ブログを書くことで自分の中に生まれたもの

これは先日、職場の休憩中に起こった出来事である。

私が自分の席で休んでいると、課長がこんな話をしてきた。

課長:「早川さん、年末は実家へ帰るの?」

早川:「この状況なので、ずっとこっちにいます」

課長:「そう。ところで、出身はどこなの?」

早川:「部長と同じ、西日本の某県です」

課長:ふ~ん。そうなんだぁ」

たわいもない世間話だが、彼とこんな話をすることは初めてだった。

今の部長は10月から私が働いている部署に赴任してきた。

ちなみに、新入社員に仕事を教えるぞ編で、登場した課長は彼と入れ替わりで別の支店へ異動となった。

課長と先ほどの会話をしていると、近くにいた副長はとても驚いたようで、彼が離れた後、私にこんな話をしてきた。

副長:「早川君って課長とそんなことを話す仲になったんだ」

早川:「いいえ。あんな話をするのは今日が初めてです。何か良いことでもあったんですかね?」

副長:「あの人は意外と人見知りだから、あの程度の話をするだけでも数ヶ月かかるのかもね。早川君だってそうでしょう?」

早川:「え!! そうですか?」

副長:「だって、ニシヤマ君(以前、私が仕事を教えていた新入社員)に仕事教えていた時も最初は仕事以外の話を全然しなかったでしょう?」

早川:「そうですね。ハハハ…」

いや、あれは人見知りとかじゃなくて、私の仕事に関する座右の銘で「熱意は結果を保証しないというものがあって、自分のことを信頼できていない人に、なりふり構わず仲良くするアプローチをしかけても警戒されるだけだから、あえて距離を取っていたのですよ。

と言いたくなったが、「熱意は結果を保証しない」というフレーズは記事のタイトルにもなっているため、声を大にして主張できなかった。

・ブログからの逆輸入

先ほど紹介した「熱意は結果を保証しない」という記事は私の体験に基づいて書いたものである。

1つ目の例は、息子の大学進学の学費を工面できない男性の話である。

彼は比較的恵まれた貯金も持っている両親と同居していたため、彼女の妻は両親に学費の援助をしてもらえばいいじゃないかと提案したが、「一家の大黒柱である自分が(同居している)高齢の親から生活費を恵んでもらうなどとんでもない!!」というプライドが邪魔をして、それができずにいた。

そのため、奨学金を借りて、本人が卒業後に返済させるつもりであることを公言したことから妻と大ゲンカになった。

実は息子の進学以前から家計は火の車だったが、彼が親に生活費を負担させることを嫌っていたため、ボーナスの日まではサラ金から借金をして凌いでいた。

彼が信条としていることは「家族を守る」ということなのだろうが、その考えに執着することで、結果的に家族を経済的に困窮させることとなった。

2つ目の例は新しく入った事務員(20代・女性)にメロメロになった爺さんの話。

彼はその事務員のことがとにかく好きで、他人の手柄も彼女の手柄のように言いふらしたり、彼女の失敗を他人のせいにして、その尻ぬぐいの一切を押し付けるなど、度が過ぎた贔屓を行っていた。

その結果、彼女は職場の人間関係から孤立し、半年で退職することになった。

爺は「俺が彼女を守る!!」と意気込んでいたが、彼女が退職する原因は彼の贔屓が招いたものだと考えられるため、守るどころか、退職の引き金を引いていたことになる。

この2つから考えられることは、熱意を持って物事に取り組んでも、それが良い結果に結びつくとは限らないということである。

思えば、この記事で少し触れた「大義を見失って暴走するテロリスト」も同じなのかもしれない。

私はブログを書く随分前から、そういうことはなんとなく意識していた。

しかし、その「熱意は結果を保証しない」というフレーズは、ブログを書く際に思いついたものである。

同じように、以前からどことなく頭の片隅に存在していたものの、ブログを書くために文字を起こすことによって、思い浮かんだフレーズがいくつもある。

その中のいくつかは、私の心に留めておく程の格言となった。

つまり、ブログを書くことによって生まれたフレーズが座右の銘として私の意識の中に逆輸入されたのである。

今日はそんなブログを書くことで生まれた座右の銘をいくつか紹介したい。

・ブログから生まれた個人的座右の銘8

:「人に教えることは誰にでもできる仕事ではない」

登場記事:「人に教えることは誰にでもできる仕事ではない」という当たり前の考えができない人たち

「熱意は結果を保証しない」と同じく、新入社員に仕事を教える時に、常に自分に言い聞かせていた言葉。

「自分がやっている仕事だから、他人に教えることなど簡単なことだ」と考えている人が、本当にそうなのだろうか?

