真面目人間から卒業しても失ってはいけないものがある

私が前の職場を去ったのは今年の9月末。

まだ1ヶ月半しか経過していないが、2週間の失業期間があったり、新しい職場で多くの仕事を詰め込まれたこともあって、あそこを去ってもう半年ほど経過したような気がする。

振り返ってみると、仕事自体は単純な事務作業だったものの、それなりに成長できたと思っている。

同時に成長しても忘れてはいけないものも気付けた。

今日はそんな話をさせてもらいたい。

・遂に「真面目な人」からの卒業?

結論から言わせてもらう。

私が前の職場で「成長できた」と自己評価しているのは、在職中に上司や同僚正社員からある言葉を一度も使われなかったからである。

その言葉とは…

「真面目」

私はこれまで多くの職場を転々としてきたが、この記事で書いた通り、常に「真面目な人」、「一生懸命仕事をする人」と言われてきた。

だが、前の職場では真面目な勤務態度を評価されたことは一度もなかった。

ついでに「一生懸命仕事に取り組む」とも一切言われなかった。

念のために言っておくが、私は遅刻や欠勤の常習犯であったり、隣の席の同僚と仕事そっちのけでしょっちゅう無駄話をするような「真面目と呼ぶに値しない人間」だったわけではない。(少なくとも自分ではそう信じている)

「真面目」や「一生懸命」と言われなかった代わりに、こんなことをよく言われた。

「仕事を覚えるのが早い」

「安心して仕事を任せられる」

「今までの派遣社員の中でもかなりパフォーマンスが高い」

これは主に、部署内の交流イベントや退職を引き留める時、退職日の挨拶の場で掛けられた言葉なので、多少のリップサービスも含まれているだろうが、同時期に働き始めた派遣社員の同僚と比べて明らかに不公平と感じる程の仕事を押し付けられていたわけだから、それなりに頼りにされていたと思う。

手前味噌で恐縮だが、私が真面目と言われなかったのは、不真面目だったからではなく、仕事の評価の方が一生懸命取り組む真面目な勤務態度よりも上回ったからだと思っている。

思い返せば、私の後任スタッフ(過去にこの記事で登場)としてやって来た女性は、一切無駄話をせず、誰に指示されるでもなく自分からメモを取ったり、待ち時間には資料を読んでいたり、勤務開始から一週間経ってもリクルートスーツを着て出勤する程、絵に描いたような真面目で、謙虚で、ひたむきな人だった。

一方で、彼女はろくにマニュアルもなく口頭で説明が必要な業務を一回教えただけで完璧にこなし、働き始めて一週間も経たずに、派遣の担当業務では最も難しいと言われている仕事を私の同期よりもはるかに多く捌いてみせるなど、とてつもなく優秀な人だった。(しかも彼女は外国出身で日本語はネイティブではない)

「仕事が出来る人」と言われていたはずの私でさえ舌を巻く程だった。

私は勤務最終日にマネージャーから彼女へ仕事ぶりを訊ねられた時に「真面目な人」ではなく「仕事を覚えるのが早く優秀な人」と答えた。

もちろん、彼女が真面目で一生懸命仕事に取り組んでいることは、引継ぎをしていた私はよく知っていた。

それでも、評価をする時は「真面目な人」よりも先に「優秀な人」という言葉が出てきた。

このように「真面目に仕事に取り組むこと」はもちろん大事なのだが、「仕事のパフォーマンス」と比較した場合は後者の方が優先されることになるのだと思う。

つまり、仕事が出来る人であれば、たとえ真面目な性格であっても、「仕事が出来る」という評価が先に出て、「真面目さ」を強調される機会が減ってしまう。

私が「真面目」と言われなくなったのは、「昔に比べ、仕事をサボることを覚えた」からではなく、「真面目な人」からワンランク上に成長出来たからだと思っている。

・たとえ「仕事が出来る人」じゃなくても

私も30歳を過ぎているわけだから、「真面目」という評価だけではこの先なかなか仕事に就くことが難しくなることを薄々感じていたため、(真面目に働くことは大前提であるが)一段ステップアップして、そのことを強調されなくなったのは良い傾向なのだろう。

