・「告白」は英語で何というのだろうか?
以前、スペイン人の女性から日本の恋愛文化を教えてほしいと言われたことがある。
私はこの手の質問に対しては完全に門外漢なので、ネットで探した情報をそれらしく伝えようとしたのだが、その際に壁にぶち当たってしまった。
この国では交際を開始する前に告白をすることが一般的だが、その「告白」とは英語で何というのだろうか?
数年前のことだが、同じような状況で「告白」を英訳する時に「confess」と書いてしまい、相手に驚かれたことがある。
「confess」という単語は英検準1級の勉強をしていた時に単語帳で知った。
それ以来、私は「confess=告白する」と覚えていた。
今でもgoogleの翻訳機で「告白する」と入力するとそれが表示されるため、その認識は間違いではない。
だが、confessとはたしかに「告白する」という意味であるものの、それは「罪を告白する」のように、悪いことを正直に告げる時に使う単語であり、「恋人になってください」という思いを伝える時に使うものではない。
それでは、交際を申し込む際の「告白」とは、英語ではどんな単語で表現されるのだろうか?
結論から言うと……
分からない。
英語を母国語とする人にも改めて聞いてみたが、それらしい回答は得られなかった。
その理由は「付き合う時は告白する(しなければならない)」という習慣がないためだと考えられる。
海外の人も結婚する時はプロポーズ(propose)をするようであるが、交際する時点では「今日から私たちは交際しましょう」というような宣言をすることはないらしい。
私とやり取りをしていたスペイン人の彼女によると、スペインでは、友達としての付き合いから初めて、次第に仲良くなって、数ヶ月ほど経つと、どちらかが「私たちって、恋人って呼んでいいのかな?」と声をかけて、それで相手が認めれば晴れて(?)交際しているということになるようである。
私が日本語の「告白」に該当する英語を尋ねた人たちも同じような意見だった。
この記事にも書いたことだが、そもそも欧米では恋愛と結婚が必ずしも結びつくわけではなく、付き合うようになり、次第に「この人とは合わないなあ…」と思ったら、別れて、また別の人と付き合うことになる。
そのため、「結婚を前提にして付き合う」という言葉自体に意味がなく、交際を始めることに、そこまで大きな誓いは必要ないようである。
・告白が必要になったのは意外と最近のこと
この国では、告白せずに付き合うことに抵抗がある人が少なからず存在しているようである。
興味がある人はインターネットのQ&Aサイトでも覗いてみてほしい。
さて、ここまでの話では「告白とは日本独自の文化である」という流れになってしまうが、そもそも交際する前に告白をしなければならないというのは本当に日本の伝統文化なのだろうか?
最近、この本を読んだ。
荒川 和久(著)PHP新書
この本では現代の若者が結婚しなくなった理由について、様々な角度から考察しているのだが、その中に「本当に男たちは告白ができなくなったのか?」という通説に対する疑問がある。
男女とも8割が「告白ありきで恋愛がスタートすべきだ」と考えている2013年の調査結果が紹介されていたが、「そもそも付き合う前に告白しなければならない決まりとは、一体いつから始まったのだろうか?」と著者は考える。
著者は1963年生まれで、自身が青年期を過ごした80年代は、「付き合おう」と告白して交際を始めたケースなど本人以外の例でも聞いたことがなく、(「記憶が曖昧であるが」と断った上でだが)当時の月9ドラマでも登場人物が告白するシーンは記憶にないようである。
著者がメディアで「付き合う前に告白する」という過程を目にしたのは、87年「ねるとん紅鯨団」という番組で、その中に男女が集団でお見合いをして、最後に男が女に手を差し出して「よろしくお願いします」と頭を下げて告白するというプログラムが最初らしい。
90年代には「ときめきメモリアル」というゲームが流行り、これはゲームの中の女の子に告白して最終的にOKをもらえばゲームクリアというものだった。
それから、99年には「まず告白してから付き合う」というのがルールである「あいのり」という番組の放送が始まった。
ということで、著者は「付き合う前に告白が必要」という習慣が日本に広がったのは90年代からではないかと推測している。
「伝統」とか、「風習」とか、「文化」と呼ばれているものであっても、起源は意外と最近であるものはそう珍しくない。
たとえば、会社で働くお父さんが一家の大黒柱として生活費のすべてを稼ぎ、専業主婦のお母さんがすべての家事・育児・介護をすべて引き受けるという「近代的な家族」は戦後になって普及したものであるにもかかわらず、それこそが「日本の伝統的な結婚」と頑なに信じて疑わない人がいるが、それと似たようなものである。
・告白って本当に必要ですか?
「告白とは意外にも最近になって流行したものであるから、日本の伝統文化などではない」という批判は一先ず置いておくにしても、現代では必須のものであると考えている人が少なくないことは事実である。
さて、批判を覚悟で言わせてもらうと、私も告白は必須だとは思わない。
中学生や高校生(せめて大学生)までの若い人が告白をして交際を始めるという光景は微笑ましいかもしれないが、大の大人にはそんなもの要らない。
「どうしても告白が必要」だと考えている人の意見で、よく目にするのは
「自分の他にも付き合っている相手がいるのでは?」
という二股(もしくはそれ以上)をかけられていることの心配がある。
これは比較的まともな意見である気がする。
でもね……
二股をするようなゲス野郎は、たとえ告白しても平気な顔で浮気をしますからご心配なく。(いや、全然「ご心配なく」ではないが…)
他には「告白がないと、自分は付き合っているつもりで肉体関係を持ったものの、その後で、相手に『付き合っている気はなかった』と言われてしまう恐れがある」という理由がある。
いや、それはやる前に確認しなさいよ!!
