1ヶ月程前に「ペンパルサイトで出会った忘れられない人たち」というタイトルの記事に書いていたのだが、それを読んだ方からこのようなメールが送られてきた。
私としてはそんなつもりで書いたわけではなかったが、この方がそう感じたのも無理はない。
・人と違うからこそ記事になる
先の特集で取り上げたのは、一度も会ったことがない母親を探すために外国で仕事を探そうとする人や、日本の性産業に異常に詳しい女子大生、家族も友達もおらず、将来への悲観に満ちている中年男性など、確かに普通の生活を営んでいたり、楽しい話題でおしゃべりできるとは言えない人たちばかりだった。
相手に悪意があったり、怪しい人ではなくても、そのような人たちと知り合いになることに不安を覚えるのは自然なことだろう。
よくよく思い返してみると、これまでもこのブログではペンパルサイトで出会う人の負の側面に焦点を当てたり、他人とは違う人生を送っている人を特集することが多かった。
だが、当然のことながら、私が出会った人はそのような人たちばかりではない。
たとえば、この記事で紹介した2人の中年男性や、2年半ほど連絡を取り合っていたスペイン人の青年は、特に波乱万丈な人生を送っているわけでも、リアルでは人に言えない事情を抱えて生活をしているわけではない。
言い方を変えれば、ごく普通の人たちなのである。
もちろん彼らにも不幸は起きる。
なかなか就職できないとか、高齢の親族が亡くなるとか。
それではなぜ、先の特集ではそうではない人たちばかりが登場したのか?
その理由はいたって単純である。
平穏な暮らしを送っている人には、記事にできるような生い立ちもエピソードもないからである。
「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛むとニュースになる」という言葉があるが、まさにそれである。
・「自分とは生き方が違う」というだけで拒絶するのはもったいない
「平穏な生活を送っていても、彼らとのエピソードを集めれば、人となりを伝えることができる記事が書けるのでは?」と思う人もいるかもしれない。
だが、以下の記事のように、あらかじめテーマが決まっていて、それに沿う形で彼らから伝え聞いた話を登場させることはできるが、それでは人物像を描く記事としては成立しない。
また、この記事で紹介した人たちのようにオフラインで会うことになれば、たわいもない話でも十分に記事として成り立つが、彼らがメールで伝えてくれた何気ない日常のエピソードを集めてブログで書いたとしても一体誰が読みたいと思うだろうか?
「スペイン人の青年が日本アニメのコスプレパーティに参加した写真を見せてくれた」とか、「メキシコ人の大学教授が母親の誕生日プレゼントに何を送るべきか迷って、私に意見を求めてきた」とか。
彼らはたとえ私の記憶の中に残っていても、それだけでは「こんな人と出会った!!」というようにブログで取り上げる人たちではないのである。
だから、私が紹介した人が少し変わった人生を送っているからといって、ペンパルサイトで出会う人全員がそうだとは思わないでほしい。
しかし、これまでも何度か書いたように、リアルでの生活が充実している人ほど、短期間で離れて行くことは多い。
学生時代、テレビゲームで同級生に圧勝したら、負け惜しみなのか「現実世界が充実していない人ほどゲームに没頭できるから腕が上がる」と言われたことがあるが、それと似たようなものである。
ちなみに、「自分とは違う生活を送っている」といっても、それが直ちに「友達になれない」ということにはならない。
当たり前だが、彼らも生きている。
たとえ、暗い影を抱えていたとしても、私たちと同じように仕事や学校へ行き、家族がいて、世間話に花を咲かせる。
そんな人たちとつながることができるのがインターネットの良い所である。
自分とは生きる世界が違うという理由だけで、つながりを拒絶することは非常にもったいないことである。