だが、勘違いしてはいけないことは「仕事が出来る人>真面目な人」というのはあくまでも職場という経済活動(もっと、ストレートに言えば「金儲け」)の場での話であって、「仕事が出来ること」があらゆる場面で人としての価値証明になるわけではないということ。

品性下劣で職業的立場を除くと、何の魅力もない人間が

「こんなに仕事ができて、高い年収を稼いでいる自分が結婚できないのはおかしい!!」

「世の中の男(女)はレベルが低すぎて自分の価値を理解していない!!」

と自身の恋愛や結婚が上手く行かない現状に憤激する浅ましい姿を目にすることは往々にしてある。

それは「友人や恋人、家族のような親密な関係もすべて市場価値で測られる」という思い込みから生まれるのだろう。

そのような人たちを見ていると「むしろ、『仕事ができる自分を受け入れて欲しい』という願望があるからこそ、純粋に人間関係を楽しむことができないのではないか?」(余計なお世話ながら)思ってしまう。

もっと言えば、「自分を認めて欲しい!!」という欲求ばかり先走って、優しさや思いやりといった他人と親密な関係を築くために最も大切なものが根本的に欠如しているのではないかと。

数年前、私は長期の派遣の仕事を二度目の契約更新の時点で退職したことがあるのだが、退職発表の翌日に同僚の女性から食事に誘われて、こんなことを言われた経験がある。(その時の詳しい話はこちら

「この会社に入った時は仕事が未経験だった上に、同じ年の人が一人もいなくて、ずっと心細かったけど、初めて同じ年の人(=私)が来てくれてとても嬉しかった」

「一緒にいてくれるだけで勇気づけられた」

「だから、辞めると聞いてとてもショックだった」

「この仕事が合わないなら、別の部署に移ってもいいから会社に残って欲しかった」

長期前提の仕事を短期で辞めるわけだから、私は仕事で全く彼女の力になっていなかった。

彼女はそんな私に対しても、こんな感情を持ってくれていた。

私は彼女の言葉を聞いて、「自分に何かの価値があるからではなく、純粋に自分のことを想っていてくれることや、自分の気持ちを一生懸命伝えてくれることがこんなにも嬉しいことなのか…」と感動した。

もしも、私が仕事をバリバリこなせる人間だったら、彼女から同じ言葉を掛けられても、同じような気持ちになれなかっただろう。

そのような純粋な気持ちや、ひたむきな姿勢の方が、仕事が出来ることよりもずっと大切なもの、すなわち宝物なのだと思う。

・成長の代償

同い年齢の同僚との話といえば、彼女とは別の人物とも今回のテーマに関連しそうな話をしたことがある。

かつて、所属部署は違うのだが、昼休憩で相席になることが多く、次第に世間話をする仲になった同い年の男性がいた。

彼は大学卒業後、子ども向けの学習支援サービスを行う会社で働いていた。

働き始めて数年は仕事に慣れないことも多く、子どもたちからは「先生」ではなく、「近所のお兄ちゃん」、要するに「少し年上の友達」のような接し方をされていた。

彼は自身のそんな姿を「半人前」と感じて、早く「一人前の先生」になれるよう努力をした。

その甲斐もあってか、20代後半になると、同僚から頼りにされることが増え、子どもたちからも徐々に「先生」として接してもらえるようになった。

それは彼にとって嬉しいことであったが、同時に、教え子たちが以前よりも無邪気に接してくることが減り、一抹の寂しさを感じた。

「今の自分は『先生』であり、もう以前のような『近所のお兄ちゃん』に戻ることはできない」

頭ではそう分かっていたし、何よりそれは彼が望んでいたことである。

しかし、彼は子どもたちとの間に壁ができたことで、「これがずっと自分が求めていた姿なのか…」と悩むことになった。

そして、失ったことで初めて、自分は子どもたちから「先生」ではなく、「お兄ちゃん」として慕われることの方が好きだったことに気付いた。

彼は自身の成長と引き替えにその立場を自ら手放したという葛藤に苦しみ、最終的には職を辞することになった。

仕事で認められることが良いことであるのは間違いないが、その評価はあくまでも社会の一場面であって、あらゆる場面で通用するものではなく、同時に失ってはいけない大切な存在もある。

彼の話も含め、今回の件から、そんなことを学んだのであった。

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