「人に教えることは誰にでもできる仕事ではない」という当たり前の考えができない人たち

・アメリカ人指導者の不満

2週間ほど前に40代のアメリカ人男性が興味深い話をしていた。

彼の仕事は自社の従業員の研修を行うことなのだが、彼は「自分の仕事は人から良く思われていない」と感じているようである。

まあ、指導者とは時に人から煙たがられる仕事なので、それは仕方ないと思うのだが、彼の言う「自分の仕事は良く思っていない人」とは彼が指導している研修生ではなく、外部の人のことらしい。

アメリカには日本のような新卒一括採用などなく、中途採用で即戦力を雇うというイメージがあるが、さすがに新人が入社日からいきなり主力になれるわけではない。

そのため、従業員の研修が必要なのだが、彼の住んでいる地域では、日本語でいうところの「習うより慣れろ」の意識が強く、会社が給料を払いながら従業員の研修を行うということがあまり理解されないらしい。

学校じゃないんだから、先生役なんていなくても従業員は自分で覚えるでしょう?」

「え!? そんな仕事でお金がもらえるの?」

「仕事なんて、先輩と一緒にやっていれば自然と覚えるでしょう?」

というようなことを言われているようである。

こうして文字に起こしてみると、なかなかヒドイことを言われているが、よくよく考えてみると、同じようなことを言っている人は日本にもいる。

このような考えを持つ人の根底にあるものは

「自分が覚えたのだから、それを教えることは誰でもできる」

というものであるが、これが本当なのかはかなり疑わしい。

当たり前だが、「自分が覚えたこと」と「人に教えること」は全くの別のことである。

そもそも、自分が教育を受けただけで指導者の仕事もこなせるのなら、義務教育修了者全員に小中学校の教員免許を与えるべきだろう。

「自分が覚えたのだから、人にも教えることができる」とはそれくらい無茶苦茶な理屈なのである。

・「教わる人」は「教える人」の苦労を知らない

そもそも、「教わる側の人間」は「教える側の人間」の苦労を知らないことが多い。

以前の職場の同僚は大学入学時に「教師になる!!」という夢を持っていたのだが、こんなことを思って進路を変更した。

元同僚:「教育実習の時に気付いた。自分が学生の時に憧れていた『学校で子どもに教える』という仕事は教師という仕事の内のほんの一部で、大半は授業準備や職員会議、社会科見学や修学旅行の際にお世話になる外部の担当者との打ち合わせなどの事務仕事だったことに」

ちなみに彼が感じた教師の仕事の比率は「事務7割:授業・指導3割」だったそうである。

彼は自分が見ていた教師の仕事はほんの一部で、彼らがそのためにどれだけ準備に時間をかけていたのかを一切考えなかった。

そして、自分はそれを当然のように受け取っていたことに気づいた。

それを考えると、「自分には同じことはできない」と思い、教師になる夢を断念した。

仕事に対する理想と現実のギャップを表すエピソードであるが、「教わる人」が「教える側」の苦労に全く気付かずに、それを当然のように思っていたことがよく分かる話である。

「教えることが上手い人」とは、その技能を持っているだけではなく、

・この仕事は、どこで躓く人が多いのか?

・なぜ、この人はここを正しく理解できていないのか?

・この人にこれを教えるのは今の時点ではハードルが高いだろう。

・慣れていない人にこんなことを言ったらショックを受けるだろう。

などの「人に教えるため」の技能を持ち合わせている人のことである。

これらは他人からは気づかれにくいが、立派な技能である。

このようなことを考えると「人に教えることは誰にでもできる仕事」ではないことが分かる。

・無能な指導役が大量離職者を生む

逆に(教わる側は当たり前だと思っている)これらの技能がない人が指導者役になってしまうととんでもないことになってしまう。

これは別の元同僚から聞いた話である。

彼はその職場で2年ほど働いていたが、その間に合計で20人ほども退職したらしい。

しかも、その大半は後半の1年に集中していた。

彼曰く、前半の1年はごくごく普通の職場で、退職する人も「給料がいい職場に転職する」「家庭の事情で仕事が続けられなくなった」というようなごく普通の理由だったのだが、後半は明らかに流れが変わって、「仕事についていけない」と言って、2週間や1ヶ月のような短期間で辞める人が続出したようである。

彼の仮説では、ベテランの指導役が退職し、数少ない正社員も人手不足によって事務作業に追われたため、主任が最も信頼している(というよりも個人的に仲良くしている)10代のガキに指導者役を任せたそうなのだが、そいつがとんでもないクソガキであり、自分が主任に可愛がられていることを鼻にかけて人のことをバカにしたり、まだ仕事を覚えていない何十歳も年上の人を平気な顔で罵倒したりしていたようなのである。

そのガキは自分が仕事を覚えているだけであって、「人に教える訓練」を受けたわけではない。

そんな人間を「自分が最も仲がいいから」などという理由で指導者役に選んだのは、その主任の明らかな失態である。

この話を私に教えてくれた元同僚もこのような職場の派閥運用に我慢できずに退職した。

私も同じような職場で働いた経験があるので、その苦悩はよく分かる。

指導者としての訓練を受けていない人物を安易な理由で指導者ポストに就かせると、どうなるのかがよく分かる事例である。

ちなみに彼は退職後、その職場の人間とは一切連絡を取っていないので、そこがその後どうなったのかは詳しく知らない。

しかし、彼がその職場の前を通ると、以前は稼働していた時間でも建物の明かりが灯ることは無かったらしい。

・「名選手は必ずしも監督にあらず」はスポーツ界だけではない

スポーツの世界に「名選手は必ずしも監督にあらず」という言葉がある。

名選手は才能や周囲のサポートに恵まれた人であることが多い。

そして、自分はそれを当然だと思っていたから、それらの資産を持たない自分とは違う人の気持ちが分からずに、「自分はこれで成功したのだから、お前もできるはずだ!!」と強引な指導をして選手を潰してしまう。

この意見にはほとんどの人が賛成すると思う。

しかし、そのような人たちでも、なぜか仕事に関しては「自分が覚えたのだから、人にも教えることができる」と思ってしまう。

「自分はこうやって仕事を覚えたのだから!!」などと、くだらない(本人にとっては重要なことなのだろうが)成功体験を持っているのかもしれないが、以前の記事に書いたように、「仕事ができる人」とは自分が優れた能力を持っているわけではなく、周囲の人のサポートを「当たり前」だと思って受け取っているだけであることが多い。

それに気づかない人間が会社でそれなりの地位に就いてしまうと、私の元同僚が話してくれた職場のように悲惨なことになってしまうだろう。

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