その理屈に従えば、義務教育を修了した人たち全員に小・中学校の教員免許を付与しなければならないことになるはずだが…

仕事を教える時も同じように、「相手はどんな人なのか」「どのタイミングでどの仕事を教えるべきか」といった洞察力や適切な距離の取り方といった判断が求められる。

その訓練を受けておらず、素人であることを自覚できない人間が、指導的立場を担うと組織は一気に崩れ落ちる。

:他人を説得する時は自分にとって心地いいロジックに溺れてはいけない

登場記事:他人を説得する時は自分にとって心地いいロジックに溺れてはいけない

相手を説得する時にやってしまいがちなことは、いかに自分が苦労しているか、いかに自分が評価に値する人物であるかを訴えて、相手の都合を一切考えないことである。

その結果、自分の身が破滅してしまうこともある。

:自分の中の怪物と戦うことができない人間に人の上に立つ資格などない

登場記事:「何がパワハラなのか」だけでなく、「どんな時に犯してしまいがちなのか」も教えるべき

人に教えることや他人の仕事を管理することは我慢の連続である。

「自分が苦しいのだから、人も苦しい思いをしてしかるべき」というのは自分が理不尽に耐えている強さの証ではなく、他人への思いやりを欠いた弱さである。

己の弱さと戦うことができない人間は人の上に立つ資格などないのである。

:「苦しい時こそ、自棄を起こすのではなく、しっかりしよう」

登場記事:あなたは眠れていますか?

と関係する話だが、人間の強さとは苦しい時の立ち居振る舞いで分かる。

仕事がつらい、頑張っているのに誰からも認めてもらえない、お金がない。

そのような時こそ、 自棄を起こすのではなく、しっかりしなければならない。

:やりたくないならやらなければいい

登場記事:アメリカで起こったブラックバイトの加害者の末路を教えてくれそうな事件の話

日本は法治国家である。

たとえ、人から受けた命令であっても、最終的には手を下した人間が責任を取らなくてはいけない。

つまり、アルバイトを奴隷のようにコキ使う「ブラックバイト」の正社員が免罪符として唱えている「自分も本当はこんなことはしたくない…」はこの社会では通用しない。

3度の飯より「自己責任」が好きな人たちはきっとこの考えに賛同してくれるであろう。

:人は誰かの隣にいられなくても「心の拠り所」になることはできる

登場記事:人は誰かの隣にいられなくても「心の拠り所」になることはできる

「自分は何の役にも立てないから…」と思っていても、誰かの力になることはできる。

極端な話だが、仲良くできなくても、隣にいられなくても、「この人は自分の味方だ」という安心感が生まれれば、それだけで生きる勇気を与えることができる。

出会った場所も関係性も全く異なる二人の同級生がそのことを教えてくれた。

100の幸福を与えることはできなくとも、1020の力を持つ仲間として喜びや悲しみを分かち合うことはできる

登場記事:外国人の自殺志願者と出会う③

近代的結婚では経済性も親密性も一人の相手に求めることが規範になっている。

しかし、そのようにすべてを満たしてくれる相手を見つけることができない人はどうすればいいのだろうか?

少なくとも、現代はかつてのように90%以上の人が結婚できる社会ではない。

かくいう私も、そのようなすべてを満たして、誰かの人生に責任を持つことなど恐れ多くてできないが、100の幸福を与えることはできなくとも、1020の力を持つ仲間として喜びや悲しみを分かち合うことはできる。

家族になれなくても、誰の力にもなれないとあきらめる必要はない。

:自立も自己責任も必要ない

登場記事:選択的夫婦別姓を通して見える「美しいひとつの家族」と「醜いひとつの家族」

「ひとつの家族」とは何だろうか?

たとえ、血のつながりも、制度のつながりもなくとも家族内で助け合うこと?

それとも、皆が同じ形の家族を作ること?

前者だというのであれば、思い切って、この言葉を叫ぼう。

去年、今年と4月の初旬に、新入社員へ贈りたい言葉(2019年編2020年編)を書いた時は読者へのメッセージをそれなりに意識したつもりである。

一方で、今日登場したフレーズは誰かに伝えることを意識して考えたものではなく、あくまでも、内容を引き立てるための補助線に過ぎなかった。

それが、気付いてみたら、自分を奮い立たせたり、身を律するための言葉になっていた。

これもまた、前回の記事の後日談と同じく、予期せぬ賜物だったのかもしれない。