今日は8月30日。
翌31日と言えば月末だが、8月の最終日はただの月末ではない。
日本全国で多くの子どもが絶望に襲われている日である。
その理由は言わずもがな、夏休みの最終日であり、翌日から学校に通わなければならないからである。
非日常の楽しみが終焉を迎え、絶望に満ちた日常が戻ってくることは憂鬱以外の何物でもない。
明日から2学期が始まることに加え、この日に子どもたちが直面する悩みと言えば、宿題である。
毎日コツコツとこなせば簡単に終えられる量だが、休みの序盤、中盤と完全に怠けてしまい、終盤になって「そろそろやらなきゃ…」と思うものの中々重い腰を上げることが出来ず、最終日は家族に泣きついて夜中まで作業に追われる。
これも子どもにとっては夏休み最終日の恒例行事。
…のように言われることが多いけど、それって本当なのだろうか?
というのも、私は夏休みの最終日に宿題に追われた記憶がほとんどないのだ。
・最終日に宿題をしている人は不真面目ではない
憶えている限り、私が8月31日に宿題をしていたのは小学4年生の時だけである。
3年生までは家族の干渉があったり、付き合いがあった近所の同級生が優等生だった(この記事で登場したK君)こともあり、私も優等生のごとく余裕を持って宿題を終えていた。
4年生になると引っ越しにより付き合う仲間が変わったり、上の兄弟が中学生になり、監視も緩くなったことで、前年までとは環境が大きく変わった。
特に新しく付き合った友人の家には、当時私が所有していなかったテレビゲームがあり、その魅力にドップリと浸かってしまった。
その結果、夏休み終盤になっても遊びを止められず、最終日ですら宿題の大半が終わらない事態となっていた。
図工は得意だったため、自由研究の工作だけはすでに終わっていたが、「夏休みの友」みたいな嘘も甚だしい名前のドリルや、日記、習字等は全然だったため、家族総出で手伝ってもらっていた。
典型的なダメ小学生の姿である。
だが、今になって思うと、当時の自分は優等生とは言えないものの、まだ救いようがある方だという気がする。
だって、一応、宿題を提出しようという気はあるから。
高学年になると、担任教師が嫌いだったこともあり、水泳同様に完全に開き直って、ほぼほぼ未提出だったから。
この記事で紹介した町内会逃亡事件の件では、優柔不断な姿勢が悪い方に出たが、宿題に関しては、この時の姿勢の方がまだマシと言える。
というわけで、8月31日に宿題に終われている子どもたちには、決して不良ではないのだ。
・夏休み最終日に絶望しないための作戦
中学1年生の時は環境も変わったこともあり、心機一転、少しは真面目にやろうと思ったが、それでも期限までに終わらせることが出来なかった。
ただ、中学生の時は9月1日ではなく8月20日を過ぎ辺りの登校日が提出日だったので、31日に苦しむことはなかった。
もちろん、その登校日の前日は同様の苦しみを抱えることになったのだが…
それでも、休み明けではなく、10日ほど前の登校日に宿題の提出を求められたことで、未達成の課題はそこから31日までに終わらせればいいのだから、心理的には随分と楽になった。
もしかして、学校側は、私たち生徒が31日に宿題の提出と2学期の始まりというダブルパンチを回避するためのリスクヘッジとして、あえてそのようなスケジュールを組んだのではないか?
だとしたら、その先見の明には恐れ入る。
まあ、中学校の場合は、小学校の時ほど担任教師の守備範囲が広くなく、部活動などで時間も限られるため、そこまで多くの宿題が出されるわけではないが…
3年生の時に至っては、夏休みの後半が体育祭の自主練という名の強制労働に動員されたため、それに合わせて日記と作文くらいしかやった憶えはない。
もっとも、私は当時の英語の成績が悪過ぎて、高校受験が危ぶまれたため、同じく勉強の出来が悪い同級生たちと共に4日間の補習(補講)を受けさせられたわけだが…
ちなみに、私のクラスからは4人選ばれて、その中の一人はこのブログでも度々登場しているカンダ(仮名)である。
・補習が思わぬ救世主に!?
最後にその時の補習の話を少しだけさせてもらいたい。
補習への参加を通達された時は「夏休みが増えた(怒)」と思ったものの、その補習は思わぬ救世主となった。
もちろん、そのおかげで成績が向上したというわけではない。
先ほども、ちょこっと触れた通り、当時の夏休みの後半は「体育祭の自主練」という名目で、休み期間中であるにもかかわらず、無理やり学校に呼び出されて、暴走族でも赤面するようなダサい衣装を着て、共産主義国家のマスゲームを思わせるようなキモい踊りの練習をさせられていた。
しかも、応援団のリーダーは人を奴隷のように扱いながら、自分は「家庭教師の時間だから」と言って一人だけ練習を早退するゲス野郎だった。
今にして思えば、そんな最悪なイベントのために、最低のリーダーの下で行う練習などボイコットすれば良かったのだが、中学生の時の私は皆勤賞を目指していたため、ボイコットによって後の学校生活で村八分になることを恐れ、それが出来なかった。
そんな境遇だったため、4日間とはいえ、私は補習を受けるために練習を合法的にサボれるのだから、絶望の中の大きなオアシスとなった。
その上、補習を受ける場所は当時まだ非冷房だった教室ではなく、冷房完備の会議室だった。
補習はそれぞれの担当教師が授業形式で行うのではなく、宿題形式でプリントされた問題を私たちが解いていき、5人程の教師が巡回しながら、分からない問題を説明しながら一緒に解いていくという形だった。
彼らは自分の専門分野でなくても、私たち生徒と一緒になって問題を解いてくれた。
それに、おそらく無償労働だったと思う。
宿題の提出日についての配慮の件といい、彼らには本当に感謝の言葉しかない。
当時は何とも思わなかったが、そんな大人たちに感情移入できるようになったのだから、「私も歳を取ったんだな」と実感している。