告白必要派の意見で最も目にするものであり、同時に最も不思議だと思うものが「そんな関係は遊びと同じだから、恋愛ではない!!」という憤りなのだが、私には彼ら(彼女ら)の考える「遊び」と「恋愛」の違いはよく分からない。
以前書いた通り、「遊びは相手に飽きたら捨てればいいのだから、恋愛、しかも結婚を前提とした付き合いとは真剣度が全然違う!!」と考えている人もいるが、そもそも、なぜ彼らは「遊び」をそこまで軽蔑するのだろうか?
「もっと一緒にいたい!!」「もっと仲良くなりたい!!」という感情から遊びに誘うことの何がおかしいことなのだろうか?
むしろその方が自然だと思うのだが…
私が思うに、これは、彼ら(彼女ら)が
「遊び=肉体関係」
と認識していることによって生じているのではないかと思う。
彼らにとって「遊び」とは「性的な満足を得ることだけが目的」であり、その営みに特化した相手、すなわち「セフレ」、のことを「遊び相手」と呼ぶのである。
いや、そんな関係を「遊び」って呼んでいるあんたの方がよっぽど破廉恥だわ!!
・「友達」と「恋人」の違い
さて、「遊び」と「恋愛」の違いについては少々話がぶっ飛んでしまったが、これを「友達」と「恋人」に置き換えて考えてみよう。
その場合でも「友達になるためには告白など必要ないが、恋人になるためにはどうしても必要だ!!」と考えている人はいる。
以前、ポーランド人女性にこんなことを言われたことがある。
・ポーランド人女性
「恋人」と「異性の友達」の違いは相手を「独占」できる(される)かどうかにある。
男女の関係は排他的で、付き合う相手は互いに一人と決まっている。
一方で、友達の場合は、仲の良い相手が何人いても問題はない。
だから、「友達関係」では一人の相手と上手くいかなくなっても、他の人が面倒見てくれるため、孤立するリスクを分散することができる。
当時は面倒な女だと思っていたが、この視点は非常に分かりやすい。
友達と楽しく遊ぶことも、恋人と楽しく遊ぶことも、やっていることは同じかもしれないが、重要な違いは「自分と相手がお互いに特別(と言えば聞こえはいいが、要するに「排他的」)な関係」であるかである。
「相手は自分だけを見てくれて、自分だけを特別扱いしてくれて、自分のすべてを受け入れてくれる」
これが排他的な恋人関係なのである…
…って、それ恋とか愛というよりも「度が過ぎた依存」ではないのか?
この記事でも書いた通り、前近代社会は結婚したとしても、夫婦関係は地域や親戚のような共同体の一部に過ぎず、必ずしも相手に親密性を感じる必要はなかった。
そのため、経済生活の資源や、情緒的満足感、性的な欲求を満たしてくれる相手はそれぞれ別の人に求めることができたのだが、近代社会においては、そのすべてを生涯において一人の相手に求めなければいけなくなった。
排他的な関係が築ける恋人という考え方もこれと似ている気がする。
そして、恋愛にせよ、家族にせよ、排他的な関係性を求める傾向は近年より強化されている気がする。
だからこそ、事前に交際を承認するために告白が必要なのであるが、最初からそこまで排他的な関係を築くことを前提にすると、相手に求めるハードルが異常に高くなってしまう。
そのため、自然と仲良くなって、気がついたら結婚を考えていたというような関係は生まれず、「良い人がいない!!」と幻の理解者がいないことを嘆くのである。
そもそも、私には自分のすべてを肯定してくれる相手や排他的な関係性や追求することが正しいことかさえ疑問である。
以前、台湾人の女性に言われた通り、他人は皆自分と違って当たり前である。
たとえ親しい間柄であっても自分のすべてを受け入れてくれる人間など存在しない。
また、男が外で働いて女が家事全般をこなす性別役割分担家庭のようなものが、互いに支え合う関係の典型のように言われているが、支え合いと依存は違う。
よく未婚者を哀れむ言い方で、「結婚しなければ年を取ったら一人で悲しく死んでいく」というものがある。
ただし、たとえ結婚したとしても、事故に巻き込まれて同時に死亡してしまうケースを除けば、生き残った方は残りの人生を一人で過ごすことになる。
そんな状況になっても、「一人じゃ何もできないよ~」と子どものように駄々をこね続けるのだろうか?
結婚したとしても、生活の原則は自立である。
しかし、自立とは「誰の力も借りずに一人ですべてのことを行うこと」ではなく、「複数の相手に緩やかに依存すること」である。
「誰かを支える」とは特定の相手を過度に依存させて、生活のすべてを支えることではなく、「味方」になることだけで十分である。
そう考えると、「友達」と「恋人」を区別することに意味はなさそうである。
たとえ恋人になったとしても、守らなければならない排他的なものは性関係だけでよさそうな気がする。
・今日の結論
「付き合う前には告白が必要だ!!」と考えている人の意見はやっぱりよく分からん。