意図的に「社畜」という言葉を避けてきた私が、ここであえてこのような記事を書いた理由は「会社の言うことに従っていれば自分の人生はとりあえず安泰」という前提を疑ってほしいからである。

今年に入って何本か結婚に関する記事を書いた。

私の大まかな主張としては

・今は社会状況が変化して、誰もが「従来の」とか「伝統的な」と呼ばれるような結婚ができる時代ではない。

・だから、幸せになるためには「従来の」結婚に固執せずに、各々が自分に合うライフスタイルを見つけるべきである。

ということである。

そんな中でも、特定の結婚や家族の在り方に執着して(原因が本人の分不相応な高望みにあるのか、それ以外の選択を認めない社会の側にあるのかは議論の余地があるにせよ)自縄自縛して苦しんでいる人がいる。

彼らは大抵、結婚や家族という制度上の役割がないとアイデンティティを持つことが出来ず、人から与えられた枠の中でしか行動できないのである。

そのため、目的と手段が入れ替わって結婚にご執心なのだが、誰もが結婚できるわけでもなく、結婚が一生の幸せを保証するわけでもない社会で、「結婚して何をやりたいのか?」という主体性もなく漠然と「結婚しなきゃ!!」と思っても、常に満たされない不満や不安に苛まれることになる。

だが、そんな人たちが幸せになれないことは火を見るより何とかである。

そのような人たちは、自分の存在意義を与えてくれて、いざとなったら自分を守ってくれる強大な力を持つ依存先が「結婚」や「家族」となるのだが、社畜はその対象が「会社」に変わっただけである気がする。

私は現在の日本では、日本型雇用は中途半端に壊れていると思う。(「中途半端に壊れている」という表現はこの記事で紹介した本から借用)

かつてのような絶対的な存在ではないが、それでも確かに私たちに影響を与えているのである。

たしかにこのご時世でも、年功序列や終身雇用といった「日本的な」会社は存在する。

しかし、今の自分が働いている会社もそうであると自信を持って言えるだろうか?

多くの人が自分の所属する会社はそんな力は残っていないと感づいていながらも、恵まれている会社に自分たちの会社を重ね合わせて、安心しつつも怯えているのではないだろうか?

結婚困難社会であっても、自分を守ってくれて、社会の承認も得られる「従来の」結婚に救いを求めフラフラと彷徨う人の多くが不幸になっていることと同じく、かつてのような強力な企業共同体がないにもかかわらず、漠然と自分を守ってくれる前提でいるのは危険ではないだろうか?

もちろん、それを分かっていっても、あえてそのような道を選択することは結構である。

社畜志願者:「私はこの会社の物(※:「者」の変換ミスではない)になると決めた!! たとえ奴隷のようにこき使われて、自分の家族を持つことができず、プライベートな幸福追求を捨てることになって、この会社のために忠を尽くす!!」

このような不退転の決意を持って、社畜道を進むというのであれば、たとえ裏切られたとしても後悔など微塵も感じないだろう。

だが、私が「法や契約よりも場の空気や有力者の気まぐれによって野蛮に統治されている集団」という意味では同じ穴の狢だと考えている「地方のムラ社会」のような閉鎖的な集団を拒絶するのであれば、社畜として企業共同体を絶対視することは不可能だと思う。

別に今すぐ会社を辞めたり、副業を開始する必要はないが、手遅れにならない内に、社畜思想から足を洗うことをおすすめする。

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