およそ1年前にペンパルサイトで韓国人の男性と知り合った。
彼は非常に日本語が堪能で、当初は私も日本語を書いた後に英語も加えていたが、現在のやりとりは日本語のみで行っている。
彼は日系の企業に勤めていることもあり、私たちは主にお互いの国の職場の規則や慣例について話をしている。
これまでも外国人と日本語でやりとりをすることはあった。
だが、職場や、政治、社会問題について日本語で深いやりとりをするのは彼が初めてである。
そのような話を日本語でできるのは私にとって幸運であるが、最近そのことで少し後ろめたい気持ちが生じてきている。
・彼はそんなこと求めていないと分かっているが…
たとえば、彼は職場の給料形態について不満を言ったことがあった。
決して裕福とは言えない家庭で育った彼は高校卒業後、残業時間が100時間を超える劣悪な労働環境で働きながら短大を卒業した。
その後の彼は転職を繰り返すことで職歴を積み、現在は医療機器の品質管理の仕事に就いて、本業だけでなく社内の通訳業務も引き受けている。
また、私に原価計算に関する日本語を尋ねたりすることから、多彩な業務をこなしているものだと思われる。
そんな彼が納得できないのは、自分の給料が新卒で入社したばかりの大卒者と同じであることである。
彼によると多くの韓国企業では学歴と勤続年数はある程度考慮されるものの、基本は個人のパフォーマンス、つまり上司の査定に大きく影響される。
だが、彼の勤め先は日系企業であり、給料は俸給制を採用している。
我々日本人にはなじみが深い制度であり、そこで重要視されるのは個人の業績よりも学歴と勤続年数である。
そのため、彼のように他社での職歴があっても、その会社で働き出して間もなければ、最下層の身分として扱われ、当然給料もそれに準じた額になる。
実際、最近になって彼の所属する部署に大学を卒業したばかりの新入社員が配属されたが、給料の額は彼と同じらしい。
他社であっても、その職種の経験があり、仕事ぶりでは新卒者に負けるわけがないと自負している彼はこのことに納得できず、自分の経験や能力を評価して、給料に反映して欲しいと思っている。
彼の言い分はよく分かる。
しかし、この記事で書いた通り、「給料は能力で決められるべきだ」という考えは非常に危険であり、彼にもそのように伝えた。(断っておくが、私は「日本的」と呼ばれている「年功賃金」を全面的に支持しているわけではない)
また、日本社会に詳しい彼は日本では少子化が問題になっていることを知っており、私にその原因を尋ねた。
ちなみに韓国も同じように少子化の問題が深刻化しており、彼は経済の悪化と自称フェミニズムの台頭がその原因だと考えている。
それに対して私はこの記事に書いた通り、どれだけ社会が変化しても、特定の時代にしか適応しないモデル以外の結婚を頑なに認めないことが原因であり、この現状を打破するために結婚制度を廃止するべきだと答えた。
こちらの意見にも同意できないからなのか、彼の返信は数日後だった。
まあ、私としても彼が期待しているであろう答えではないことを想定していたため、別に驚きはしない。
これは私の考えなのだから、彼が私の意見に同意も納得もしなくても全然かまわないと思っている。
ただ、私はたとえ「彼がこの言葉を求めているわけではない」と分かっていても、自分が思ってもないことに同調することはできない。
そのような考えから、あのような長文で自分の意見を主張しているのだが、最近は妙な迷いが生じてきている。
私は母国語である日本語で文章を書いているが、彼にとって日本語は外国語である。
それだけでも私にとっては大変なアドバンテージがある。
もしも、「あのような文章を韓国語で書け」と要求されたら、私にはできない。
だとしたら、日本人の私に日本語で文章を書いてくれている彼に敬意を表して、自分の意見や立場ばかり主張しないで、多少は彼の気持ちも汲むべきではないのか…
・聞きたいことはそれじゃない!!
思い返せば、これまでに英語圏の国の人と英語でやり取りをする際に、不公平感を感じたことがある。
こっちは細かいニュアンスの違いや英語に無い日本語を伝えたい時の言い回しの選定に苦労しているのに、なぜ彼らはこちらの苦労も考えずに母国語で好き勝手なことが言えるのだろうか…
実例をいくつか挙げたい。
昨年、英語の「Do you want to~?」は「~をしたいですか?」という意志の確認だけでなく、「~してもらえますか?」というお願いの意味もあることを紹介する記事を書いたのだが、投稿前にイギリス人やアメリカ人といった英語のネイティブスピーカーから話を聞いて確認することにした。
その際に一人のアメリカ人と全く話が噛み合わなかった。
先ず彼は「Do you want to~?」は「リクエストする際に使う」と答えた。
それは私の認識と同じである。
ここで私が確かめたいのは、それが「自分のリクエストを伝えている?」のか、それとも「相手のリクエストを確認しているのか?」である。
そこで、私は彼にこんな質問をした。
あなたが、家族の誰かに「Do you want to go shopping with me?」と聞いたとします。
それは「I’d like you to go shopping with me?」と同じ意味なのですか、それとも「Would you like me to go shopping with you?」の意味なのですか?
それを聞いた彼は「両方の意味がある」と答えた。
いや、だから両方の意味を含んでいても、私が家族や友人から「私と一緒に買い物にいきたいですか?」と希望を尋ねられただけの場合と「私と一緒に買い物に行ってくれませんか?」とお願いされた場合では、答えに違いが出てくるのだが…
さらには「疑問文だから文頭にDoを使う」などと、当たり前のことをドヤ顔で講釈を垂れる始末。
これでは全く話が通じない。
その上、「あなたは何が聞きたいのか分からないよ」とまで言ってくる。
この傲慢な男には私が慣れない外国語を使うというハンデを背負い、自分は何不自由しない母国語を使うというアドバンテージがあるという発想が全くない。
これでは埒があかん、というよりもこれ以上彼と会話を続けたくないと思い、切り上げようとした。
最後にこんなやり取りがあった。
Is everything OK?
早川:「I can’t say everything is clear, but The argument is over.」
Oh. Which won?
勝ち負けの問題じゃねえし!!
・アメリカ人にとって「flu pandemic」とは?
また、別のアメリカ人とはある単語を巡ってこんなやり取りがあった。
きっかけは家族と旅行へ出かけた彼が写真を送ってくれたことである。
このご時世だから当然なのかもしれないが、彼らはみなマスクをしていた。
コロナ発生以前は「アメリカ人はインフルエンザが流行している季節でもマスクを付けない」というイメージを持っていた私は、それが事実であるかを知りたかった。
その文中で、「インフルエンザの流行」のことを「flu pandemic」という単語で説明した。
すると彼がこんなことを言ってきた。
私は冬になると毎年のように流行するインフルエンザのことを言っているのに、「その時は生まれていない」とはどういう意味なのか…
ひょっとして、彼は私がスペイン風邪のことを言っていると思っているのか?
そう思って確認してみたのだが…
No, that is Spanish flu.
早川:「I see. So which influenza are you calling influenza?」
flu pandemic is the influenza pandemic.(←「flu」とは「influenza」の略称)
それが分からんから聞いているんだろうが!!
ちなみに、私がインフルエンザが世界的に流行した歴史が書かれているWikipedia(もちろん英語版)のリンクを貼って「あなたが言っている『flu pandemic』とはどれですか?」と聞いた結果、彼の考えている「flu pandemic」とは「H1N1亜型インフルエンザ」のことであり、1920年にアメリカで流行したインフルエンザの流行らしい。
何とか資料を動員することで、認識のズレを修正できたが、「それって、通常であれば、ネイティブのあんたが、英語を理解できていない非ネイティブの私に対して、やることじゃないのか?」と呆れた。
というよりも、
要するに、それってスペイン風邪じゃねえかぁぁ!!!
・答えはまだ見つかっていない
散々文句を言ったが、この程度の配慮のなさであればまだマシである。
これまでも、英語のやり取りになれていないかもしない非ネイティブの私に対して、即レスや会話をリードすることを求めるネイティブもいたし、日本語を勉強したいから英語で日本語を教えろと要求するネイティブもいた。
100歩譲って、彼らが私と同様に英語の非ネイティブであれば、それでいいのかもしれない。
だが、彼らは母国語を使うため、考えることにも、文章を作ることにも何不自由しないというアドバンテージがあるにもかかわらず、なぜそこまで甘ったれているのだろうか…
今の自分がそのレベルまで落ちているとは思わないが、「私が日本語で文章を書いてくれる彼に対して行っていることは、これまで自分が苦しめられてきた配慮を欠いたネイティブの傲慢さと同じなのではないか」という気がしてきた。
とはいえ、自分の考えを伝えずにただ彼の意見に同意することだけが果たして正しいことなのかは分からない。
今の私はどうするのが正解なのか…
その答えはまだ見つけ出せていない。